第4話 被害者
昼間の快晴とは打って変わって、厚い雲に覆われた空の下、リンリは途方もなく走り続けた。
悔しかった。
この国の憲兵の『処刑』を変えるために処刑人を目指していたのに、あんな赤の他
人の惨状にも耐えられない自分が情けなかった。
湿っぽい空気の中、息が上がりながらも止まらずに走り続ける。
しかし、止まってしまった。
むしろ、走っている方向と反対側の方向に弾き飛ばされた。
「いっててて…」
誰かとぶつかったようだ。謝らないと…。
地面に尻をつけた体勢から一気に相手の目線に引き寄せられたのは、突然のことだ
った。
「おい」
今の空模様のようにどんよりとした声音は、しかし暴力的な強みを持っていた。
そう、リンリは今、胸倉を掴まれている。
自分よりも一回り大きな男の両手に、男子にしては華奢な身体を持ち上げられてい
る。
「ひっ」
思わず小さな悲鳴が漏れた。
「ごめん…なさ…」
「聞こえねえなぁ~!! あーははは!!」
目の前の大男の連れらしき痩身の男が、怯えるリンリの様子を見て楽しんでいた。
「おいおい坊主ぅ~。兄貴の服にタバコの灰がついちまったじゃねえかよぉ~。ど
うしてくれんだぁ~?」
痩身は、なおもおどける。
「で、どうすんの?」
次は、大男が口を開いた。正直、こっちの方が怖い。
リンリは、声が出なかった。
こんな半端ものみたいなやつらに、逆らったり、堂々とした態度で謝ることが出来
ないのがもどかしかった。
「あれれ、なーんかお前の方が被害者みたいな感じになってっけど?」
痩身の言葉に、寒気が走った。
「言っとくけど、加害者はお前だからな。大人しく制裁受けるなり詫び入れるなり
しろっつの! ぎゃーははは!」
被害者。
加害者。
リンリが間違っていて、目の前の、いかにも不良然としたこの大人たちが正しい。
そうだ。
加害者になったら終わりなんだ。
誰が正しいか、誰が間違ってるか、決められて、間違っている人間を孤立させて、
罵倒して、痛めつけて、嗤って、卑下して、軽蔑して…。
『本当に、私じゃ、ないのに…、ああっ!!』
腕を切り落とされた母は、冤罪だった。
憲兵の軽率な判断により、母の大事な利き腕は、切り落とされたのだ。
無実が証明されても、母を誤認逮捕した憲兵は謝らなかった。
むしろ、自分のキャリアに泥を塗ったと逆上し、母の袖を見て、鼻で笑った。
母の腕は、戻ってこない。
彼女の無罪を知らない人間たちは、犯罪者だと決めつけるようにして、彼女を笑っ
た。
事情を知る人間たちも、露骨にならないよう徐々に、彼女との関わりを絶った。
彼女の夫―リンリの父―も、リンリも、今は無き彼女の腕の方に視線が行きそうに
なるのを必死でこらえて、無理して笑う日々が続いた。
父は、勤めていた会社をクビになり、リンリは、学校でイジメられ孤立した。
そして、今。
大人たちは、ただ、ぶつかっただけで、その拍子に粉粒程度の灰が服に落ちただけ
で、自分たちよりも弱そうな少年に、割に合わない制裁を加えようとする。
リンリの母の事情など、知る由もなく、ただ目の前のムカつくガキに狙いを定め、
拳を後ろに引いた大男。
殴られる。
ただそれを、待つしかない。
少しの過ちも見過ごすことのできない輩に捕まってしまった自分の不幸を呪うしか
ない。
処刑だった。
母子そろって、強者による不条理な制裁を、じっと待つことしかできなかった。
『倫理』なんて、存在しているようで、実在しないまやかしなんだ。
リンリは、目を閉じた。
もう少しで、あの大きな拳が顔面に衝突する。
「なんだおま…ぐっ」
息をのんだ。
「兄貴…ぐふぉえ…」
唾をのんだ。
…あれ。
妙だった。
目を閉じた暗闇の中、息をのんで唾をのむ時間が、充分にあったことに不自然さを
感じた。リンリにとって都合のいい幻聴のようなものも聞こえた。
おそるおそる目を開ける。
すると、掴まれていた胸倉から男の拳は離れていて、その男は、地面に寝転がって
いた。
連れの痩身も、同じようにして、腕を大きく広げて気絶していた。
そして、目の前には、もう一人、大人の男の後ろ姿が見えた。
男は、後ろを振り返り、リンリに笑いかけた。
「よお、お前が『処刑人』を目指してるって小僧だろ?」
大人だが、リンリを脅した二人組よりも若い容姿だった。
しかし、そんなことは、どうでもよくて…。
「あなたは…」
「ん? 俺か?」
大人に脅された次は、大人に守られて、混乱するリンリに、目の前の彼は追い打ち
をかけるようにして言った。
「俺は、『処刑人』として生計を立てている者だ。中央都市『キャピタル』の北区
を管轄している」
無邪気な顔で笑う彼に、リンリは、どんな感情を抱いているのか、自分でも分から
なかった。
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