第9話 アリスタ・グレイ

 

「アリスタ、あとで屋根裏まで朝食を持って行っておいてくれ」


「ああ、アリスタ、ついでに、『今夜はノワゼット公爵がいらっしゃいますが、夕食はダイニングホールかお部屋、どちらでお召し上がりですか?』と聞いてきてくれないか。閣下がたまには妹君も誘って、一緒に夕食を摂りたい、とおっしゃるから、形式上、伝えないわけにもいかん」


 アリスタ・グレイは、使用人用の食堂でメイド仲間と朝食を摂っている最中さなか、料理長のモーリーと老執事のロウブリッターから続けざまに命じられ、不満げに口を尖らせた。


「……わかりました……」


 この広大なロンサール伯爵邸では、百人を超える使用人が働いている。

 なのに、嫌な役目はいつだって、このあたしに回ってくる。


 今だって、隣でメイド仲間のリジーがのんびりデザートなんて食べながら、ペチャクチャお喋りに興じているのに、言いつけられたのは、このあたし。


 あたしが新入りだからってこともあるけど、理由はやっぱり出自のせいだと思う。

 だって、あたしより後に入ってきたメイドもいるけど、屋根裏に食事を運ばされるのは、いっつもあたしの役目だった。


 使用人とは言っても、伯爵家のメイドともなると、町のそれなりに身元のしっかりした家の娘が、結婚前に箔をつけるために働いていることも多い。


 でも、あたしの家は貧民窟とまでは行かないけれど、下町の路地裏に建つ日の当たらないボロ家。あたしの下には六人も弟と妹がいる。

 食べてくだけでも大変なのに、父さんと妹のステラは体が弱くて、薬代も沢山かかるから、家計はいつも火の車だ。

 だから、あたしが伯爵邸の住み込みメイドになれた時、父さんも母さんも泣いて喜んだ。


 あたしの仕送りがなくなったら、家族はどうなってしまうかわからない。

 だから、どんなに嫌な役回りを言いつけられても、口に出して文句は言えない。

 心の中で舌打ちして毒づくだけ。


「屋根裏の魔女ってさ、どんな感じなの? ウサギや猫に毒を飲ませて実験してるとか、呪いで人を殺せるってほんと?」


 隣で、ヨーグルトにブラックカラントのジャムをたっぷり入れながら、リジーが興味津々といった風に、尋ねてきた。


 あたしに話しかけてくるなんて、珍しい、と思う。


「知らない。知りたけりゃ、自分で持って行って聞いてみれば?」

 

「やぁだ、やめてよ! あたしは屋根裏に行くなんて、絶っっ対に嫌!!」


 リジーは、大げさに顔をしかめて、ぶるりと身震いしてみせた。


 実際、食事を運ぶときは、前任のメイドから教えられた通り、屋根裏の魔女が廊下に出ていないのを確認してから、素早くドアの前のテーブルに置いてくるようにしている。


 だから、部屋の中を見たこともなかったし、魔女を近くで見たことも話したこともない。

 よく知らない、というのは本当だ。

 たぶん、向こうもこっちを避けているんだと思う。


 呪いとか毒とか動物実験とか、ありえないし嘘っぽいとは思うけど、皆があまりにもまことしやかに噂するので、正直、気味が悪い。


 一度、リリアーナ様を遠目に見掛けたことがある。その時は、本当に黒ずくめで魔女みたいな格好をしていて、背筋がゾクリと冷えた。


 それなのに、今日はロウブリッター執事から伝言まで言いつけられてしまった。


 重い気持ちを抱えたまま、レンズ豆のスープと薄い黒パン一切れだけが乗せられた、さっき食べた朝ごはんよりも質素なトレーを腕にのせ、ドアを静かにノックした。


「はい、少しお待ちください」


 中から若い女の声が返ってきて、心臓がどきりと鳴る。


 皆が言っていた怖い噂が頭をよぎり、やっぱり、ロウブリッター執事にはっきり断れば良かったと、今頃になって後悔が押し寄せる。


 ――可愛いうさぎや猫を捕まえて来ては、毒を飲ませて苦しむ様を見るのが好きなんですって。

 

 ――綺麗な若い女の子を見つけると、生き血を搾り取るらしいわよ。



 『綺麗な若い女の子』という項目に、あたしは当てはまらない筈だ。


 そこに、救いを見出そうとしてみる。


 あたしの髪はくしゃっとした赤毛だし、目だってぎょろっとし過ぎている。鼻だってそんなに高くないし、何と言っても、そばかすがひどい。父さんと母さんは、あたしを見て器量よしだって言ってくれるけど、それは親の欲目ってやつだ。


 綺麗な子、というのは、リジーやアンヌみたいな子のことを言うのだ。さっきまで同じテーブルで朝食を摂っていた、メイド仲間の顔を思い出す。


 実家がゆとりのある商家だという二人の肌は、あたしと違って日に当たったことがないみたいに白い。

  魔女が欲しがるのは、きっとあの二人みたいな子の血に違いない。

 だから、あたしの血はきっといらないと思われる。そうでありますように。

 

 びくびくしながら待っていると、ドアが、がちゃりと音を立てて開いた。

 ドアの向こうに現れたのは、黒いドレスを着て、マントのフードで顔の上半分を覆った、ほっそりした若い女だった。


「どうぞ、お入りになって」


 若い女は口元に微笑を浮かべながら、優雅な身振りであたしを部屋に招き入れた。


 はじめて、部屋を見渡した。


 屋根裏の魔女が住む部屋は、もっと薄暗くて、おどろおどろしい雰囲気漂う部屋かと思い込んでいた。

 実際に目にすると、窓辺から燦燦と差し込む光が、古いけれど清潔そうな家具を照らして、寛いだ雰囲気だ。

 魔女が毒々しい研究をしているようには見えない。


 魔女の方を恐る恐る見やる。

 間近に見ると、魔女は想像していたのと、ちょっと、いや大分、違っていた。

 フードの下からのぞく色白の顔は、その部分だけ見れば、美しい造作にすら見える。


 それどころか、その肌はリジーやアンヌの肌なんか目じゃないくらい、きめ細かく透き通って、内側から白く輝いて見える。

 どうやったら、こんな赤ん坊みたいな肌になれるんだろう。


 あたしみたいな下っ端は近付くこともできないけど、ブランシュ様も何度かお見かけしたとき、こんな肌をしていたことを思い出す。

 やっぱり姉妹だから、少しは似ているのかもしれない。


 その体つきだって、ほっそりして可憐と言えるのではないだろうか。

 噂で聞くような、暴れる小動物を掴まえたり、村から若い娘をさらったりという力業が、黒いドレスの袖からすらりと伸びる細い腕にできるとは、到底思えなかった。


 このあたしにさえ、簡単に返り討ちにできそうだ。


「…………」


 一瞬、言葉を失ったが、自分をじっと見つめる魔女の視線に気付いて、慌てて低頭して言葉を選ぶ。


「お、お食事をお持ちしました。こちらに置かせていただきます」


「いつもありがとう」


 魔女は口元をにっこり綻ばせると、テーブルに置こうとしたトレーを、手を差し出して受け取った。


「いつも、食事を運んでくれていたのは、貴女?」


 はじめて、ちゃんと聞いた魔女の話し声は、涼やかで優しくて心に染み込むような声音だった。

 この屋敷に来てから、こんな風に優しく話しかけられたことがなかったので、思わずぼうっとなる。


「はい、さようでございます。わたくしの役目でございます」


 頭を下げながら、もしかしたら何か粗相があって、いきなりぶたれるのでは、という不安がよぎる。

 一般的に言って、貴族様が平民に手を上げるくらいのことはよくある。

 しかし、魔女は受け取ったトレーを側にあったテーブルに置くと、あたしの両手を自分の両手で包み込み、優しい口調で言った。


「そう。お礼を言うのが遅れてしまって、ごめんなさい。貴女がいつも食事を運んでくれるおかげで、本当に助かっているのよ。風邪から回復できたのも、貴女のおかげだわ。いつも、ありがとう」


「はあ……あのう……、それは、良かったです」


 綺麗な声で優しく言われて、あたしは面食らって、またぼうっとしてしまう。

 ほっそりとしているのに柔らかな手に包まれて、荒れてささくれだった自分の手が気になってしまう。

 ささくれにひっかけて、この人の手を傷つけてしまわないだろうか。


「それで、あの、あなたのお名前を聞かせてもらっても良いかしら?」


 リリアーナ様は、ほんのり頬を上気させておっしゃった。

 あたしはそれから、リリアーナ様に問われるまま、使用人たちについてや、家族のことについて話した。


 小一時間も話していただろうか?

 リリアーナ様はとても聞き上手で、あたしのつまらない話を興味深くて仕方ないという風に「まあ、それから?」とか「すごいのね」と楽しそうに相槌を打ってくれるので、時間が経つのを忘れてしまっていた。

 話の区切りが一段落ついたとき、リリアーナ様ははっとしたように立ちあがった。


「ごめんなさい。お仕事中よね。楽しくて、すっかり時間を忘れてしまっていたわ」


 リリアーナ様は申し訳なさそうに謝ると、あたしのために優美な手つきでドアを開けて見送ってくれる。


「……あの、もし良かったら、で良いんだけど、今度また時間があったら、お話ししましょうね」


 顔の上半分は隠れていて見えないが、頬がほんのり上気して薔薇の花びらみたいな薄紅色に染まっている。


「はい。もちろんでございます」


 何故だか、ふわふわ浮き立つような気分で出て行こうとしたところで、今朝、ロウブリッター執事に言われたことを思い出した。


「あのう、それから、今晩、ノワゼット公爵様がお見えになりますので、リリアーナ様もご一緒に夕食をとられないか、ということでございます。」


 リリアーナ様は、しばらく迷うように口を閉じて、考える素振りを見せた。


「……喜んで、ご一緒させていただきます、と伝えてくださる?」


「承知しました。では、またお部屋にお運びしま……って、ええっ!!」



 §



 風邪をひいていたなんて、まったく思いもしなかった。

 気付いていたら、固そうなパンじゃなくてもっと食べやすいものお持ちしたり、熱を冷ますために冷たい氷をお持ちしたりできたのに。ドアの前に置くんじゃなくて、部屋の中まで持って行けばよかった。


 そういえば、スープにもパンにも、全く手を付けていない日があった。あれは、そういうことだったのか。気に入らないから口をつけなかったとばっかり――


 リリアーナ様のことを考えながら使用人部屋に戻ると、使用人たちに指示を出しているロウブリッター執事があたしに気付いた。


「アリスタ、ご苦労様。リリアーナ様へは伝えてくれたかね?」


「はい。ご夕食は喜んでご一緒されるとのことです」


「そうか、わかった。では、いつも通りディナールームのセットは二人分で……ええっ!」




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