第9話 肯定
脱獄犯・場内造(じょうないつくる)は、娘の結婚式に行きたかった。
子供のころは、引っ込み思案で友達がなかなかできなかった娘が、今では立派にな
って、翌日には嫁入りするらしい。
だから、その父親は、警察の目を忍んで脱獄したのだ。
「でも、そもそもどうして窃盗なんか…」
リンリは疑問に思った。この男の話によると、健康体の娘が二人いて、妻も生きて
いるというが、経済的にも精神的にも余裕があったにも関わらず、窃盗なんて真似を
する意味が分からなかったし、言ってしまえばこの人は愚かだと思った。
「それは…」
落ち着きを取り戻し始めた男は、再び何かに怯えるようにして、呼吸を乱した。
ストレス発散で始めた軽犯罪が、そのまま癖になってしまう、というのを授業で聞い
たのだが、どうやらそれではないらしい。
「すいません、無理に言わなくても結構です」
リンリは、これ以上は問い詰めないようにした。いくら犯罪者とはいえ、この人だ
って一人の人間だ。娘の結婚式のために、勇気を出して脱獄を選んだ人を、追い詰め
るような真似はしたくない。
「お願いだ…。俺を、娘に、合わせてくれ…!」
男は、深く頭を下げてリンリに懇願した。
さっきの土下座もそうだが、大の大人がプライドを捨てて頭を下げられると、なん
だか申し訳ない気持ちになってしまう。
それでもリンリは、彼の手を掴み、誓った。
「分かりました。僕が、何とかしてみせます」
憲兵だと嘘をついた少年の、勢いで突いた言葉は、それでも壮年の心に届くように
と、祈りと決意を込めた。
アパートから戻ると、昼間に全速力で走り、壮年の長話に心を揺さぶられたことに
よる疲れが、身体に重くのしかかるのを感じ、そのままベッドに倒れた。
仰向けになり、ふと、自分の右腕を天井にかざす。
利き腕。
リンリにはあって、母には無いもの。
警察に捕まった者は残っていて、憲兵に捕まった者にはなくなるもの。
あの壮年、場内造の言うことは分かるけど、リンリには、それは分かりたくなかっ
た。
無実の罪で切り落とされた母の利き腕。
家族に会う『時間』を得るために切り落とす場内造の利き腕。
同じ『処刑』でも、それは決して同じなんかじゃない。
リンリは、怒りたかった。
自分の母は、腕を切られたことによって膨大な『幸せな時間』を失ったというの
に、彼は、娘に会うという『幸せな時間』を得るために、自ら腕を差し出そうとす
る。
やり場のない怒りだった。
誰にぶつけることもできない怒り。
場内造の立場が羨ましかった。
どうしてあの人は本当の犯罪者なのに、腕を切り落とすことで幸せになって、無実の
罪を着せられた母は、切る必要のない腕を切り落とされて不幸になるのだろうか。
それが、許せなかった。
でも、場内造にそんなことを訴えたところで、「知らねえよ」と思われるのが関の山
だ。そんな事情、彼には関係ないのだ。
しかし、彼の処刑を引き受けた以上は、尾野に評価をもらうためには、彼を憲兵とし
てとらえて処刑する他ない。
リンリは、小一時間ほど、今日のことだけを頭の中で反芻し続けた。
その反芻を破ったのは、一件のメッセージ。
尾野輔からだ。
『どうだった?』
感想を求めてきて、だらだらとソファーにでも寝そべりながら、リンリの反応を楽し
んでいるに違いない。
しかし、もう一件のメッセージが、追ってやって来た。
『あいつが憎くてたまらないだろ?』
「え…?」
思わず声が漏れた。
見ていたのか、今日のやり取りを。
いや、そんなはずはない。確かに場内造を見つけたのは繁華街だが、捕らえて話を聞
いたのは人の気配のない裏路地。第三者がいればさすがに気付くような静けさだっ
た。
それなら、あらかじめ知っていたのだろうか。
処刑人・尾野輔は、何者かから指名手配犯や脱獄犯の情報をもらって、その人物を捕
え処刑するのを生業としている。
この間、本人がそう言っていた。
犯罪者の名前・顔・犯罪の内容以外にも、もっと詳細な事情を把握しているのか。
尾野に情報を流す人間は、果たして何者なんだ。
しかし、今はそれどころではない。
昼間はモヤモヤと自分の頭の中を漂うだけの怒りが、少しずつ膨らんでいき、今で
はそれが破裂して、自分がどうかなりそうだった。
リンリは、勢いに任せて返信した。
『はい』
そして、もう一通。
『だから、あいつを捕えて、あのボロボロの斧で腕を挽くように、何度も何度も切
りつけてやりたいです』
こんな復讐心に満ちた内容を文章として送ったのは初めてで、清々しい気持ちを感
じながら、それでも少しだけ気持ちがソワソワする。
リンリのコメントに、どう意見するだろうか、と。
一通を受け取り、確認すると、リンリは、ベッドからむくっと立ち上がった。
『いい考えだ。俺だって、あいつの悲鳴を聞きたいぜ』
嬉しかった。
クラスメートや百葉が聞いたら、完全に否定するような内容を、処刑人はあっさり
と肯定してくれた。
家族以外で初めて、自分のありのままの憎しみを受け入れてくれたことに、リン
リは興奮して、普段ベッドに着いて寝る時間になっても、しばらくは寝付けなかっ
た。
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