第16話 無理
五体建てのビルの、一階がシャッターでしまっていることに気付き、リンリは少しだけがっかりする。
一階の喫茶店で飲んだ紅茶がおいしかったので、ふと出向くことにしたのだが、潔
く諦めて踵を返すしかない。それに今日は、尾野から仕事をもらってない。
そういえば尾野は、処刑の後始末があると言っていた。いったい何を始末している
のだろう。役所や、憲兵に始末書みたいなものを提出しているのだろうか。あるい
は、処刑の際に血で汚れた備品を、『斧以外』を手入れしているとか。
これはもう、引き返すしかない。
身を帰路へと向けた瞬間、人の胸元が見えた。
手に柔らかい感触が伝わったのは突然だった。
「っ!?」
リンリは、思わず手を引き離す。
「あら、リンリくん。こんなところでどうしたの?」
妖艶で、リンリの心を舌で掬い取るようにゆっくりとした口調で目を細めるのは、
二階のキャバクラを経営する女性・ミセスローズ。
「あ、どうも…、喫茶店の方で紅茶を飲みたくて来たんですけど、見ての通り定休
日らしくて…」
リンリは残念な表情で苦笑する。
「百葉ちゃんに、会いに来たわけじゃないんだ」
「またまたご冗談を。そんなわけないですよ」
リンリは笑い飛ばす。
「リンリ君って、結構イジワルなのね」
「あはは…」
作り笑いが少し不自然だっただろうか。
ミセスローズの、本気とも冗談とも受け取れるような内容を笑って誤魔化しなが
ら、次はリンリから尋ねる。
「今から仕事ですか?」
「そうだよ」
「へえ…」
今は、学校が終わったばかりなので午後の四時くらいか。確か、ミセスローズのお
店は夜の七時に開店するはずだが、今日は何かあるのだろうか。
「開店の準備は忙しいのよ。部屋もピカピカにして、備品も整理して、おつまみを
すぐに用意できるようにお肉や野菜に下味をつけたり、結構大変なのよ」
彼女は、リンリの胸中を見透かしたように、クスッと微笑を浮かべた。
そういえば、よく見ると少しだけ、彼女は疲れ切っている、というか、寝不足、の
ようで、最初に会った時よりも覇気が無いような気がする。それは単に、仕事が忙し
いから、という理由だけなのだろうか。
三階の階段を、ゆっくりと登る彼女。それを見守るリンリ。
ガタッ、と何かが外れるように、彼女は階段を踏み外して体勢を崩した。
「危ない!」
リンリは、猛スピードで彼女の元へと駆け寄り、後ろへ倒れ込む彼女の身体を支え
た。
「はぁっ…」
ふんわりと心地の良い香水の匂いに混ざって、汗の匂いが仄かにリンリの鼻腔を掠
めてた。
実際に、首元には冷や汗のようなものを掻いているのをリンリは見逃さなかった。
「あんまり、無理しないでください!」
リンリは知っている。
こういう、出会ったばかりの他人にも優しい笑顔を見せる人は、自分の気持ちをさ
らけ出すことに抵抗を感じる傾向があることを。
きっと、目の前の彼女もそうだ。無理をしている。
腕を切り落とされた母は、確実に生きずらい『今後』を生きているのに、それをリ
ンリや自分の夫には、ほんの些細なことのように気丈に振舞っていたが、知ってい
る。リンリたちが寝静まった後の暗い部屋、リビングのソファで身を縮こませて息が
漏れ身体が揺れるほどに涙を流している現実を、リンリは見ている。きっとリンリの
父も気づいている。それでも彼女は吐き出さない。むしろ、リンリと自分の夫が、学
校や職場で生きづらくなったことを自分のせいだと思い込んでいる。
母は、冤罪なのに、どうしてここまで苦しまなければいけないのだろう。
今だって…。
「じゃあさ…、お願いがあるんだけど…」
「何でも言ってください!」
何でも一人で抱え込む母と姿を重ね合わせ、リンリはようやく聞き出せそうな彼女
の願いを黙って聞いた。
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