第8話 脱獄犯

 迎えた当日。


 リンリの住む北区の市街に、例の脱獄犯がいるという。


 当たり前のように言っているが、近所に犯罪者がいるというのは、やはり物騒だ。


 人口が少なく、建物の少ない郊外よりも、人や物で混雑した都会の方が身を隠しや

すいからかもしれない。


 慣れ親しんだ街中の、少し外れた場所。


 『お前はその辺を探しといてくれや。見つけたら連絡くれ』


 スマホの画面を確認する。


 尾野からのメッセージ。


 自分が関係者から脱獄犯の情報を受け取ったくせに、まるで無責任な文面。文字通

りこき使われている。


 初めてなのに、一緒に来てくれないのか、と返してやりたかったが、あの人からナ

メられるのが嫌だったので、我慢した。実際そうだし、ホントに怖くないし。


 「本当に脱獄犯なんているのか?」


 尾野からのメッセージに添付された脱獄犯の顔を確認しながら、リンリは独りごち

た。


 現実離れしているような状況と、尾野のだらしなさから、もしかして、自分は騙さ

れているのではないか、と思わざるを得ない。


ハメられるのではないだろうか。


適当な裏路地に導かれて、そのままこの間のようなガラの悪そうな男たちに暴行され

る未来を想像して身震いした。


リンリは、人間不信だった。


本当は、もう少し素直な人間だと思ったが、無実の罪で片腕を斬られる母を見てから

は、家族以外の人間を簡単に信用することはなくなった。


母さん…。


ダメだ。


もう何年も前のことを引きずっては、前に進めない。


変えるって決めたんだ。


せめて、あんな意図的に痛めつけるような『処刑』はさせないって。


あの人から北区の『処刑人』の地位を奪い取る。


窃盗犯くらい、自分一人の力で、捕まえて見せる。


尻込みしそうな心持ちを、母への想いで奮い立たせた。


にしても、街中は人が多い。今歩いてきた道で、すれ違っていたのに雑踏に紛れて出

会えなかったなんて、十分あり得そうな話だが…。


今日一日では見つけられそうにないか。


白髪のかかった角刈りの髪に、太い眉毛と一重の垂れ目。高い鼻と、整った輪郭。体

格は中肉中背。


じっくり見ないと、識別できないような外見の男だし、脱獄犯なら、きっと帽子を目

深に被っていたり、マスクを着用したり、警察や憲兵に気付かれないような変装を施

しているだろう。


これでは実力を行使して追いかける以前に、探すことの方が百倍大変じゃないか。リ

ンリはがっくりと肩を落とした。


はあ、とため息を吐きながら再び顔を上げる。


 いろんな人とすれ違うのを、立ち止まってぼんやりと眺めた。


 長髪で、制服をだらしなく着こなすギャルや、体格のいいジャージ姿の部活生、三

人で固まって談笑する主婦たち、ファミレスの入り口を掃除する三十代くらいの男

性、マスクをして歩く白髪で角刈り、おまけに垂れ目で眉毛の太い男性。


 いろんな人がいるもんだ、と都会暮らしをして一年経つが、そんな当たり前のこと

に感慨する。


 え。


 ちょっと待てよ。


 リンリは、何か肝心なことを忘れているような気がした。


 「ああああっ!!!!!」


 ざわざわとする声たちが一瞬だけ静まり返り、自分の方に多方の視線が突き刺さる

のを感じた。


 リンリは、そんなことはお構いなしに、ある一点をじっと見つめた。


 その一点も、こちらを見ている。


 目と目が合う。


 リンリのまんまるとした大きな目と、壮年の垂れ目が、互いを見つめ合う。


 そして。


 白髪の男は、背中を向けて走り出した。


 「ちょっ、待て!!」


 リンリは、追いかけた。


 初老のオッサンなら、簡単に追いつくはずだったが、リンリはファミレスの入り口

に備えられた鉢を蹴飛ばし、植えられた花を土もろともこぼしてしまったので、足止

めを喰らった。


 「すいません!」


 リンリは、クソ真面目だった。


 「すぐ植えなおしますね!」


 自分の本来の目的を前にしても、植木鉢を一つ倒したくらいの粗相を見逃せなかっ

た。


 花と土を律儀に鉢へ入れると、角刈りは、豆粒のように小さくなっていた。


 「待てえええええ!!」


 リンリは、全速力で追いかけなおす。


 距離を詰めたころには、人気(ひとけ)のない細い裏路地に入っていた。


 リンリは、男に飛びつき、授業で習った関節技で男を簡単に制圧してみせた。


 授業で習ったことを実際に使って上手くいくと、嬉しいもんだな。


 「ほら、観念しろ! 脱獄犯!」


 男は、後ろに回された腕に痛みを感じながら、顔をコンクリートに押し付けられた

体勢で声を漏らした。


 「あんたは…、憲兵か…?」


 か細い、何か不安に駆られているような弱弱しい声だった。脱獄犯だと聞いていた

から、もっと高圧的な態度を取るのかと思っていたので、安堵を通り越して拍子抜け

だった。


 「ああ、僕は憲兵だ!」


 憲兵学校に通うただの見習いだが、つい言ってしまった。


 リンリは、クソ真面目なうえにクソ見栄っ張りだった。だから友達が少ないのであ

る。


 憲兵だと、声を高らかに嘘をついてみせると、男は、急に泣き出した。


 それもう、まともに息が出来なくなるくらいに、まるで過呼吸のように、うっう

っ、と苦しそうに泣き始めた。


 リンリは同情して、関節技を解いてしまったが、彼は逃げたり反撃したりする様子

はなく、むしろ、あろうことかリンリに向かって、ひざまずき頭を地面に付けて、土

下座した。


 「お願いします!」


 ぐしゃぐしゃになった声音で、彼は懇願した。


 「俺の罪を、俺の腕を、切ってください!!!!」


 「えっ…」


 「娘の…、娘に会うために、腕を切らないと…、ううぅ…」


 リンリは、聞いたことのない言葉の組み合わせに、固まった。


 それからしばらくは、脱獄犯の彼の背中をさすりながら呼吸が整うのを待った。




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