第67話
扉を開ける。
鼻を通る屋敷の匂いから、目に映る家具や扉の色形。その全てが懐かしい。それでいて、新鮮で清々しい心持ちもするから不思議だ。まるで観光でもするように、屋敷内の構造に目を配りながら、アイルは三階へと足を運んでいく。そして、一つの扉の前で立ち止まった。
「よ、よし…… 開けるぞ……」
アイルは再び現れた扉に苦戦していた。
「またそんなに力みやがって。男なら思い切ってやらねえと」
「少しくらいいいじゃないか。タイロンくんはせっかち過ぎだよ」
「わかってねえな、ノエルはよ。こういうの見てると、俺まで緊張してくるんだよ。それで、こう、身体がムズムズするっていうか…… これ以上時間がかかるようなら、俺が扉をぶち破る」
「何を言ってるの。そういう変な冗談はーー って、その目、もしかして本気!? 待って、何考えてるの!」
「だめだ! もう我慢ならねえ!」
「タイロンくん落ち着いて! そんなことしても後悔するだけだよ! くっ…… ! アイルくん、急いで! 僕が抑えてる内に…… !」
背中の方からおぼろげに男二人の喚きを受ける中、ふいに扉が奥に引き込まれた。無論、アイルが開けたのではない。
向こう側に現れた少女と目が合う。
「え……」
小さく一驚したきり、少女は動作を停止してしまう。それはアイルも同じで、頭の中が真っ白になり、次にどういう挙動をとれば良いかわからない。
しばらくの間、時間が止まったかのような全くの沈黙が訪れた。
「おーー」
先に動いたのはソフィアだった。彼女は一歩こちらに踏み出すと、片腕をアイルの肘辺りに回してくる。もう片方は、隣にいたライラの肩へ。
「おかえりなさい…… !」
「ただいま」
先に応じたのはライラだった。照れ臭そうな言い方だ。
それで、アイルはやっと自分が置かれている状況に心づいた。その痛いくらいの締め付けから伝わる温もりが、ふわふわ浮遊していた帰属意識に現実味を持たせる。一ヶ月の間閉じ込めていたたくさんの思いが、殻を破り、心臓の辺りから身体中に広がっていった。その種々の思いは最後には一つに収斂し、喉の方へと上がってくる。
「ただいま」
小さく、噛み締めるように言った。
「待ってたよ、二人とも……」
一段と締め付けが強くなった。
「まったく、世話の焼ける奴らだぜ」
「ほ、ほんとだよ……」
後ろに顔を向けてみると、鼻を赤くしたタイロンと、嵐の中に投げ出されたのかと思うほど服装の乱れたノエル。この短時間で、どれほど壮絶な奮戦が行われていたのか。
「どうしたんですか? さっきからやけに騒がしいですがーー」
ソフィアの方の向こうから、レナードの顔がひょっこりと現れる。
「ふっ。ようやく帰ってきたか。明日からはまたいつも通り働いてもらうから、覚悟するんだぞ?」
澄ました顔でそう告知すると、レナードはあっさり顔を引っ込めた。何か手が離せないことでもあるのだろうか。
「あら、レナード。二人のことあんなに心配してたのに、そんな簡単な挨拶で済ませていいの?」
「そ、ソフィア様!」
再び出てきたレナードからは、余裕の面が崩れて落ちていた。
「でも、帰ってきてくれるなら、前もって教えてくれれば良かったのに。色々と準備する予定だったのよ?」
「すみません。そういうことは全く考えていませんでした。少しでも早く戻りたくて……」
義理の家族以外にこうやって歓迎されたことなど一度もないから、アイルは相手の事情などは完全に失念していたのだ。
それを聞いたソフィアは、例の母のような包容力を感じさせる笑みを見せてきた。一時期あった暗い影は全くない。至近距離に映る、その透き通った瞳に思わず吸い込まれそうになる。
「わかったわ。二人は自分の部屋で休んでて。今夜は歓迎パーティーにしましょう」
「お、今日は飯食い放題か?」
「少しは自重して、タイロンくん」
促されるままに、アイルたちは自分の部屋へと戻った。
中は一ヶ月前と変わらず、彼らの数少ない私物が残してあった。ただ、ベッドは綺麗に整えられ、室内には埃ひとつ落ちていない。直前まで、定期的に誰かが掃除してくれてたのだろう。
「歓迎パーティーだって。楽しみだね」
「ああ、そうだな」
アイルたちは、その時が来るのを首を長くして待った。
どんな催しが行われるのだろうか。既に彼の頭には楽しそうな光景がいくつも浮かんでいた。
しかし、彼はそれらの全てが単なる夢幻に過ぎないということをまだ知らないのであった。
「ようし、お前らよく見ておけ! 俺の凄技をよ!」
タイロンは、彼の頭よりも一回り大きな肉の塊を口に放り込んだ。それはたった数回の咀嚼の後、喉の奥へと消えてしまう。
それを見物してた皆が、どっと下品な笑い声を上げる。
「まったく、タイロンくんは、品がないよ!品が! 仕方ないから僕の隠し芸を披露します!」
ノエルは手に持った三つのワインボトルを次々に空中に投げて、それを器用にキャッチするを繰り返している。だが、足元は覚束なく、時々出るしゃっくりで身体が大きく揺れ動いているので、危なっかしいことこの上ない。
「おいおい! たったの三本かよ! それくらいだったら、俺でもできるぜ?」
「馬鹿言っちゃいけないよ! 僕が三本で終わる人間だと思ったら大間違いだ! ほら、四本目だ! 誰か、四本目持ってきて!」
広い室内には、ひっきりなしに素っ頓狂な喚声が響き渡り、普段は大人しいはずの見知った人々が平気で醜態を晒していた。皆、人格が変わったようだった。
サンクトゥス王国では、啓示式を終えた日、つまり十五歳から飲酒の禁が解かれる。だから、アイルもお酒を嗜めるのだが、どうも自分には合わないのでやめておいた。もっとジュースのようなものだと想像していたが、ただ渋いだけでなんの甘みもない。なぜ、彼らはこれを旨そうに飲むのか甚だ疑問である。香りがどうとか、飲み方がどうとか、タイロンに色々教えられたが、生憎呂律が回っていなかったから全然理解できなかった。
そういうわけで、アイルは一人、バルコニーで水を飲みながら外を眺めていた。中の喧騒とは打って変わり、静かで時より吹く夜風が心地よい。疎外感は否めないが。一体全体、誰のために開かれた会なのだろう。唯一話し相手になりそうなライラの姿もないし、完全に手持ち無沙汰だ。
「お酒は苦手か?」
声の後、隣の手すりにもたれかかったのはレナードだ。片手には、あの赤い液体の入ったグラスが握られていた。
アイルは思わず外の暗闇に視線を戻す。
「…… 思っていたのと違いました。それに、タイロンはともかく、ノエルがあんな風になるなんて。あれは本当に人間が飲んで良いものなんですか?」
半分皮肉で、半分は本音である。いや、後者の方が割合は高い。
レナードは弱ったように笑い出した。
「まあ、ノエルほど性格が豹変する人はあまりいないな…… でも、適切な量であれば程よく緊張がほぐれる、素晴らしい飲み物だぞ?」
「そういうものですか……」
にわかには信じ難い話だ。
「そういえば、ライラを知りませんか? さっきから姿が見えなくて」
「ああ…… 彼女ならソフィア様の部屋に連行ーー じゃなくて、一緒に仲良く入って行ったよ」
「今すごい不穏な単語が聞こえた気がしたんですけど……」
「気のせいだ」
レナードは一人でうんうんと頭を振る。完全に嘘だ。
今頃、ライラは酷い目に遭っているのだろう。だが、別に傷つけられるわけでもないし、相手は同じ女性だし、わざわざ助けに行く必要もない。
「水、ぬるくないか?」
「え?」
「ほら、氷がないだろう?」
グラスに視線を落とすと、確かに水には氷が入ってない。と、そこへカランと三回続けてブロック状の透明な何かが降ってきた。
「ふっ。どうだ、これが氷魔法の真髄だ」
「…… 酔ってますね」
「程よくな」
レナードはなぜか得意そうに言った。中からの光に照らし出された彼の頬は、中々に赤い。
アイルはお礼代わりに、グラスを数回揺らし、レナードの魔法の真髄とやらを一口飲んでみた。なるほど、いい塩梅に冷たい。
「君たちがいなかった一ヶ月の間に色々あった。ギルドの最終的な順位が決定して、氷晶の薔薇は見事一位になった。烈風焔刃が除外されたおかげでな。それで、薔薇園を維持するための資金も揃った」
レナードは思い出すように、向こうの暗闇を見つめていた。
「良かったです」
「君たちのおかげなんだぞ? 私も含めて皆、君たちに感謝している。もっと自分が成し遂げたことを誇った方が良い」
「いえ。全部自分のためにしたことですから」
「自分のため?」
レナードは傾けた顔をこちらに向ける。
「みんなとまた一緒に暮らしたい。だから、みんなが無事ならそれでいいんです。ただ、嬉しいってだけで、他の感情はありません。むしろ、こんな俺たちを迎え入れてくれたみんなに感謝したいくらいです」
アイルは心の底からそう言う。
「まったく、君は……」
やれやれとでも言いたげに、レナードは肩をすくめた。
「君が抱えている問題は、私の手ではどうすることもできないほど大きく複雑なものだ。ちっぽけな私が何をしようが解決なんてできない。だが、これだけは言わせて欲しい。私は何があっても君の味方だ」
ギョッとしてアイルはレナードの顔を見た。しかし、彼は既にそっぽを向いていた。
室内の方から、ガラスが割れるような派手な音が響く。続いて「何やってんだよ、ノエル!」とタイロンの叫び声。
「はあ。少しは礼節を弁えろとあれほど言っておいたのに……」
大きくため息を吐くと、レナードはアイルの方を向かないように身体を回した。まだ、顔は見えない。
「さすがに冷えてきたし、中に戻ろう。それと、君の口からも一つ注意してやってくれ。このパーティーの主役は誰かを、しっかりと教えてやらねば。そのくらいはしていいと思うぞ?」
「そうですね」
アイルはクスリと笑って、中に入るレナードの後に続いた。とうとう、彼がどういう表情をしていたのかを見逃してしまった。
胸が温かい。さっき酒を飲んだ時とは違う、柔らかで絶対に手放したくない。そんな温かさだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます