第6話 恋の病

 屋敷に辿り着くと、裏口の庇の下で、濡れた傘の水気をよく払う。


 外套をぎゅっと絞ると、冷たい水がじゃぶじゃぶと滴り落ちた。

 何度もよく絞ってから、外套を羽織って顔を隠し、裏口のドアをそっと開いた。


 大まかに水気を払ったとはいえ、濡れそぼった黒ずくめと廊下ですれ違った使用人たちは、ぎょっとしたように肩を竦め、不快そうに眉を顰めた。

 一様に冷ややかな視線を寄越したかと思うと、目を逸らし、通り過ぎて行く。


 濡れネズミのような格好で階段を上がろうとしたところで、タイミング悪く応接室のドアが開いた。


(あ、しまった……来客と鉢合わせた)


 あちゃーと内心で慌てた瞬間、ドアの向こうから現れたレクター・ウェイン卿と、ぱっちりと目が合った。いや、わたしは目深にフードを被っている。向こうからわたしの目は見えないけども。


 すらりと背の高い痩身に王国第二騎士団の漆黒の制服を一分の隙もなくきっちりと着こなす様は、いつ見かけても、本の中から物語の主人公が抜け出してきたようで、この口から小さく溜め息が零れる。



 隣国ハイドランジアとの戦いでは、ずいぶん活躍されたらしい。

 年の頃は二十代前半。光を浴びた雪のように輝く銀髪に整った顔立ち。切れ長の目には深紅の瞳が光っている。

 少なくとも、わたしの閉ざされた生活の範囲では、この人が持つ柘榴石ガーネットのような不思議な瞳を見たことがない。


 いつ見かけても涼し気なその表情は、冷静沈着を絵に描いたよう。感情的になって喜怒哀楽を表現している場面なんて、想像することさえ難しい。


 彼がここにいるということは、アラン・ノワゼット公爵がブランシュに会いに来ているのだろう。

 ブランシュの婚約者で、国王陛下の従兄弟であり王国第二騎士団団長であるアラン・ノワゼット公爵のお気に入りの忠実な騎士であり、第二騎士団副団長でもあらせられるのが、このレクター・ウェイン卿だ。


 わたしとは一生関わることのない、華々しい世界の人。



 まあ、それはさておき、



 ――わたしは、この人に恋をしている。



 身の程知らずなことも、決して叶わないこともわかっている。


 でも、しょうがないのだ。


 恋は心の病。


 ある時突然、雷に打たれたと思ったら、もう罹患している。


 そうなっては、自分の力ではもう、どうしようもないのだから。



 とは言え、わたしなどから好かれていると知られたら、薄気味悪い思いをさせてしまうことは、百も承知している。


 ――だから、決して言わない。


 匂わせもしない。


 誰にも悟られないよう、細心の注意を払う。この想いは生涯胸に秘め、墓場まで持って行く。



 ――そう、決めている。


 

 §



 二年前、戦争が終わると、出征していた男性貴族や騎士、兵士が前線から帰還し、世の中は徐々に落ち着きを取り戻し始めた。

 同時に、戦争中はそれどころではなく、止まっていた社交界も動き始めた。


 いわゆる、婚活も大々的に再開した。


 この国一番の美女と謳われていたブランシュの人気は凄まじかった。

 美しいブランシュを目当てに、屋敷には様々な人が出入りしはじめた。


 そのうちの一人が、先日晴れて、ブランシュとの婚約を発表した第二騎士団団長、アラン・ノワゼット公爵だ。


 ノワゼット公爵に付き従って、副団長であるレクター・ウェイン卿も度々、屋敷にやって来た。


 わたしはもちろん、戦中も戦後も関係なく、社交界とも婚活とも無縁である。


 当然、ブランシュに会いに来る人々とも接点を持たず、現在に至るまでつつがなく引き籠もり続けている。


 そんなわたしが、何故、恋になど落ちる羽目に陥ったかと言うと……。



 戦争が終わって数か月経った、二年前のある日まで遡る。



 ――その日、庭でからすが泣いていた。


 羽に糸のようなものが絡まり、飛ぶことができないようだった。

 糸に絡めとられて思うように身動きできず、苦しむ様を見て、誰かに似ている、と思った。


 ――誰だろう?


 ……ああ、わたしだ。


 屋根裏に囚われ、目に見えぬ真綿の糸でゆるゆると首を絞められて息もできないわたしと、その鴉は色までもがそっくりだ。


 わたしの救い方はわからないが、鴉は救ってやれる。


 目に見える糸を切ってやるだけで良い。


 ハサミを握り絞め、窓から見下ろすと、飛べない鴉は大変な暴れようだった。


 どうやったら、わたしの力で大人しくさせ、糸を切ってやることができるだろう?


 下手をすれば、ハサミで羽を傷つけてしまうかもしれない。

 厳しい自然界で生きる野生の鳥にとって、羽を傷付けられ飛べなくなることは、すなわち『死』を意味することは、容易に想像できる。


 恐れをなして逡巡していると、玄関からウェイン卿が出てきた。

 あ、と思う間もなく鴉に近付き、あっさりと押さえつけ、小さなナイフのようなもので糸を切った。


 二、三度羽ばたいた鴉は、抜けるような青空に向かって、高く飛び立った。



 ウェイン卿は何事もなかったかのような顔で屋敷に戻り、姿が見えなくなった。



 ――それでもう、恋に落ちてしまったのだ。


 助けてもらったのは鴉であって、わたしじゃない。


 それでも、救われたような気がした。


 自分でも、馬鹿だと思う。


 やめておいた方が良い、ということはわかっている。


 でも、そうなってしまってからでは、どうにもならない。


 まるで、熱病にでも浮かされたようで、もうどうしようもないのだ。





 応接間から出てきたウェイン卿の姿に惹きつけられ、目を離せずにいた。

 彼は、視界に入ってしまった濡れネズミのようなこの姿をほんの一瞬見やったが、表情を微塵も変えず、すっと目を逸らし、すたすた歩いて行った。


 見なかったことにしよう、と思われたに違いない。


 うん、わかる。世間を騒がす変わり者の魔女には、関わらないのが一番良い。

 君子危うきに近寄らず、とはよく言ったものである。


 実際、廊下の壁に掛けられた大きな姿見に映る自らの姿には、我ながらぎょっとした。

 真っ黒な外套のフードはじっとりと濡れそぼり、顔の上半分を覆ってぽたりぽたりと雫をたらしている。


 全身を覆う外套は水を含んでどっしりと重く垂れさがり、顔色はいつも以上に青白く、唇も紫色。


 この姿は、そう――


(まさに絵本の挿絵にでてくる、魔女そのもの!)


 これで、真っ赤に熟れたリンゴでも手に持っていたら、我ながら完璧だろうと思われた。


 鏡に映った自身の姿に苦笑しつつ、自室としてあてがわれている、屋根裏の奥の部屋に急ぐ。


 鞄から図書館で借りてきたばかりの本を取り出し、濡れたり汚れたりしていないか、急いで確認した。


『自然界における毒とその歴史』


 しっかりくるんでから鞄に入れていたので、大丈夫だったようだ。


(……良かった)


 雨で冷え切った体が、またしてもガタガタと震え出したので、急いで服を着替えて、ベッドにもぐりこんだ。



 暖炉などあるはずもない屋根裏。いつまでたっても体は温まらず、なかなか寝付くことができなかった。



 §



 翌朝。

 頭がぼうっとして、体は鉛のように重い。

 ベッドから出るどころか、起き上がることもできない。


 頭を持ち上げようとするだけで、関節の節々が痛み、頭の中で鐘をガンガン打ち鳴らされているみたい。


 枕に顔をうずめ、はあっと息を吐く。


 胸を上から押さえつけられているみたいに息をするのも苦しい。体中が、燃えるように熱い。

 まるで、火の中にいるようだった。


 もしかして、このまま治らずに死んでしまうかもかもしれない、とふと不安が過る。

 

(体調が悪いと、心まで弱るからいけないわ……)


 この薄暗い屋根裏部屋で、誰にも気付かれず、数年後に白骨化して発見される自分の姿を想像してみる。ぞっと背が寒くなる。

 

 いや、部屋の外に食事だけは運んでもらえる。

 ずっと手付かずのトレーを見たら、そのうち誰かが気付いてくれるだろう。いやだけど、本当にありそうで怖い。


 息苦しさと熱さで朦朧としながら、このまま死んでしまうとしたら、悲しいな……、とさらに少し弱気になる。

 

 もっと、読みたい本がたくさんあったな……まあ、でも、……わたしがここでミイラになろうと白骨化しようと、悲しむ人はいない……ブランシュだけは、少しは悲しんでくれるだろうか?


 ……でも、それも、一時のことで……。



 やがて、どろりと深い沼に引きずり込まれるように、わたしは意識を手放した。





 

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