僕の嫌いな異世界モノ 一.

 あのうざったらしい序文を読んでなお、ここから先を読んでくれようとしてくれている皆さん。ご機嫌よう。


 皆さんをがっかりさせるようなものは書かないつもりなので、よろしくお願いする。



 ということで、一つ目の話題は「僕の嫌いな異世界モノ」だ。

 まあ見ていただければわかる通り、僕が嫌いな異世界モノの要素を列挙していきながら、なぜそこが嫌いなのかを述べていくという話題である。


 言っておくが、これはあくまで僕個人の意見で、全ての人の総意ではない。

 しかしながら、僕が今から述べる要素というのは「多くの人から嫌われているかもしれないな」と考え、そういった表現を避けることが無駄になるほど、一般的な考え方から解離しているわけでもないと思う。



【作法がなっていない作品】


 まず最初に作法がなっていない作品だ。

 僕はこれを小説だと思っていない。なので、作品と呼ぶこともしたくないが、他の呼び方が「ゴミ」くらいしか思いつかないので、仕方なく作品と呼ぶことにする。


 短い見出しでは分からないかもしれないので、簡単に実演していく。




俺は走った

後ろから二匹の化物が追いかけてきた

逃げたかった

しかしそれではだめだ

「…」

俺は立ち止まって振り返った

「フレイムバースト!これでもくらえ!」

この技できれば最後まで隠しておきたかった

─プシュー

怪物が1体断末魔すら上げずに灰になった




 これの何がいけないんだという方はおそらくいないだろうが、まあ段階的に説明していくということで、許してほしい。



 まず一点目、段落がなく「、」「。」が使われていない。


 こんな作品が存在するのか。冗談だろ。と思うかもしれないが、ある。

 実際、僕が開催しているジャンルフリーで参加可能の自主企画に応募された作品でいくつかこういった作品を見かけた。


 言わずともがな、論外である。


 文章の終わりには「。」を、区切りのいい場所には「、」を。改行したら段落を作ろうね。

 この程度のことを説明しないと分からない人間が、インターネットには存在するのだ。すげえな、インターネット。



 二点目、文末の重複。


 日本語のめんどくさい所として、文末に同じものが連続すると文章がバカっぽくなるという点がある。


 例文では「〜た。」が連続していることにかなり違和感を覚えたと思う。


 改善方法としては、日本語の時制をあまり気にしない点を活用して、過去のことでも「〜している。」現在のことでも「〜した。」等、文末が重複しないように適宜修正していくのが最も簡単だ。


 他にも「〜してしまった。」と完了で表現したり「〜ようだ。」「〜らしい。」と伝聞や推定で表現したりすることで回避していくこともできる。



 三点目、偶数回打たなければならない記号。


 小説作法として、偶数回打たなければならない記号がある。


 三点リーダー「……」とダッシュ「──」だ。



 これらの記号は一回につき二文字分使わなければいけないという、意味のわからない決まりがある。こうやって偉そうに講釈垂れているが、僕自身なぜこうしなければいけないのかはよく知らない。

 いっぱい小説を読んでいたら「こういうものだ」と覚えただけだ。なので、皆さんも理屈で理解しようとせず「こういうものだ」と覚えていただければそれでいい。



 四点目、記号の後ろの空白。


 記号、とりわけ感嘆符「!」や疑問符「?」は、その後ろには一字分空白を入れるという、これまた意味のわからない決まりがある。

 おそらく、三点目も四点目も読みやすさの観点でこうするべき。という理由でこうなっているのだろうが、正直言ってこの程度で読みやすさが変わるとは到底思えない。


 しかし、こうするのが作法だと言われれば、従うのが吉なのは間違いないので、変に逆張りしないようにすることをオススメする。



 五点目、表記揺れ。


 文章中で表記揺れはあってはならない。もちろん、意図して行われる表記揺れ(あだ名、二つ名、蔑称)は同じ人物に対する呼び方で発言主を特定できる等の利点があるので、むしろ推奨する。


 しかし、意図せず起きる表記揺れは読みずらさでしかないので、できるだけ消していこう。


 例文では二つの表記揺れを用意した。


 一つは最初に敵を「二匹」と数えているのに対し、その後に「1体」と数えていること。


 文章の中で数字が出てくる時は、事前に算用数字を使うか、漢数字を使うかを決めて、どちらかだけを使うのが決まりだ。これは単純に見栄えが悪いからだろう。

 小説では漢数字を使うことを推奨する。


 また、同一のもを数える際は同じ単位を使うのも、明言されているわけではないが、常識の一つだ。



 そして二つ目は、最初は敵を「化物」と呼んでいたのに対し、後では「怪物」と呼んでいること。


 先ほどの単位の話とほぼ一緒だが、読者を混乱させないためにもどちらか一方に統一するのがいいだろう。


 わかりやすく言えば、表記揺れというのは一人称が「俺」だった主人公が、なんの理由もなく一人称を「私」に変えるのと一緒だ。

 読者は間違いなくそこで混乱し「こいつは誰だ?」となる。


 そういったわかりにくい表現をあえてすることで、意図的に読者を混乱させることを「叙述トリック」というが、これは主に推理小説で使われる技法であるため、読者層が若く、尚且つ読み応えを求めていない異世界モノでは推奨しない。



 最も重要な一点目、特に多く見られる二点目以降を紹介するべく例文を書いたが、それ以外でも注意すべき点はあるので、自分で読み返している時に「あれ?」と感じたら、より注意して読み込んで、違和感を分析する癖をつけたほうがいい。


 自分の作品を読み返している時に違和感を感じることはなかったのに、読者から指摘されるようなことがあれば、それは自分が作法を間違えている、ないし知らない可能性がある。

 その際は、自分で関連しそうなキーワードで調べてみる。とにかくたくさん本を読む。等のインプットが必要かもしれない。


 インプットは改めて話題を設けて話をするつもりだが、小説を書く時、自分の中にある物だけで書けると思っている人は、その考えを改めたほうがいい。

 二番煎じ、パクリにならない範囲で他の作品を参考にすることは決して悪くない。むしろ、ある程度評価されている作品の手癖は一度完璧にコピーしてみるくらいの意気込みはあってもいいと思う。






【キャラクターモノと化しているのに、なりきれていない作品】


 作法がなっていない作品についての話が長くなりすぎてしまったので、少々巻いて行こうと思う。



 異世界モノに限らず、あらゆる作品はキャラクターありきで成り立っている。これは小説以外の物語もそうだ。


 物語、特に異世界モノで多く見られる一人称の物語は、主人公という架空の人間の自著伝だ。つまり、主人公という一人の人間の人生を事細かに書いていったもの。ということになる。


 物語というのは主人公を中心とする人間関係の中で起こることなのだから、そこにキャラクターがいなければ始まらない。



 そこをうまく利用したのがキャラクター小説というジャンルだ。


 このジャンルは特殊なので、いまいち「これがキャラクター小説」と言える作品というのは浮かびにくいが、ラブコメは大抵これに属する


 キャラクター小説は、主にキャラクターに焦点を当てた作品で、大抵は主人公を中心とした人間関係を細かく描写する仕組みになっている。



 では、見出しで言う「なりきれていない作品」とは一体何か。


 異世界モノの読者は大抵がアニメオタクである。

 表紙や挿絵に描かれるちょっとえちえちな美少女イラストを目当てに読んでいる人も少なくないだろう。


 こういう層に対して、キャラモノは良く刺さる。


 しかし、それを履き違えて、話の大筋が無駄に壮大なのに、萌えキャラにもめちゃくちゃ焦点が当たってる。しかも、キャラクターもそれほど掘り下げられておらず、適当な理由で主人公に惚れる萌え奴隷と化している。という状態が、なりきれていない作品だ。


 こういった作品の多くは、やけにいっぱい女の子が出てくる割に、それぞれにキャラが掘り下げられておらず、違いは見た目と口調くらいで、あとは特に何も違わない萌え奴隷ばかりというものが多い。


 これらが歓迎され、出版、アニメ化と漕ぎ着けられる背景としては、世のオタクたちがこれをキャラモノと勘違いして支持したという流れがある。


 しかしこれらの作品を見て「俺でも書けそう」と思った人々によってこのジャンルは埋め尽くされているので、今からそこへ参入しても伸びることは恐らくないし、そもそもこのジャンルは面白くない。ジャンルそのものが出来損ないであるからだ。


 

 では、これを回避する方法はあるのか。



 僕は異世界モノに限らずあらゆる作品において、各キャラクターは限界まで深く設定をする必要があると考えている。


 なぜなら、作品の中だろうが登場人物は全員人間だからだ。もちろん人の形をしている必要はない。知能があり、言葉を話し、意思疎通が可能な対象をここでは人間とする。


 現実世界に住む我々が、最も蓄えた情報の少ない生まれた瞬間ですら、自分を構成する要素の全てを言葉で書ききれないように、キャラクターたちというのもその要素を全て書き出すことはできない。

 だが、我々はそれをやってのけなければならない。できないことをやらねばならないのだ。

 

 こと、主人公を視点とする一人称小説では、読者に伝わる全ての情報が主人公という色眼鏡を通る。これは一人称小説の難しい点であり、面白い点でもある。


 人が何かを感じた際、それをどう感じるのか、つまりそれぞれの持つ色眼鏡は、その人が経験してきたこと、元来の考え方で決まる。

 それを方程式のように組み立てておくことが、キャラ設定だ。


 その方程式がそれぞれのキャラクターにあれば、あとは物語の起点を投げかけてやるだけで、連鎖反応的に物語は進んでいく。物語を書く時必要なのは、キャラクターと世界観だけだ。

 あとはその連鎖反応を、少しずつ作品のテーマに沿って誘導していく。これが執筆だと僕は考えている。



 これはあらゆる創作物で理想の状態だ。特に、キャラものにとっては、この状態にすることが作品の始まる条件であるとも言える。

 しかし「なりきれない作品」というのは、キャラものを謳ってきながら、それができておらず、登場人物が主人公以外皆、人間味がない。

 主人公だけには人間味があるのは、大抵の無双系の主人公は、作者のあったらいいなこんなこと。を体現した存在であるため、モデルが作者である場合が多いからだ。

 作品を書く時「こんな時自分ならどうするか」と問えば、その場で答えが返ってくるので、簡単にできてしまう。



 つまり、こう言った「なりきれない作品」になることを避けたければ、キャラクターの設定は極限まで細かく書いていくことだ。


 好きなもの、こと。嫌いなもの、こと。考え方、生まれ、育ち。

 設定そのものが作品に登場する必要はない。しかし、書き出していった幾つもの要素が一点で像を結ぶ頃、そのキャラクターは多くの作家が言うところの「キャラが勝手に動く」状態になっているはず。

 繰り返す、設定自体が作品に登場する必要はない。


「ポテチならのり塩が好き」という設定のキャラクターが、作中でのり塩のポテチを食べている必要はない。

「元彼がいる」という設定のキャラが実際に作中で「元彼がいた」と語る必要もない。



 大事なのは、その要素がキャラクターにどんな影響を及ぼしているのか。



 以上のように掘り下げられていないキャラクターのみで構成された世界観に、ただ一人妙に細かいディティールを持つ主人公が飛び込んでいく。そんな作品が異世界モノのには多い。


 意図的にこういうふうな構成で作られた作品なら面白いと思うが、そうではない作品はそこに虚構を感じてしまい、内容より、キャラクターたちの不気味さが目立つ。

 もしかすると、不思議の国のアリスは意図的にこれをやっているために、特有の不気味さを持っているのかもしれない。



 巻いていくと言ったが結局長くなってしまった。

 結論としては「キャラ設定はできるだけ細かく」だ。短くすればこれだけ済むのだから、全ての物書きがこれくらい理解していて欲しいものだが。



 ここまで読んでくれて感謝する。

 作者がめっちゃ疲れてきたので、ここらへんで区切って残りの言いたいことはまたあとで書くことにしよう。

 

 更新がいつになるかは分からないが、気長に待っていて欲しい。


 ちなみに、今の時点でこの文章は僕がカクヨムに公開しているどの作品よりも長い。ふざけやがって。




 

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