第62話
ソフィアの母が玄関扉を開けたのは、日が沈み窓の外が暗くなってきた頃だった。ボロ家のため、軋みが酷く、扉の開閉時に家全体に振動が伝わるからすぐにわかる。
その聞き慣れた音は、ソフィアにとって福音をもたらす鐘の音と同義であった。幸せが舞い込んでくる音。彼女は狭い寝室を飛び出し、玄関に向かう。
しかし、彼女の後に続いて入ってくるはずの姿がない。
「あれ、ローズは?」
「ああ…… 今日は、お友達のお家に泊まることになったの」
母は歯切れの悪い言い方をした。今日は二人で王都に買い物へ行ったはずだったが。
しかし、別に怪しむ必要もない。母のことはそれくらい信頼していたし、妹のローズはもう八歳だ。一日くらい心配あるまい。
「そっか」
「それより、今日は久しぶりにお肉を買ったから、二人で食べましょう」
「本当に!?」
「ええ。たまたま知り合いの方に安く譲ってもらって」
その日は、味気ない芋類に加えて、一切れの薄い肉が出された。肉質は固く、ボソボソとしていたが、それでも十分美味しかった。その時、母は調子が悪いと言って、料理に手をつけなかった。
「ローズったら、こんな日にお泊まりに行くなんて。もったいないね」
「そうね」
ローズがいない初めての夜。窮屈なはずの寝室はやけに広く、場所を持て余している気がした。
それからあっという間に二日が過ぎた。表面に傷の目立つテーブルを囲んでいたのは、ソフィアと母だけだ。卓上に置かれた一本のロウソクの火は、もうすぐ尽きようとしていた。
「まだローズはお泊まりしているの?」
「ええと、ローズは…… しばらくはあっちでご厄介になることになったの」
「ご厄介…… ? しばらくって、いつまで? お友達って誰のことなの?」
「大丈夫、すぐに戻るはずだから」
「でも……」
ソフィアはなんと返していいかわからなくなった。
「それより、今日も魔法の鍛錬はした?」
「ううん。なんだか、ローズのことが心配になっちゃって」
「ダメじゃない、ソフィア。あなたは優性種なの。あなたは私たちとは比べものにならないくらい、魔法の才能があるんだから。それを無駄にしちゃだめ」
優性種。この言葉はあまり好きではない。
「でも、やっぱり心配で……」
「ローズのことは心配いらないわ。あなたは自分のことに集中していればいいの。そうすれば、将来はこんな生活しなくて済むから。あなたにはその力がある。わかった?」
この時の母の眼差しは、名状し難い特殊な光をたたえていた。慈愛とも取れるし、哀情とも取れる。はたまた彼女自身への慰めだったのかもしれない。
「わかった……」
一週間が過ぎた。
絶対におかしい。何かあったのだろうか。そんな漠然とした不安が日に日に増していった。
おそらく、ローズは友人の家に滞在しているわけではない。
ソフィアは何度もローズの捜索を嘆願したが、母は曖昧に答えるだけでまるで行動を取ろうとはしなかった。我が子が危険な状態にあるかもしれないのに、別段取り乱した様子もなく。既にこういう事態になるのを知っているようだった。
もうローズは戻ってこないのだ。ソフィアは寝室に引きこもりがちになっていた。
今日も彼女は小さなベッドで一日中横になっていた。何もしたくない。何も考えたくない。そんなある時、不意に玄関扉がノックされた。
「ローズ…… ?」
ソフィアは寝室を出ると、玄関に目をやった。ノックは今も一定のリズムで続いている。
「今開けるから、待ってて!」
ソフィアは一目散に扉まで走り、ノブを回す。建て付けが悪く、容易に開かないのがもどかしい。全身の体重を扉にかけると、勢いよく扉は開いた。
しかし、外には誰もいない。辺りは、星のない夜空が落ちてきたかのように真っ暗だ。
「ローズ、どこ?」
ソフィアは首を左右に振る。しかし、やはり人影はない。
「そうだよね。いるわけないよね……」
諦めて引き返そうとした時、地面に白い花びらが落ちているのに気がついた。踏みつけられたのか、形は歪み、所々欠けている。
そんなただの花びらに、ソフィアの目は釘付けになっていた。なぜだか、心が締め付けられるように痛い。
突然、一陣の風が吹き、花びらが飛ばされる。
「ローズ…… ! 待って! 行かないで!」
追わないと。
ソフィアは無我夢中で花びらを追いかけた。しかし、どんなに走っても、両者の距離はみるみるうちに離れていくはがり。
いや、何かおかしい。そして、ようやく気づいた。
「どうして……」
ソフィアは家の前から全く進んでいなかったのだ。前に出した足が、その都度見えない力で戻される。まるで、家に強い引力が発生し、それに捕われているようだった。
それでも、懸命に足を動かす。
「ローズ! ローズ!」
どうしてだろう。手足の先からじゃらじゃらと金属がぶつかり合う音がする。周りから色が抜け落ちていき、全てが黒に染まっていく。やがて、ソフィア自身も黒に飲まれていった。
意識が急速に覚醒に向かう。
「夢……」
目を開けても、相変わらずの暗闇。
「そっか、私捕まって……」
遠距離系の魔法を使う者は、視界を奪われると位置が把握できず魔法を無闇に使えなくなる。そのために使われるのが、この目隠し。そして、腕は天井から伸びる鎖で吊るされ、足にも枷がついている。危険性の低い囚人はこのように収容されるのだ。
それにしても、惨い悪夢だった。
「ローズ……」
ローズがどうなったかは想像に難くない。
彼女が失踪した日から、ご飯が幾ばくかまともになった。それも数日と持たなかったが。今考えると、自分もローズの生き血を啜って生きてきたのだ。母のことを非難する権利はない。それがなければ餓えに喘いでいただろう。
貧困な土壌で芽を出した二つの命。母が摘み取ったのは、純情可憐な花を咲かすはずの一つだった。どちらかを生かすために、より生存率の低い方を選んだのだろう。
「私なんかより、ローズを生かして欲しかった……」
これが本音だ。
あれから一年後に、ソフィアは家を飛び出した。もう家には居たくない。無我夢中で走り、王都へ向かった。
その最中にダミオンと出会ったのだ。彼はしばらく自宅に泊めてくれた。
そこで、理不尽に打ち勝つには相応の力をつけろと教えられた。そして、その力は弱者のために振るえとも。数年後、その信念を胸に、彼女は氷晶の薔薇を立ち上げたのだ。これ以上、ローズと同じ結末を辿る人を見たくない。
「みんなを助けようとしたのに、結果的にみんなを不幸にしてしまった…… 私のせいで」
今思えば、母のやり方は正しかったのかもしれない。それが倫理的に許されない行為だったとしても。力無き者が高望みした結果が今の自分。全てを失った。
「また、取り返しのつかない事を…… どうしてこんなことに……」
涙が目隠しに染みていく。悔しかった。もう少しで声を上げそうだった。
そこまで至らなかったのは、廊下の方からいくつかの硬い足音が近づいてきたからだ。定期的な見回りにしては数が多い。
何にせよ、目立たないようじっとしていよう。こんな姿見られたくはない。
しかし、不幸にも音は目の前で止まった。
「なんと、これは可哀想に。我が王国で一二を争う有力ギルドのリーダーが、こんな醜態を晒しているとは」
聞こえてきたのは、この世で一番憎い声。
「サミュエル…… ! どうして、あなたがこんなところに…… !」
「まったく、もう少し信用してくれても良いと思うんですけど。僕たち、目的を同じくするビジネスパートナーじゃありませんか」
嫌味たらしく強調する言い方が癪に障った。
「そんなんじゃない…… !」
「もう、そんなに怒らなくても……」
サミュエルは語尾を微妙に引き伸ばした。それから「おや?」と大袈裟な声を出す。
「もしかして泣いてらっしゃいます?」
顔を背けたかったが、それすらできない。
「なんということだ。少々お待ちを。騎士たるもの、こういう時のためにハンカチを……」
「用がないなら早くどこかに行って。あなたと話すことなんて何もないわ」
「はあ、今日も相変わらず冷たいですね。別にいいですけど。僕だって、用がなければこんな劣悪な場所、好んで来たりしませんよ」
「じゃあ何? まだ依頼のことを?」
「ご明察! よくわかっていますね。僕があなたに与えた依頼覚えています?」
ソフィアは口を閉ざした。思い返したくもなかった。
「あなたの所に秘密裏に置いている少年と少女。二人をプセマ遺跡に連れ出し内部を調査した後、抹殺しろ。そう頼みましたよね? ですが、あなたはそんな気配を全く、一度も見せなかった」
心臓が飛び上がりそうになった。
「まさか、見ていたの…… !?」
「まあ、最初からあなたにそんな気がないことは薄々気づいてましたけどね。それでも、こうやって結果をまざまざと見せつけられると、やっぱり残念です。薔薇園の子のためなら、心を鬼にしてくれると淡い期待を抱いていたのに」
「私はそんなことは絶対にしない…… !」
「そんな中途半端な事をするから、こうなるのでしょう? 本当に残念です。あなたは有用な人間だったのに。ですが、もう要りません」
前の鉄格子からカチャリという音がした。
足音が牢屋内に入ってくるのがわかる。殺されるのだと確信した。
「え…… ?」
だから、ソフィアは戸惑った。手足を繋いでいた鎖が解けたのだ。
彼女は前のめりに倒れる。その拍子に、巻かれていた目隠しが外れた。中は暗く、目が光に慣れる必要はない。
すぐ目と鼻の先には一人の騎士ーー サミュエルがしゃがんでいた。白い髪に、病的に青白く整った顔立ち。こちらを見る瞳は、不吉な感じがするほど赤く輝いていた。その奥の通路には二人の騎士が。
「どういうつもりなの…… ?」
「見てわかりませんか? 釈放ですよ」
サミュエルが軽い口調で衝撃的な事を口にする。
「だって、私…… 依頼は失敗したのに…… 殺されるんじゃ……」
「まさか。罪なき民を殺すなんて、僕にはできません。これでも一端の騎士ですから。それに、これは僕の仕業ではありませんよ」
「え?」
どういうことだろう。
「それじゃあ、誰が……」
ソフィアはハッとした。
「まさか……」
「数時間前、白翼の剣の人たちがここを訪れました。ボロボロになった烈風焔刃リーダー、レイリーを連れて」
「白翼の…… ダミオンたちが? どういうことなの?」
まさか、その名が出てくるとは夢にも思わなかった。ソフィアたちが捕まった要因は、ダミオンが提出した書状だったからだ。彼が協約の事を口外したというのに。
「なんでもあの人、烈風焔刃に人質を取られていたそうで。あなたの送ったという書状は、騙して書かせたものだと白状してきました。レイリーの方は回復次第事情を聞く予定ですが、彼の拠点ではエフスロスの存在が確認できました。言い逃れはできないでしょうね」
「そんなことが……」
「ええ。でも、どうしても不可解なことが一つ。あのレイリーを倒せるほどの実力者が白翼の剣にいたのかということです。部下からの報告では、禁術クラスの魔法が使われたらしいんですよ。そのレイリーが顔面を一発、恐ろしい力で殴られて再起不能。かなり高位の身体強化が使われたんじゃないかとのことです」
「身体強化…… !」
その単語は、一人の少年と結びついた。
ソフィアは口をポカンと開ける。理解が追いつかなかった。
落胆され、愛想尽かされたと思っていた。一生恨まれるのだと覚悟していた。それがどうして。
「本当に白翼の剣だけの仕業なのか、甚だ疑問ですね。もしかしたら、第三者の介入があったりして。まあ、僕の考え過ぎかもしれませんが」
訳知り顔でそう言うと、サミュエルは通路の方を向く。他の二人もそれに倣った。
「ということで、氷晶の薔薇解体の件はなくなりました。他の皆さんは、既に釈放済みです。よかったよかった。どこかの誰かさんに感謝しないといけませんね」
騎士たちは、ソフィアを残してさっさと奥の方に進んで行ってしまった。部外者を取り残すなんて、こんな杜撰な対応でいいのだろうか。
「アイル…… ライラ……」
足に力を入れるが、長時間同じ姿勢を強いられていたため、うまく動かない。それでも、手を伸ばして鉄格子を掴み、無理やりに立ち上がる。
視界が揺らいでいく。ポタポタと涙が零れ落ちてきた。
「二人に会いたい…… ちゃんと謝らないと。お礼を言わないと……」
ようやく通路に出た。
「ありがとう…… みんなを助けてくれて…… 本当にありがとう……」
ソフィアは子供のように大声で泣きながら、ふらふらと通路を歩いていった。すれ違う騎士たちは、皆仰天していた。
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