第5話 白昼夢

 十七歳になり少し経った頃、不思議な出来事に遭った。


 ――いや、あれはやっぱり、夢か幻だったのだ。


 夢と現を行き来するような、頭の中の記憶の元を探しても、それが現実だったのか夢だったのか、自分でもはっきり確かめられないような、そんな出来事。


 あの日、冷たいガラス越しに見る外の景色はくすんで、空から濃い灰色の雲が重く圧し掛かるように立ちこめていた。


(今にも、降り出しそう……)


 もう、屋敷の図書室の本は全部、暗記するまで何度も読んでしまった。


 本は、孤独に苛まれ気持ちが沈み込み、自分ではどうしようもなくなったとき、そこからそっと助け出してくれる。

 どうしても何か新しい本が読みたくて、矢も楯もたまらなくなった。


 晴れた日も好きだが、雨の日も好きだ。

 しとしとと淑やかに降る雨音は美しいし、雨粒光る草の上にちょこんと腰掛ける小さなアマガエルは愛らしい。

 だけど、寒空の下、ずぶ濡れになるのは誰だって気が進まない。


(今はまだ、降り出してない)


 ――急ぎ足で行って、雨が降る前に戻ってくればいい。


 冷たい雨は、王立図書館を出たところで、ざあっと音を立てて降り出した。三月初め、雪混じりの、体の芯まで凍らせるような雨。



 借りたばかりの重い本を濡らさないようにしっかり包んで守るように抱え、屋敷までの道のりを歩く。


 小さな蝙蝠傘は、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨の中では、たいして役に立ってくれなかった。おまけにこの傘ときたら、骨が二本も折れている。



 伯爵邸は、四方をブナ林で囲まれていた。


 正門へと続く道は、街灯煌めき、四角いチョコレートを並べたような石畳で舗装された立派な本通り。ブランシュを乗せた白地に繊細な金細工が施された優美な馬車がそこを通ると、星のない夜でも光の妖精が魔法をかけたみたいに明るく輝く。


 裏門へと続くのは、林の中を通る小径。わたしが使うのはこっちだ。道は細く、舗装されていない土のままだけれど、本通りを使うよりも少し早く屋敷まで着ける。


 土砂降りの中、ぬかるみを一歩踏み出すたび、ブーツの中に冷たい氷水に足を浸すような感覚が広がった。ブーツ底からじゅくじゅくと音が鳴る。


 視界は雨で遮られ、ほんの少し先までしか見えない。


 その時突然、降って湧いたように目の前に黒く大きな塊が現れた。


(……! 獣……?)


 左胸が、どきり、と大きな音を立てる。咄嗟に悲鳴をあげそうになるのを堪えながら、雨で煙る視界に目を凝らす。


(熊……? 狼……?)


 それにしては、なんだか違和感がある……。


 戦々恐々近づくと、木の根元に蹲っているのは、雨に濡れそぼり、息も絶え絶えに動けずにいる黒いローブに身を包んだ老人だった。


「……っ大変……!」


 慌てて駆け寄ると、泥が大きく跳ねた。


「大丈夫ですか!?」

 

 青白い顔をした老人は、どろりと白く濁った瞳をこちらに向けた。


 辺りには、鼻をつくような異臭が立ち込める。


 老人の体がぐっしょり濡れているのを見て、慌てて持っていた傘を差し掛け、羽織っていた外套を脱いで、老人に被せた。


「誰か呼んできます」


 立ち上がって走り出そうとした瞬間、老人の骨ばった右手がドレスの裾を掴んだ。


「……ここに、いてくれないかい?」


 ほとんどの歯が抜け落ちた、暗い洞穴のような口から、しわがれた声が漏れた。

 喉の奥はヒューヒューと苦し気な音を立てている。


「で、でも……!」


「奇妙だねぇ、まさか、こんな奇妙なことが起こるとは……なら、せっかくだから、少し、儂の話を、聞いてくれんかね、……お嬢さん……」


 老人が、息も絶え絶えに、囁くように語り出した。


 いつの間に集まったのか、ブナの木々の上では数えきれないほど沢山の鴉たちが真っ黒な羽を濡らし、不吉な鳴き声をあげている。 

 いつも通るブナの小径は、こんなにも鬱蒼としていたっけ? 


「儂はね、お嬢さん……とても悪いことをしてきた。語り尽くせないほどにね。後悔など、していないさ。それが、役目だったんだから。

 ……だが、その報いに、この誰もいないはずの森の中で、独りで、朽ち果ててゆくところだった……。

 ところが、どうだろう? 誰もいないはずの森に、お嬢さんがやって来た。

 黒いマントのお嬢さんが……。おまけに、この儂に傘を差し掛けて、自分のマントを、貸してくれるじゃないか」


 老人は、ぜえぜえ、と苦し気に呻いた。


 森とは、どういうことだろう? 


 ここは王都のほんの一角を占める林に過ぎない。

 少し歩けば、必ず林道かどこかの屋敷に辿り着く。


(……この人は、幻を見ているんだ)


 本で読んだことがあった。

 人間の体は、冷えすぎると低体温症になる。症状のひとつは、幻覚。進行すると、死に至る。


 恐ろしい気持ちになって、やはり、人を呼びに行こうとするわたしのドレスの裾を老人の骨と皮だけの手が、しっかり掴んで離さない。


「……これは、最後のチャンスなんだ。あいつが、あの甘っちょろい小僧が、儂に与えた、最後のチャンス……」


 老人はうわ言のように呟いた。


「しっかりしてください。もう少し歩いたところに屋敷があります。そこまで歩けますか?」


 老人に肩を貸して、立ち上がらせようと試みた。

 氷のように冷たい老人の体は岩のように重く、まるで地面に張り付いてでもいるかのように、持ち上げようと力を込めてもびくともしない。


「……さいごに、お嬢さんの、願いを、ひとつ、叶えてあげよう……」


 この人は、寒さのせいでおかしくなっているに違いない。


「……なんでも、言ってみなさい」


「……では、では、助けを、助けを呼びに行かせてください」


 老人は、ぐ、ふ、ふ、と嗚咽ともとれるような、笑い声をあげた。


「お嬢さんのような子に、もうちょっと早く会いたかったね。いや、もしかしたら、今まで会った人間の中にも、いたのかもしれない……儂が……知ろうと、しなかったってだけで……」


 どろりと白く濁った瞳が、遠くを見つめたまま陰って行く。

 老人の手が、わたしの頬に伸ばされ、そっと触れた。


 冷たい、氷のような手だった。


 わたしはもう、人の命が消えゆくさまを目にして、恐ろしくてたまらなかった。

 雨に濡れた寒さと恐怖が入り混じって、体がガタガタと震え出す。

 鴉たちが老人の死を待ち侘びているかのように、ますます不吉に、激しく鳴き立てる。


 頬に触れた老人の手を、そっと両手で握った。

 老人の手は骨と皮だけのように痩せ細り、黒く変色した爪が驚くほど長く伸びていた。

 氷のように冷たい手を、せめて温めたくて必死に握ったが、わたしの手も同じように凍えていて役には立たなかった。


 冷たく濡れた地面に蹲り、天に召されゆく人を前にして、救うことも助けを呼ぶことも、温めてあげることすらできない。不甲斐なさに、涙が溢れた。

 老人は握った手を見つめ、眼を細めた。


「……まさか、この儂が……死に際に、手を握られ涙を流されるとは……不思議なことに、儂とお嬢さんは全く違うのに、孤独の深さだけは、同じじゃないか……。それなら、欲のない、お嬢さんに、ひとつ、『欲』を贈ろうかね……」


 老人が言い終わった途端、体が吹き飛ばされそうなほどの強い風が吹いた。

 横殴りの激しい雨に叩きつけられて、握った手が離れ、目を瞑った。


「…………!!」


 どれぐらい、そうやって目を瞑っていただろう。

 風が止み、そろそろと目を開く。


 そこには、誰もいなかった。


 ただ、地面に落ちたマントと蝙蝠傘と本を入れた鞄が、強い雨に降られて濡れそぼっていた。


 ――白昼夢を見た。


 体温が下がりすぎて、幻覚を見たのは私の方だったらしい。


 濡れたマントと傘と袋を拾って、再び、屋敷に向かって歩き出した。



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