第一話 泥の世界

 粘性の『悪意』の中に居た。


 光も、音も、熱も、何もなかった。

 それなのに意識だけはあって。

 ひたすら『悪意』に触れ続けた。


 誰かの恨みを浴びて。

 誰かの妬みを浴びて。

 誰かの怒りを浴びて。


 ずっとずっとずっとずっと。


 殺してやると罵られ続けた。

 気が触れる程に。

 何度も、何度も。


 そのうち、自分がなんなのか解らなくなる。

 浴び続けている悪意と自分の境目が消えていく。

 悪意を受け続けるのではなく。

 やがて僕自身も、悪意となって誰かを責めていた。


 殺してやる。殺してやる。殺してやる。

 どうして?


 わからない。

 でもどうしようもなく憎いんだ。

 だから叫ぶんだ。


 コロシテヤル


 そんなことを、どれだけの間繰り返したのか。

 気が付くと『私』は自分が解らなくなっていた。


『もう、苦しまなくていいんだよ』


 そんな私を、誰かが救い上げた。


『思い出して。あなたのカタチを』


 誰の声だっただろう。

 それはひどく懐かしくて。温かくて。包み込まれるようで。


 そしてどうしようもなく、悲しくなる声だ。


「■■■―———」


 気が付くと、全てが蘇っていた。

 茜色の世界。漆黒の水平線。駆け抜ける風。


 私は私の知らない誰かを呼び、現実で手を伸ばしていた。その手は白く、人らしい肌色。


 私は、一糸まとわぬ姿で世界に立っていた。

 夢から覚めたようだった。 


「ここはどこだ。私は―——」


 この二本の脚が踏みしめるのは漆黒の大地。起伏すらも消え去った、どこまでもおぞましい泥に覆い尽くされた世界だった。


 それでも。


「夕日―——」


 空はどうしようもなく、美しかった。


 鮮やかな雲。澄み切った空。

 優しいオレンジが一面を包み、やがて世界は静かに眠っていく。

 一連の営みを、ただじっと見つめていた。


 幾日も、幾日も私はその場でじっと立ち尽くし、眺めていた。まるで生まれたての赤子が、興味のある物を見つめる様に。

 

 そんなある日、ふと気づいた。

 どうして私は、こんなことが出来るのだろう?


 普通の人間は、じっと幾日も立ち尽くすなんてことはできやしない。この体は、人間に見える。だがその中身がオカシイ。


「私は―——『私は』誰だ?」


 自分の記憶を掘り起こそうとした。

 しかしそのたびに激しい頭痛に襲われた。

 思い出すなと怒鳴られているようだ。


「私は―——私は……」


 自分の体を眺めて、何かを思い出そうとする。

 出てこない。何も。


 でもきっと―——これは。この首から下がる美しい物は。きっと、失った私の一部だ。


「ユー……ト。私は、ユート」


 空に浮かぶ美しい光の様に。

 この胸に下げられたモノ、そこに刻まれた名は私の心を照らし出す。


「ユートだ」


 胸の光を優しく握る。

 私はその日、生まれて初めて、この世界に一歩を踏み出した。


 

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