第18話 混沌
水商売をどこか軽蔑していたリンリの価値観は、この日を境に反転した。
ただの客の男と店の女が談笑して馬鹿笑いする場だと思っていたのに、実際に内側
で働いてみると、お店で働く人がどれだけ客を大切にし、どうやったら楽しんでくれ
るかを常に考えている場所なんだ、と思い知らされた。
母を無実の罪で『処理』した憲兵なんかよりも、ずっと暖かく仕事に熱意のある人
たちだった。
ふと、奥の席に目をやると、普段よりもさらに背中と胸元を露出した衣装を身にま
とうミセスローズが見えた。
戦災にセットされた髪型と、陶器のように艶のある肌は、露出度が高いにも関わら
ず上品さを感じさせた。
初めて会った時、リンリや百葉を茶化している時以上に、彼女の表情は楽しそうだ
った。
やはり、自分が好きで始めた仕事だから、少しくらい疲労がたまっていても、純粋
に楽しめるのだろう。
途端、リンリの心の中は迷いのようなもので騒めいた。
リンリが目指す処刑人は、本当に自分がやりたいことなのだろうか。
世間への復讐のために、やりたい仕事を使命感に突き動かされるように選び、本当
に自分の心は満たされるのだろうか。
心の中の騒めきは迷いへと変わりつつあった。
そろそろ、壁にかけられた時計の短針が8時を示すころだった。
8時から勤務を始めるキャバ嬢や裏方のスタッフたちが、店内の隅にある細道から入ってくる。
リンリは、ちょうどすれ違いで買える頃合いだった。お店の先輩やミセスローズに挨拶をして帰ろうとしたその時。
「あっ…」
目が合った。
それは、数日前に、リンリが街で出会った女性。
人生で初めて、異性としての魅力を感じた人。
二人は、目を合わせる。
目の隈が、前よりも少しだけ改善されていることを確認して安堵しながらも、脈拍
は速いままだった。
しかしリンリは、やはり、とがっかりしてしまう。
リンリは数日前のあの時、連絡先を交換してほしいと言ったが、彼女には携帯電話
を持っていないと断られた。
しかし、彼女は今、携帯電話を片手に持っている。これがどういうことか、女心と
いうものをろくに知らないリンリにも分かる。
もう彼女とはそういった関係にもなれないのに、再会するなんて、嬉しいのやら心
苦しいのやら、混沌とした気持ちが胸中を渦巻く。
すると彼女は、壁にかかった時計を見るなり、真っすぐとこちらへ歩き始めた。
リンリは後ろを振り返る。きっと自分ではない他の誰かに用事があるのだろう。
そう思っていたが、彼女の足はリンリの前で止まる。
そして、今日で何度目かの…
手に柔らかい感触が伝わったのは突然だった。
「この間の、男の子…、ですよね?」
甘い匂いと、緩やかな川の流れのような声音と、その綺麗という言葉が最も似合う
容姿に、リンリは失神しかけるほどに、興奮してしまった。
「あっ、はい…」
店内を動き回った後の身体は汗臭くないだろうか、そもそも声が震えていないか、
挙動不審にソワソワと身体を動かしていないか、不安だった。
辛うじて言葉を返すと、彼女の方もどこか強張っていたような表情が次第に崩れて
いき、完全な安堵の顔へと変わった。
「ここで働いてたんですね! また会えるなんて、嬉しいです…」
「あ、ああ、まあ…」
連絡先を教えてくれなかったくせに、という気持ちが、あっという間に消え去る。
それほどに、輝かしく眩しい笑顔だった。
「僕は、今日はヘルプで来てて、次もまたここで働けるかは分からないんですけ
ど…」
「そうなんですか…」
次はすごく残念そうな顔をしていた。
なんなんだ、この人は。
リンリの心は、ただ当たり障りのないような会話の時ですら、彼女の言動一つ一つ
に弄ばれていた。
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