第8話 新たな一日の始まり

 熱が下がって三日目の朝。


 ようやく全快した。


 いつものように、陽が昇るよりずっと前に起き出す。


 使用人たちは夜が明け、少しして起き出すから、洗濯場を使いたいなら、それより前に済ませなければならないのだ。


 屋根裏部屋の窓という窓を開け放つと、室内の湿っぽい空気が吸い出され、夜明け前のひんやりと澄み渡った空気が流れ込む。

 春先のまだ冷たい、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。途端に気力が沸いてきた。


 気持ちを入れ替えて、鏡を見ながら身嗜みを整える。

 乱れた髪をクシで丁寧に梳かし、後ろでひとつにまとめ、お団子のように結い上げる。

 顔を覆っていた髪がすっきりしたので、怪しい雰囲気は少しだけ緩和されたように思う。

 相変わらず、髪は不吉な闇色。瞳は泥のように濁っている。

 青い春はとっくに諦めたとは言え、一応、お年頃である。自身の醜さを目の当たりにすると、やはりどうしても気分が沈み、思わず鏡から目を背けた。


 しかし、生まれついての器量のことで思い悩むのは、もうやめることにする。


 たしかに、この容姿では、結婚や、誰かに愛されることは難しいだろう。

 それでも、何かの役に立つことくらいは、できるかもしれない。


 服は、そもそも同じ種類のものを三着しか持っていなかった。

 十歳の時に一人になってから、一枚も新しいドレスを買っていない。

 サイズが変わるたび、屋根裏にあった古い暗幕を使い、自分でドレスに仕立てている。

 

 髪と瞳は、父からきつく言われた通り、やはり隠した方が良いだろう。


 ――『伯爵家の面子は、守らなければならないからね』


 あの日、父に言われた言葉は、ずっと胸に居座り続けている。事あるごとに、耳の奥で響いてこの心をたしなめる。


 母が産んだはずのわたしが、伯爵の実子でないと知られたら、ロンサール家は醜聞に晒されることになるだろう。

 ブランシュの輝かしい評判と名声を、わたしの為に貶めるのは避けたい。


 人目につく時は、顔の上半分を隠せるようにベールのついた帽子か、フード付きのマントを被る。

 少なくとも、『リリアーナ・ロンサール』である間は、この髪と瞳は生涯、隠し続けるのだ。

 鏡に映る黒い瞳を見つめ返し、強く頷いて心に誓う。


 身嗜みが一応、整ったところで、次は家事に取り掛かる。


 

 シーツやカーテン、クッションに至るまで、洗えるものは全て取り外し、階段を使って階下の洗濯場に持って降りる。


 ――心を入れ替え、人の役に立ちたい、と漠然と思っても、具体的に何をすれば良いのか?


 わたしは父の子ではない。

 それなのに、いつまでも屋敷に居つき、ブランシュや使用人に迷惑をかけていることが申し訳なくてたまらない。

 本当は、ここを出て行くべきなのだろう。


 少なくとも、この国、ローゼンダールにおいては、女性が外で働いて生計を立てる術は、ほとんどない。


 常識として、仕事とは男性がするもの。女性はその庇護を受け、家庭に居るものなのだ。

 働く必要がある場合、身元がしっかり保証されていれば、貴族の屋敷で使用人として雇ってもらえる。それ以外の者は、酒場や宿屋で身売り同然に働くことになる。


 ごく稀に、女性でありながら騎士などの専門職に就き、男性と同じ土俵で活躍している人もいる。しかし、それはほんの一握りの人に過ぎない。


 ――住み込みのメイドとしてどこかの屋敷で雇ってもらい、ここを出て行くことはできないだろうか? 

 女性が自立することは難しいとわかっていたが、駄目で元々。


 そう思って、以前、王都にある職業斡旋所、というところを尋ねてみたことがある。



――『はあ、経験なし、身元保証なし、紹介状なし、ねえ……。まあ、難しいね、それじゃ、どこも雇ってくれないだろうね。誰か、紹介状を書いてくれそうな人、全くあてがないわけ?』

 

 窓口の若い男性は、気怠げな顔に微かに冷笑を浮かべた。

 ふるふると首を横に振ると、男性は、途端に面倒そうに顔をしかめ、はあーっと大きな溜め息をついた。


『ま、とりあえず、そのフード脱いで顔見せて。見目が良けりゃ、なんかあるかも』


 見目が良ければ、と聞いて、無理だと落胆しながらも、言われるままにフードを外した。


 若い男性は、ちらりと顔を上げて、すぐ書類に目を落とした。今度は、がばりと顔を上げ、目を見開いて、わたしの顔を凝視した。


 よほど醜くて驚いたのだろう。

 数分とも思える長い間、目をいっぱいに見開き、顎が外れるのではと心配になるほど大きく口を開け、わたしの顔を見つめた後、男性の顔は、茹でダコのごとく真っ赤になった。


『いや……いや、お嬢さん、何か……何か、訳があるんでしょう? 僕が、こ、この僕が、ご相談に乗ります。と、と、と、とりあえず、お宅まで送って行きますから、まずはご両親にご挨拶して……いや、その前に手土産を買いましょう……! いや、違う! そう! 僕、今日はもう上がれますから、ここで、ここで待っていてください! すぐ、すぐに用意してきますから!』

 

 若い男性は慌てたようにそう言うなり、ばたんと勢いよく『終了』と書かれた札を立てた。まだ午前中の早い時間にも関わらず閉じられた窓口を見て、背後の順番待ちの列から不満の声が飛ぶ。


 足をもつれさせるように慌てて席を立ち、上司らしき男性と交わされる、


『熱があるんで早退します!』

『……っ顔が真っ赤じゃないか! だっ、大丈夫か!? 早く帰った方がいい!』


 という遣り取りを横目に、わたしはもちろん、急いで逃げた。


 親切心溢れる窓口の男性には申し訳なかったが、当然、偽名だったのだから、家まで送ると言われても、屋敷に案内できるはずもない。


 他の斡旋所にも行ってみたが、そこでも、この顔を見て憐れんでくれるけれども、家まで送って行く、と言うばかりで、仕事は紹介してもらえなかった。


 駄目で元々――と覚悟していた筈なのに、自分でも驚くほど落胆した。


 そもそも、『リリアーナ・ロンサール』という悪名高い伯爵令嬢の本名を明かして働けるはずもない。

 身分を偽っていても、雇ってもらえるかもしれない――などという考えが甘すぎた。


 第一、よくよく考えてみれば、身分を謀って就職するのは、立派な犯罪である。


 ――外で働くことの難しさ、自分の甘さが身に染みた。


 思い出すと、大きな嘆息が落ちた。


 いや、くよくよ思い悩んでいても仕方がない、まずは、目の前の仕事を片付けよう。


 屋敷はまだ、寝静まっていた。


 音を立てて、疲れている使用人を起こしてしまわないよう気を付けながら、洗濯物を抱えたまま、階段を忍び足で降り、勝手口から外に出れば洗濯場に辿り着く。


 冷たい水を張った桶に汚れものを全部入れて、洗剤と重曹を使ってごしごし洗うと、汚れがみるみる落ちていき、爽快な気持ちになった。


 洗濯が終わると、道具を元通りに片付けた後、屋根裏の張り出し窓に皺を伸ばすように干し、風で飛ばないように重り石を置いて留める。


 屋根裏の良い点は、風通しも日当たりも抜群に良い、ということだ。数時間もすれば、すっかり乾く。ついでに眺望も良い。物事はいつだって、悪いことばっかりじゃない。



 次に、掃除に取り掛かる。床を隅々まで掃き清めながら、考える。


 夢の中で、老人は言った。


『これからは、自分のしたいように生きるといい』


 何よりも望むことなら、決まっている。


 ――ブランシュと、話したい。


 ブランシュは先日、晴れて婚約が決まった。


 ――と翌日の新聞で、知った。



 せめて、婚約を祝う言葉くらい述べたい。 


 ――のであるが、全くその機会がない。


 同じ屋敷に住む姉妹なんだから、そのくらい、何時でもできるでしょ? と多くの人が考えるに違いない。


 ところが、今のわたしの状況は、拗れに拗れまくっていた。

 今ではもう、ブランシュとの接点など全く無い。


 ブランシュは一日のうち殆どを、外出か来客に当てている。

 たまに在宅していても、周りを騎士と侍女に取り囲まれている。


 彼らは、わたしの姿を遠目に見つけると、ささーっとブランシュを守るように取り囲み、どこかへ連れて行ってしまう。

 しかも、屋敷の中で、わたしが出入りを許されているのは、屋根裏、図書室、庭園、廊下だけ。


 ――姉に「おめでとう」と言う。


 たったそれだけのことが、気が遠くなるほど、難しい問題ミッションだった。


 溜め息を零しながら、古新聞を使って、窓ガラスを真っ透明に磨き上げる。


 ブランシュはもうすぐ、結婚してここを去る。そうなったら、もう姿を見ることすら叶うまい。


 その前にせめて、「おめでとう、幸せにね」くらいのことは言いたい。


 床や壁、棚の上にいたるまで丁寧に磨き、照明器具も丁寧に拭きあげた。


 最後に、広大な庭の一角で群生していた白く可憐な花をつけた水仙を一輪と、班入りのアイビーを少し切ったものを花瓶に差して飾る。


 部屋をぐるりと見回して、満足気に頷いた。

 屋根裏とはいえ、伯爵家の邸宅なので、もともと使われている素材は良いものだ。

 天井には黒く太い梁がわたされ、床はヘリンボーン模様の寄木張りで仕上げられている。

 木製の家具は古めかしく流行りではないけれど、どっしりと落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 何より、どこもかしこもピカピカに磨き上げたので、窓から差し込む光を反射して、明るく寛いだ雰囲気になった。


 ――ここはここで、住めば都である。


 一人で達成感に浸っていると、部屋の外からコンコンと控えめにノックする音が聞こえた。


 驚いて、弾かれたようにドアの方を見る。


 ――今、ノックされたのは、この部屋のドア?


 信じられない心持ちで、ドアをじっと見つめながら、このドアが、最後にノックされたのは何時いつだったかと、記憶の引き出しを探る。


 確か、従兄弟のランブラーが屋敷に来たことを、当時の執事が知らせに来た、十三歳の時以来だった。実に、四年ぶり。


「はい、少々、おまちください」



(一体、何事だろう?)



 訝しく思いながら、髪と瞳を隠すため、そっとマントを羽織った。

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