【Ⅳ】脱走計画、失敗

 昼食のあとは自由時間である。


 食事の片付けを終えたゼノは、家の中でも日当たり抜群なソファ席で昼寝をし始めた。無防備な寝顔を晒す彼女に寄り添うようにして、ユウは古びた本の頁をめくっている。


 黄ばんだページには図面が描かれていて、その脇に図面の説明がずらずらと並んでいる。いわゆる魔導書というものだが、ユウには文章が成す意味を理解できなかった。



「んー?」



 首を傾げると、彼の鋼の輝きを宿した銀髪が横に滑る。


 ユウは頁の大半を支配する図面に視線を固定したまま、床の木目を指でなぞる。僅かに凸凹とした床板に指を這わせると、指でなぞった跡が青く輝く。

 見様見真似で図面を床に描くと、ユウはその横に添えられた文章を読み上げた。



「《空の恵み。自然の雨粒。森の乙女は豊穣を願って涙する》」



 いつも使うような詠唱とは違い、やや長めである。だが、ユウはその呪文の意味を全く理解していない。


 しかし、呪文の意味が分からなくても魔法は発動する。


 もくもくと雲が生み出されると、ザバザバと室内に雨が降り始める。床が水浸しになってしまい、ユウは「わ、わあ!!」と驚く。まさかこんな魔法だとは彼も予想ができなかったのだろう。



「大変だ、大変だ。ゼノに怒られちゃう」



 ユウは慌てて長衣ローブで濡れた床を拭い始めるが、それでも室内に生まれてしまった雨雲は絶えず雨粒を床の上に落とす。


 拭いても拭いても無駄だと分かったユウは、ぷうと頬を膨らませると、



「《消えちゃえ》!!」



 ユウが得意とする短い詠唱。


 すると、室内に降り注いでいた雨はパッと消えて、びちゃびちゃに濡れた床だけが残った。ユウは濡れた長衣を見下ろして、それから水浸しになってしまった床へ視線を落とす。


 これでは確実にゼノの説教を受けることになってしまう。

 濡れた長衣の裾を握り、ユウは「うー、うー……」と唸ると、



「に、にげ、逃げる……」



 寝ているゼノを起こさないように、ユウは抜き足差し足で部屋を移動する。

 さっさと拭けばゼノに怒られないで済むはずなのに、都合の悪いことから逃げ出そうとする発想は子供特有のものであると言えようか。


 玄関先にある自分の杖を手に取ると、ユウはゼノが起きないうちに家から飛び出した。もちろん家の扉も、ゼノを起こさないように静かに閉める。



「う、海、海に」



 キョロキョロと視線を巡らせて、ユウは海の方へ向かって走り出した。両手で長杖を抱えて、潮風を感じる方向に突き進む。


 五分も走れば、すぐに白い砂浜にやってきた。

 太陽はやや西へ向かっていて、果てしなく続く青い海はキラキラと輝いている。ザザ、ザザ、と耳朶に触れる波の音が心地よく、ユウはようやく息を吐いた。



「広いなぁ」



 海はどこまでも広く、穏やかだ。


 白い砂浜の上にちょこんと座り込み、ユウは潮風に銀髪をなびかせて遠い水平線をぼんやりと眺める。海魔も出てこず、とても平和な雰囲気だ。



「…………」



 抱えた長杖ロッドを揺らすと、杖に施した装飾類がしゃらしゃらと音を立てる。


 ユウは常々思っていた。

 あの海の向こうには何があるのだろう、と。



「……何があるんだろうなぁ」



 ゼノに訊いてみても、彼女は「知らねェ」と答える。ゼノが知らなければユウが知る由もないので、誰も海の向こうまでは知らないのだ。


 ぼんやりと水平線を眺めていたユウは、長杖に埋め込まれた巨大な青い魔石を見上げる。

 これはある時、海魔から転がり落ちた代物だ。あれ以来、海魔の残滓から同じような魔石が残ることはなく、ユウはこの杖を大切にしている。


 長杖を支えにして立ち上がると、ユウは海に向かって杖の先端を突きつけた。



「《ぷかぷ――》」

「どこに行こうってんだ?」

「ぴゃあッ!?」



 魔法を使おうとしたその時、背後から不穏な声を聞いてユウは飛び上がってしまった。


 ビクビクしながら振り返ると、ゼノが腕組みをして立っていた。

 誰もが見惚れるほどの美貌には清々しい綺麗な笑みを浮かべているので、おそらくあれは怒っている。間違いなく怒っている。


 ユウはどこかに逃げる場所を、と周囲に視線を彷徨わせるが、それより先にゼノに頭を掴まれる。



「部屋ン中を水浸しにしておいて逃げるたァいい度胸じゃねェか、ユウ坊。正座で説教の刑がいいか?」

「やだぁ!! ごめんなさぁい!!」



 半泣きの状態でユウが謝ると、ゼノはユウの頭に置いた手でやや強めに撫でてくる。



「部屋を水浸しにしたのは、この際だから怒らないでやる」

「……ほんと? 嘘じゃない?」

「アタシが嘘を言ったことあるか?」

「ううん、ない」



 そうだろ、とぐしゃぐしゃにユウの髪を乱したゼノは言う。



「……オマエ、この島から逃げようとしたか?」

「う」

「アタシを置いて?」

「うう……」



 ユウは長杖を抱きしめて、言い訳するように「少しだけ……」と素直に答える。反省の姿勢を示す彼の頭をポンポンと優しく叩き、



「家に帰るぞ。もうすぐ夕方になる。風邪引くぞ」

「…………うん」



 ゼノに手を引かれて、ユウは大人しく家に帰ることにした。


 あの時、自分を置いて島を出て行こうとしたのかと訊いたゼノの寂しそうな表情が、脳内に焼きついて離れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る