第4話

 台所は異様な程物が少なく、生活感を感じない。金村が水道に近付いた時、それは起きた。


 がたがた、がたがた。


 蛇口が激しく震え出したのである。金村は笑う、という表現をしていたが、倉下にはそれは怒っているようにも嘆いているようにも見受けられた。


「ボクが近付いたときだけ震えるんだ。不思議でしょ?」


 倉下にはそれが、心霊現象であるとすぐに分かった。だが、それをいかように説明すべきかと悩む間に、金村は蛇口を捻り、コップに水を注ぐ。水道水は、まるで水飴のような粘性を持ち、ゆっくりとコップの中へと納まった。金村はそれを、倉下が口を挟む間もなく口元に持っていき、ごくり、ごくりと飲み干した。得体の知れぬ液を喉に通した金村は、満足気ににこっと笑う。


「キミも飲んでみて下さい、何なら舐めるだけでも」


 霊能者として、常ならざる体験をすることは多々あった倉下ではあったが、これには少し躊躇した。そんな倉下を見て、金村は言う。


「大丈夫大丈夫、ボクは対局の前にいつもこの水を飲んでいるけれど、この通り、異常は無いから」


 本当に大丈夫なのだとしたら、自分がテレビに映った金村から何かを感じることもなく、ここに来ることも無かった。倉下はそう言いたかったが、言葉を呑み込み舐めてみることにした。水道を調べに来たことも、今のところ金村の状態に異常が無いことも、一応の事実なのである。それに。


 蛇口から出る水に指を付け、少し舐めてみた倉下に、金村は付け加えるように言う。

「ただ、少しビックリするかもだけど」



 負けろ。負けろ。負けろ。



 女性の声。絞り出すような、粘りつくような声を、倉下は確かに聞いた。目を見開く倉下の顔を、覗き込んで金村は言う。


「キミも、聞こえましたか」


 倉下がこくんと頷くと、金村は心から嬉しそうに頬を震わせた。


「良かった、良かった。これはね、ボクの別れた妻の声なんですよ」


「失礼ですが、その方は今」


 金村は目を細めて答える。

「生きてますよ、多分。連絡も取り合っていないので、どこにいるかも分かりませんけどね」


 倉下が何を言うべきか考えていると、金村はうっとりと言葉を続けた。

「以前は娘の声も聞こえました。きっと、これは元妻の、私に対する言葉であり、感情なのでしょう」


「待ってください、私には、ネガティブな言葉が聞こえましたが」


 金村は、そうだろうそうだろう、と頷いた。

「負けろ、負けろと言っていたでしょう。そこまで分かるなんて、キミは霊感が強いのかもしれませんよ」


「はあ」


「私はそれが嬉しいんですよ。私は将棋に没頭する結果、妻と娘を蔑ろにしてしまい、逃げられてしまった。不器用な質でね。だから妻は将棋を指す私が嫌いだったし、負けて足を洗ってほしいとすら考えているのでしょう。別れてから何年も経った今ですらそう私のことを考えてくれている。こう言ったらあいつは怒るかもしれませんが、それが嬉しいんですね」


 老境の棋士は、そう言ってはにかみ、続けた。

「だから、私にとってはこれで良いんですよ」


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