第7話 天国での反省
わたしの意識は、深い闇の中へと落ちていく。いや、浮かんでいるのかも知れない。ふわふわふわふわ。綿毛のよう。
落ちても、落ちても、何も見えない。
どのくらい落ちただろうか。ようやく見えたのは暗闇の底に小さく煌めく、光の粒。
近付くにつれて、光の粒はどんどん大きくなる。
やがて、光は目の前いっぱいに広がり、この身体を包みこんだ。
光の中を、ひらひらと舞うようにゆっくり落ちて行く。
視界が開け、見たこともない場所に、ふわりと降り立った。
群青に冴え渡る空。緩やかに流れる風には優しい光が交じる。色とりどりの花が咲き乱れる足元から、馨しい香りが立つ。
近くから聞こえるのは、優しい川のせせらぎ。
どこまでも、どこまでも、四方に果てしなく、ただ同じような景色が続いていた。
いつか、本で読んで空想した天国の風景みたい。身体が軽い。さっきまでの苦しみが嘘みたい。
ああ、そうか……。
「死んじゃったんだ……」
ひとりで、そっと呟いた。
――誰もいなかった。
死後のその先でさえ、わたしを待っている人はいなかった。
せせらぎに誘われるように川に近づき、覗き込む。
澄んだ川の底には、水晶のような透明に輝く小石がぎっしり。水面には、さっきまでいた世界が写っていた。
(ブランシュが、泣いてる……)
「ブランシュ……」
川面にそっと手を触れると、さざ波が立つ。
涙を流すブランシュの肩に優しく手を置く、ノワゼット公爵の姿が見えた。
「泣かないで、ブランシュ。妹さんのことはお気の毒だが、これからは僕が、ずっと貴女の側にいる。一生、支え続けるから……」
「妹は……リリアーナは、最後までわたしを嫌っていたわ……」
「大丈夫。もう、妹さんのことは忘れて新しい幸せを築けばいい……」
――ちがうわ! ブランシュ、嫌ってなんかいない! いつだって大好きだった!
水面に向かって叫んだが、水はただ小さく揺らめくだけで、声を届けてはくれなかった。
きゃはは、とメイドたちが笑っていた。
「屋根裏の魔女、やっといなくなって、せいせいしたわね」
「ほんっと、ばったり会うと縁起が悪いって、親指を隠さずに済むわ」
「やっと、あの気味の悪い女がいなくなってくれて、助かったわ!」
「生まれてこない方がいい人って、いるものねえ」
――孤独だった。
寂しくて、たまらなかった。
迷惑をかけないように、言いつけを守って、人に関わらないで生きてきた。
だけど、わたしの十七年はぜんぶ無駄だったようだ。
――こんなことなら、生まれてこなきゃ良かったな……。
涙がぽろりとこぼれ出たので、両手で顔を覆う。
「自分の居場所を作ろうとしたかい?」
背後から声をかけられて、ハッと振り向いた。
そこには、あの雨の林の中、白昼夢で会った老人が立っていた。
光の世界にあって、その老人の存在は異質だった。
数えきれぬほどの皺が刻まれた、生気のない青白い顔。突き出した頬骨。吊り上がった眉と獲物を狙う鷹のように眼力鋭い眼。鴉の羽のように真っ黒な外套を身に纏った老人の周りには、仄暗い影のようなものが蠢いていた。
驚いて何も言えずにいると、老人は静かに口を開いた。
「もっと、欲を張ったって、良かったんだよ」
その老人の様子は、とても恐ろしかった。
だけど、わたしを見つめるその瞳はひどく思いやりに満ちていた。
言われて、そうだったのかもしれない、と思う。
ただ、父に命じられたことだけを守り続けた人生だった。
もう一度、やり直せるなら……。
――でも、もう遅い。
「……でも、何もかも、手遅れになってしまいました」
そっと呟くと、老人はその鋭く吊り上がった目を柔らかく細めた。
「お嬢さんに、約束しただろう。願いを一つ、叶えてあげると」
ぽかんとするわたしを見やり、老人は続ける。
「……昔は、それこそ何だってできたんだがね。今はもう、そんな力はない。それもこれも、あの……。いや、まあいい。これくらいは何とかなるさ。そうと決まれば、さっさと済ませよう。ここは……どうにも眩しすぎていけない。早く向こうに戻らねば、目が潰れそうだ」
眩しそうに目を瞬かせながら、しわがれた声で老人は言い、その骨と皮だけに見える右手を上げ、わたしの方に伸ばした。
ドンッ――
老人の手は間違いなく、わたしに触れなかった。
なのに、その手から見えない何かが飛び出したかのように、思い切り肩を突き飛ばされた。
あっと思う間もなく、わたしは川の中に落ちた。
ざぶん、という水音とともに、冷たい水に包まれた感覚が全身を包む。
「これからは、自分のしたいように生きるといい」
青白く光る泡が、立ち昇り消えゆく川面の向こうから、老人の声が聞こえた気がした。
§
「……っっはあっ!」
陸に上げられ、息のできない魚のように大きく口を喘がせ、目が覚めた。
そのまま、はあはあと、浅い呼吸を繰り返す。
肺に取り込まれた酸素が、四肢に行き渡る感覚を覚えた途端、夢を見たのだ、と気付いた。
見上げると、屋根裏の天窓から覗く満月が、明るく部屋を照らしている。
ベッドから起き、立ち上がると、背中に鈍い痛みが走る。
気怠い体と頭を持て余して立ち眩み、ベッドの淵にぺたりと座り込んで手をついた。
「生きてる……?」
――怖い夢を見た。
全身が、汗でびっしょりと濡れていた。
夢の中では、わたしが死んでも、誰も困らないし、悲しまなかった。
……だけど、それは、自分のせいかもしれない。
ブランシュに、愛していると伝えたことがあった?
自身の見た目を気に病むあまり、人目を避けて隠れ住んでいただけ。
部屋のドアをそっと開き、ドアの横に置かれた木製のテーブルを見る。
メイドが置いてくれたと思われる、干しダラのスープと黒パン。
トレーをそっと両手で持ち上げて、思う。
――スープとパンを運んでくれるメイドに、ありがとう、と言ったことがあった?
あの老人は、本当は神様の化身で、わたしの至らなさを、教えてくれたのかもしれない。
『これからは、自分のしたいように生きるといい』
もう、わたしが外に出ても、それを悲しむ父はいない。
――それならせめて、最後のお別れの時、誰かに悲しんでもらえるような、そんな人間を目指して生きてみよう。
§
それから二日間、立ち上がると目眩を起こすこともあったが、誰かがスープとパンを運んでくれたお陰で、だいぶ元気になった。
驚いたことに、天国みたいな場所で老人と会う夢を見たのはほんの一瞬のことだったのに、三日も眠っていたらしい。
古新聞を紐解いて、初めてそのことに気が付いた。
三日間、飲まず食わずだったせいか、回復まで時間がかかった。
それにしても、こうやって食事を運んでもらえるのはありがたい。これがなければ、本当に死んでしまっていただろう。
(今度こそ、毎日食事を運んでくれるメイドに、ちゃんと感謝の気持ちを述べよう)
ただ、メイドは、わたしを恐れている。
以前、たまたま鉢合わせしかけたことがあった。
廊下にメイドがいることに気付かず、ドアを開きかけた。
すぐに気付いて手を止め、薄く開けたドアの隙間から見守っていると、食事を運ぶ係に任命された気の毒なメイドは、緊張に青ざめた顔を引き攣らせていた。
音を立てずにそっとドアの外のテーブルに食事の乗ったトレーを置くと、風のように慌てて、階段を走り降りて行く。
屋根裏の空気には毒が混じっているとでも思っているのか、息までも止めている念の入れよう。
メイド達が恐れるのも無理はない。
新聞に描かれる、陰湿・傲慢・残忍の三拍子揃ったリリアーナ・ロンサール伯爵令嬢の非道を極める凄惨な行いは、目に余るものがある。
身に覚えはないが、そもそも、そんな噂の煙の元となる火種を起こしたのは、怪しすぎる日頃の振る舞い。自業自得ってもの。
(もうほんと、心っ底、反省しよう!)
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