The Spring

森 瀬織

The Spring


「寂しい場所だなぁ」と、旅人は呟いた。

 クレーターのような穴の回りに、葉が枯れおちた木が数本並ぶ。それ以外、ここには何もない。

 見たことも無い、世界の果てと形容するしかないほど寂寞せきばくたる場所。


 ◇◇◇


 水墨画で書かれた細い線のような木々が並ぶ見慣れた景色の中を、足裏で土をもそりと踏みながら進む。

 一本の木の裏に人影が伸びているのを見つけ、小さく息を吐き出した。

 そっと近くに寄ってみると、そいつは枯れ葉を被って幹に寄りかかっているようだ。

 思わず俺が「お前のせいだったのか」と声を漏らすと、ゆるりと視線をあげた旅人は、皺だらけの顔をこちらに向けた。

「ここのところ、泉が乾涸ひからびてるんだよ。オアシスのようなところだったのに、ただ穴の周りに棒が生えただけのつまらない空間になっちまってる。こうなったのはお前のおかげだったみたいだな」

 俺の言葉を聞いているのかいないのか、他愛のない相槌を打った旅人はおもむろに口角をあげ、歯を見せた。

「なんだよ」

「君があれに似ているものだから」

 と、旅人は幼いころに慣れ親しんだというキャラクターの名前を挙げる。

「ふうん。そうなのかい」

 なんて、面白くもない俺の返事にも旅人は俺の顔を見つめたまま、糸を緩ませたような笑みを浮かべた。


 二言三言会話を交わしたしばしの沈黙のあと、旅人は不自由そうに、震える身体を幹に寄りかかりながら立ちあがらせようとした。

「ちょっと待てよ、泉に行くんなら案内してやるからよ」

 軽やかにステップを踏み先導を切る俺の後ろを、旅人は覚束無い足取りでついてくる。

「それにしても、あんたのその身体で旅をするのは大変じゃねぇか? 」

 泉だった窪みにたどり着いた旅人は言葉を発した俺の方には目もくれず、そっと地面を撫でた。

「──こんな風に乾涸びちまったのは二度目だよ。あの時も旅人が来ていたよ。まだ若い、痩せこけた青年だった」

 憂いを帯びた青年の笑みが頭を過る。

 ここの泉の水は美味いんだよ、ちょいと塩味があって。そう呟いても旅人は興味を示すこともなく窪みを撫で続けているかと思うと、ふと口を開いた。

「……あんたはずっとここで独りなのかい? 」

「いいや。昔はもっと色々居たさ。どんなのが居たかは聞くなよ? 覚えちゃいないからな」

「……そうか」

 久しぶりに人が来てはしゃいじまってるのかもしれないなぁ。自分からペラペラと喋っちまうなんて。

 でもそりゃ、仕方ないだろう?

 仲間がいなくなってから、しばらくずっと独りだったんだからさぁ。


「この泉、昔は凄かったんだよ。たまになぁ、天を突き抜けるように噴き上がるんだ。まるで小さな魚の大群が空に向かって泳ぐように。そんで、細かい雨になって降ってくるのさ。それが当たって水面が揺らぎ、地は潤って木の根っこは地を支えるように伸びていく。そして、その枝からは美味そうな木の実がなるのさ」

 木を揺らしてみるけれど、何も落ちては来るはずもなく、埃が光に照らされ、降ってくるだけだ。

「……その木の実は美味かったかい? 」

「甘いヤツもあったし、不味いヤツもあったさ。木の実にもコンディションってのがあるんだろうねぇ」

 旅人は相変わらず、つまらない相槌を打つだけ。

 何をするわけでなく、虚ろな目で泉を見つめている。

 乾涸びちまった、泉を。

「泉の姿が変わる時、必ず大きな音が聞こえるんだよ。まるで合図をするようにさぁ」

 あまりにも旅人がこっちを向かないものだから、一際大きな声で言ってみる。


「なぁ、この話、続けてもいいかい? 」

 人がいるってのに話さないのは勿体ないんだよ、なんて言い訳を添えてみる。

 旅人は首を縦には振らず、しかし、皮膚のたるんだ喉を微かに動かした。


 この泉が最初に噴き上がったときのことを話そう。

 それはうんと昔のことだったから、覚えていないだけで本当はもっと前にもあったのかもしれない。否、あったのだろう。

 俺は眠らないし、ここには正確な時を表すものはないから、どれだけ時が経ったかなんて分からないけれど。

 外から笑い声がしたかと思うと、瞬きする間に勢いよく泉は噴き出した。

 その頃ここに住んでいた仲間がちょうど喉を潤しているところに、よく噴き出したもんだ。

 その度に血相を変えて、『恵みの水だ』なんて言って飛んで走ってきたよ。

 噴き出す水は頻繁に高さを変えた。

 俺の肩ぐらいの高さのこともあれば、ちょうど窪みを満たすぐらいのこともあったよ。

 その度に水面は揺れ、水滴は跳び、白い泡が浮かぶ。

 そして大地に水溜まりをつくる。

 泉が噴き出すことは珍しいことではなかったさ。

 でも、日が経つにつれ、回数は減っていった。

 そいでも、たまには噴き出した雨が降ったものさ。


 ある日のことだったよ、泉が突然乾涸びたのは。

 あの頃のことは今でも覚えている。初めて出来た恋人との接吻ぐらい鮮明にさ。


 その頃いた仲間とともに右往左往した。

 仲間は『魔女が来るんじゃないか』なんて言ってたねぇ。

 何が起こっているのかと、俺も不安だった。

 外は銃声に、大きな爆発音、呻き声に叫び声。激しい息遣い。そういう音が入り乱れていたようだった。

 日が経つにつれて、泉は水を減らしていく。

 とうとう噴き出すこともなくなって、せいぜい足が浸かる程度の水しか泉には残っていなかった。

 そうしていつの間にか、泉は乾涸びていたのさ。

 今までになかったことだからもう、大騒ぎさ。

 どうしたら泉が元に戻るだろうかと探し回っていた時、仲間が若い男の旅人を見つけたんだよ。

『いつからここに迷い込んでいたのか』と聞くと、『分からない』と小さな声でこたえる。

『帰れるか』と聞くと、若い男はただ首を横に振った。

 そういえばあの男も、『お前たちは子供の頃に夢中になったキャラクターに似ている』なんてこと、言ってたなぁ。

 でも、いつの間にか若い旅人は消えていた。そうして、しばらくしたら泉に水が戻ってきたのさ。

 あの日の水は本当に美味かった。


 ……ああ、そうだ。それから少し経った頃、一度だけ物凄く甘い雨が降ったんだよ。

 それはちょうど、産声が聞こえた時さ。その時なった実は、一つ残らず全て美味かった。

 そんなことがあって、今に至るわけさ。

 ──もう覚えていることは話し尽くしちまったなぁ。本当はもっと、色々あったような気がするけれど、もう何も思い浮かばないよ。


 旅人は何かを悟ったように俺を見つめた。

「お前は長い間、ここに居たんだなぁ」

「そうさ。本当に長い間、ここに居るのさ。仲間もみんな消えてしまって、今は俺一人だ」

「大切な友達が死んでいく中、絶望した日を思い出したよ。

 ぼくはその時、お前に会ったことがあるのかい? 」

「……どうだろうなぁ」

「ぼくは何も思い出せないよ」

 そういうものなんだろう、と俺が言うと、旅人は小さく息を吸った。


「……ここは、ぼくの心なんだろう?だから君がいるんだ。子供の頃、好きだったキャラクターがたくさんいたよ。でも、君はその中でも特別だった。

 心の中の、親友だった」


 旅人はまるで赤ん坊を触るように優しく窪みを触る。

「どうだろうなぁ。俺は知らないさ。ただの住民でしかないからな」

 俺がそう言うと、旅人はふっと笑い、腰をのそりとあげた。

「ぼくはもう、帰るとするよ」

「そうすればいい。いつまでもここにいられても困るからな」

「ぼくが去っても、泉の水は戻らないかもなぁ……」

「どうだろうなぁ」

 しっかりと地を踏んだ旅人は背中を向ける。

 その背中は、かつて来た若い旅人のそれと重なった。

 また会うことがあるのかな……、とありふれた台詞を小さく呟いた旅人は消えた。跡形もなく、すっと。



 泉に寝っ転がったまま、幾日も過ごしてきたが水は戻らない。

 それどころか、いつの間にか周りの木が消えている。

 ここはもはや、ただの空疎な大地だった。

「また会うことはないだろうよ。それどころが、もうすぐ俺も……」


 窪みに身体を預けた俺は静かに目を閉じた。

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