第1話 現代、私の自宅のリビングルームです
マチは目覚めると、いい匂いに気づいた。かつて嗅いだことのない不思議な匂い。
起き上がろうとすると身体がいつもより重い。そして、なぜか、ひどく怠い。ものすごくだるくて、マチは目を開けたくなかった。
右の頬や身体の脇にある感触が違う。
これ、ふんわりと柔らかいけど、なんだろう?
こんなフカフカな床は経験ない。
夢でも見ているのだろうか?
ああ、そうか、これはまだ夢だ、それとも夢の中の
そう、目覚める前にマチは大きな誤解をした。
その誤解はあっという間に霧散したんだけど。
そこは極楽なんかじゃなかった。地獄よりもひどい。神も仏もいなかった。
地獄はジリジリジリという凄まじい大音響ではじまった。
ジリジリジリ!
危険を知らせる大鐘の音ではない、まして、太鼓でもない。
まったく聞いた覚えのない不気味な音。
地獄の鐘か?
現代人なら目覚し時計を知っている。
しかし、時計を知らない、先進国など見たこともない戦国時代に生まれた女が、最初に耳にしたのが目覚まし時計。この不幸を誰が予想できただろうか。
ジリジリジリ!
マチは飛び起きた。
起きた瞬間、ソファから落っこちた!
それでも、目覚し時計は鳴り続けている。
彼女はキョロキョロして、それから、音がなる正体に気づいた。奇妙な丸い硬いカラフルな小さな物体に、悪霊をみた。
マチにとって幸運だったのは、周囲の奇妙さに気づく前に、目覚し音に注意をそがれた点だった。目覚し時計の効用といえば、マチにとってそれくらいものでしかなっかった。
午前10時55分。
もし、マチが時刻を読めたら午前10時55分になっていたはずで、怠け者アメが朝の一仕事を終えて、二度寝するために目覚しをかけていたと知るはずもなかった。そして、11時5分前という絶妙な時間設定の芸術的配分にも気づくはずもなく。
というのも、起きる5分前だと、あと5分残って得した気分になるのであって、この
と、まあ、そんなことを得々と説明したとしても、戦国生まれのマチにとってはどうでもいいことだろう。
悲しいことに現代人に言っても理解し難いらしく、この絶妙の5分を夫に告げたとき、鼻で「ふん!」とかわされた。
ま、いい。男というものは
彼らは、2度寝職人の朝を知らない!
で、マチも怯えた。ものすごく怯えてから、怯えた人間が最初にすることを、丁寧に一通りやりとげた。
つまり、目覚しから遠ざかり、それから、じっとそれを見て。
「命ばかりは!」と、平伏した。
時計は鳴り止まない。
「ナミアミダブツ、ナミアミダブツ、ナミアミダブツ」
時計は止まらない。
「ぎゃ、ぎゃ、ぎゃあ〜〜〜!」
時計は止まらない。
少なくとも、その鳴る物体は小型の丸いもので、すごい音を発するが危害を加えてくるわけでもない。そう理解するのに、おそらく10分はかかっただろう。
というのも、アメの目覚しは10分で音が鳴り終わるからだ。
アメ哲学として、10分で目覚めないなら、それは寝足りないということで、自分を甘やかすこと山のようなアメは10分を限界と心得ていた。
つまり、この目覚ましは10分で止まる。
さて、現代人と違い、戦国時代の人間は、特に一般の庶民は時間の進みが違う。時に支配されていないから、せっかちじゃない。
10分間、マチは、なんの行動もおこさず、叫び、それから、ありとあらゆる神仏に祈り、そして、再び叫ぶことを選んだ。
神仏に順繰りに巡り、ときおり叫び声を挟みながら、お狐さまに頼んだとき、音が鳴り止んだ。
「な、かあちゃん。やはり、お狐様の霊験が一番すごい」と、心のなかで思ったのも、むべなるかなだ。
父親の死から生活が困窮し、かあちゃんとマチの間では、どの神様が願いを聞いてくれるかという論争まで起きていた。
マチはお狐さま、母ちゃんは仏さまだった。
だから、マチは勝ったと思った。その小さな勝利に少し酔っただけで、結局のところ脅威は変わらない。
部屋は急にしんと静まり、彼女は戸惑った。
平伏したまま、マチはそのままの態勢で、お狐さまに礼を言った。
それが早すぎることに、まだ気づいていなかった。
マチは礼をいいながら、ちらりと視線を横にむけた。
見慣れない!
何じゃ、これ?
マチの右の視界には、四角い黒い棒が組み合わさったものが見え、左には布でできた何かがある。
左側はマチが落っこちたリビングルームのソファだ。
マチには想像もできなかっただろうが、黒い棒が組み合わさったものは、キッチンテーブルで、実は私が探しに探して見つけた大事な大事なテーブルだったのだ。
おそるおそる、マチは指を伸ばして、コリコリ、爪で傷をつけてみた。
テーブルの足の一部が削れとれ、少し傷がついた。
もうちょっと、コリコリしてみた。
(や、や、や、やめい!)
(私のモダンテーブルを傷つけんな! 高かったんだ。崖から飛び降りる気持ちで買ったんだ!)
数分、状況が飲み込めず恐れ続けた結果、マチは恐れることに飽きたとき、その時、玄関ドアが開いたんだ。
そこでマチの見たものは、たまたま、訪れた私の母だった。
(つづく)
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