第60話


 「弱えな、アイル!」


 「あがっ!」


 抗うことのできない不可視の奔流。アイルの身体はひとひらの花弁のように、軽々と風に押し流された。夢幻魔法により硬質化された身体には、容赦なく切り傷が刻まれていく。

 彼は屋敷の外まで放り出された。


 「さっきまでの威勢はどうしたよ? こんなもんが黒魔術なのか?」


 全壊した玄関の奥から、レイリーが高速で追跡してくる。風を駆使して、身体を浮かせているのだ。彼が通ると、その周囲の物質が瞬く間に粉微塵になった。


 「どうなってるんだ…… たった半年間でここまで強く……」


 「ぶつぶつ言ってる場合かよ!」


 レイリーの手がこちらに向けられる。魔法を発動した合図だ。しかし、目を凝らしてみても、視覚強化をしてみても、相変わらず何も映らない。

 アイルは闇雲に横に飛んだ。目で捉えられなくとも実体はあるはず。


 「ぐっ!」


 透明な刃が右腕を撫でた。途端に鋭い痛みが走り、皮膚に数センチに渡って浅くない切り傷ができた。そこから血がだらりと垂れてくる。


 「なんだっけ? 俺に罪を償わせるとか、舐めたこと抜かしてたよな? で、今はこのザマ。堅物だったお前も、随分面白れえ冗談言えるようになったじゃねえか!」


 周りの空気がざわめき始めた。次の攻撃が来る。

 アイルは思考を巡らした。そもそも、こんな開けた場所では分が悪過ぎる。彼はレイリーに背を向けると、屋敷の塀を飛び越えた。その奥は木が乱立する深い森だ。


 「おいおい。あんだけ気炎を吐いておいて、逃げる気かよ? 情けねえ奴だな」


 レイリーの声を無視して、アイルは森の中へ入った。茂みをかき分け、どんどん奥へと走っていく。

 「前と比べ物にならないくらい強くなってる」リンシアの言葉が蘇る。少し侮りすぎていた。確かに、魔法の威力も多彩さも半年前とは別格だ。それも、ただ鍛錬を重ねたというだけでは説明がつかない。レイリーに何があったというのか。

 少しして、後方の木の葉がガサガサと異常な震え方をし始める。まるで自然が脅威の接近を察知して戦慄いているようだった。

 

 「なんだ、かくれんぼか? お前もまだまだガキだな。だが、仕方ねえ。お前がそんなに遊びたいなら、少しだけ付き合ってやるよ」

 

 奥の方からレイリーの声が聞こえてきた。

 

 「昔を思い出すなよぁ、アイル。ガキの頃は、近くの森でこうやって遊んだよな。魔法の使えないお前は、いつも最初に見つかって、逆に俺たちを一度も見つけたことがなくて。今度はまともな遊びになるんだろうな?」

 

 どこかに潜んでいるアイルに呼びかけるように、レイリーは声を張り上げて思い出話をする。自分の位置がバレようとも、大した痛手にはならないと踏んでいるらしい。

 アイルは身を隠していた大木から、慎重に顔を出した。レイリーは近くの獣道を無警戒に闊歩している。周りに障害物らしきものはない。

 アイルは再び木の陰へと引っ込んだ。

 彼は深呼吸すると、顔を上げた。この木は、高さ十メートル以上あるだろうか。

 彼は真上に跳躍し、幹の中間辺りに渾身の蹴りを放つ。そこから一気に亀裂が入り、文字通り木はへし折れた。木は前に倒れ始め、断面部分がこちらを向く。


 「あ? なんだ?」


 レイリーが異変に気付いた。

 ここからは時間との勝負だ。アイルは断面を強く蹴飛ばした。木の先端はレイリー向き、矢の如く飛んでいく。


 「アイル、まさか知能も昔のまんまか? こんなんで、俺に勝てるわけねえだろ」


 あれだけ巨大だった木は、レイリーの元へ届く前に細切れにされる。

 だが、あれは単なる囮に過ぎない。

 

 「ほら、さっさと出てこいよ! それとも、そこ一帯、お前ごと切り刻んでやろうか?」


 レイリーが向いているのは、巨木が射られた方。今もその近くにアイルが潜伏してると思っているようだ。

 しかし、この時、アイルは既に折れた木の反対側に回り込んでいた。彼からはレイリーの背が見える。

 アイルは地面に踏み込んだ。そして、急激な加速。彼の身体はみるみるレイリーに近づく。


 「これで…… !」


 あと少し。もう数十センチで、拳が届く。これさえ当てられれば。


 「なんだ…… ?」


 アイルは拳の先に違和感を覚えた。それは徐々に腕の奥まで広がっていく。


 「ああ、そういえばちゃんと説明してなかったわ。俺の周りには常に、刃の風を発動させてるんだよ」


 その言葉を皮切りに、腕の皮膚が恐ろしい速度で裂けていく。


 「あああぁぁぁぁ!」


 アイルは反射的に腕を引き戻そうとする。その間にも、傷はどんどん増えていった。気が遠のくような痛みだ。

 とにかく彼は一旦身を引く。茂みの中で、自分の右腕を確認してみた。

 拳から腕の中ほどにかけて、皮膚が赤黒く光を反射していた。目を背けたくなるような生々しい裂け目からは、かなりの勢いで血が出ている。あと数秒、反応が遅れていたら、彼の腕はバラバラにされていたかもしれない。脈打つのに合わせて、耐えがたい痛みの波が押し寄せてきた。


 「はあはあ…… こ、このくらい大丈夫だ。落ち着け……」


 アイルは必死に呼吸を整えようとする。まだ、終わったわけではない。

 

 「俺だけじゃ、あいつに勝てない。だが、このままダミオンが来るまで持ち堪えられれば、まだ希望はある。それまで……」


 「よし、お前の弱さは十分わかった。遊びは終わりにしようぜ」


 風が全身を通っていく。ハッとして、アイルは目を閉じた。しかし、何も起こらない。

 彼は恐る恐る目を開ける。そして、愕然とした。

 

 「は……」


 周囲に密集していた木々が、一斉に傾き始めたのだ。倒れていく最中、木は三等分に割れ、地面へバラバラと落ちていく。数千の葉が擦れ合い、硬い幹同士が勢いよくぶつかり合う。それらの煩わしい大合唱が終わる頃には、視界を遮るものは数百メートル先まで全て消え去っていた。その中心で不敵な笑みを浮かべるレイリーを除いて。

 

 「綺麗さっぱり。これで小賢しい真似はできなくなったな」


 「な、なんなんだ…… こんな規模の魔法、使えなかったはず……」


 アイルは腕の激痛に顔をしかめながら言う。


 「ああそうか、お前は半年前の俺しか知らねえんだったな。確かに、あの時は俺も弱かった。だが、それは俺が本来の力を発揮できてなかっただけ。ずっと力が眠りこけてやがった。それをウィリアムが目覚めさせてくれた」


 「目覚めさせる? あ、あの男が?」


 「ああ」とレイリーは得意そうに言う。


 「まあ、誰もが俺みたいに強くなるわけじゃない。選ばれた人間だけが、力を引き出せるんだとよ」


 肝心の力の引き出し方については、面倒だから省いたのか、それともレイリー自身その詳細を知らないのか。興味を惹かれそうになったが、今はそんな悠長に構えていい状況ではない。

 彼我の差は明らかだ。まだアイルが未熟とはいえ、夢幻魔法を凌ぐレイリーの魔法。真正面からやり合って勝てるとは思えない。


 「さてと、お喋りはこれくらいにして。そろそろ死んでもらうか」


 レイリーが手を伸ばす。

 だめだ。極度の緊張と、激しい痛みが邪魔をして、何の良策も浮かんでこない。

 そんなアイルの顔を、レイリーが覗き込んだ。


 「なんだ、反撃する素振りすら見せねえのか? あーあ。いくらなんでも手応えなさ過ぎだろ。まあ、黒魔術なんて力があっても、扱う奴がお前じゃあな。宝の持ち腐れってやつだ。でも、良かったな。最後の最後で俺の役に立てて。雑魚だろうが、黒魔術の適性者を殺した俺は英雄になれる」


 出血し過ぎたのか、頭がぼんやりとしてくる。

 なぜだか、半年前の、アイルが村を追放された日を思い出した。最悪の門出の前に味わった、レイリーの罵詈雑言。惨めだった。もう二度と聞きたくなかった。まさか、死際にも彼の罵りを受けなければならないのか。

 思い返せば、夢幻魔法という圧倒的な力を手に入れ有頂天になっていたのかもしれない。平生の自分であれば、絶対にしないような大胆な行動もした。今回も自分の力だけで、彼を止められると夢想していた。対策を練る時間がなかったわけではない。熟考すれば、もう少し上手く立ち回れたかもしれないのに。


 「安心しろよ。お前を一人にはさせない」


 「え…… ?」


 「お前が死んだ後、すぐにリンシアも同じ場所に送ってやるからよ」


 「なんで、そんなこと…… 殺す必要なんてないだろ!」


 「なんでって、簡単な話だ。あいつはこの俺を裏切って、お前の方に付いた。これ以上の理由があるか?」


 アイルには全く理解できない動機だ。


 「あの裏切り者、一体どんな顔するんだろうな? 『お前の頼みの綱は、俺に傷一つつけられずに呆気なく死んだ。残念だったな』って教えてやったら! そしたら、また俺の方に寝返ろうとするかもな。まあ、生かしてやるわけねえが。おかげで楽しみが一つ増えたよ!」


 レイリーのその言葉はアイルの頭の中で反響し、そして、ある感情を刺激した。腹の底が、じわりと熱くなる。


 「どっちに付いた方が利益があるか、少し考えればわかることなのに、あいつも頭が悪い。アイルがこの俺に勝つなんて、天地がひっくり返てもあり得ねえのに。まあ、馬鹿同士あの世で仲良くしとけよ」


 「お前…… !」


 怒りに身を任せ飛びかかろうとしたのを、アイルは断念した。

 彼は頭を抑える。例の頭痛が発生していたのだ。


 「くっ…… ! また…… 」


 すぐに痛みの波長は弱まっていく。代わりに頭が明晰になり、同時に名状し難い快楽が全身に渡って、彼を支配しようした。加虐的な思考が脳内に絡みつく。プセマ遺跡の時と同じだ。自我が何かに侵食されていっているような。

 レイリーはそんなアイルの異変にはてんで無頓着だった。


 「ふ…… ふざけるなーー」


 「あばよ」


 今度こそ魔法が放たれた。

 死がこちらに接近してくる。殺される。

 その時。

 アイルの意思とは関係なく、頭の中で自動的にイメージが生成された。普通では考えられない、複雑なものだ。一瞬、視界がぐらつく。気がつくと、アイルはレイリーの後ろを取っていた。


 「なに…… ? どこに行きやがった?」


 レイリーは完全にアイルを見失っている。

 自分でも何をしたかわからない。また気づくと、今度は血塗れの手をレイリーに向けていた。自分の意思ではない。

 破壊したい。粉々に砕きたい。そんな欲求が、悪魔の囁きのように頭に響く。


 「何が『あばよ』だ。死ぬのはお前だ」


 遠くの方で誰かが非情に言い放った。

 その発言者が、他でもない自分であると気づく。"力"が止めどなく溢れてくる。今自分はレイリーを殺そうとしているのだ。

 あれだけ苦戦してきた強敵は、次の一撃で髪の一本すら残さずに消え去る。自分はこの未知の状態に身を委ねていればいい。

 なんだ、こんな簡単に殺すことができたのか。


 「あばよ、レイリー」


 "力"が明確な殺意を持ってレイリーに近づく。

 違う。

 アイルはもう片方の手で腕を押さえつけた。今度は自分自身の意思で。

 こんなの自分ではない。殺してどうする。それではレイリーと同じだ。やめてくれ。お願いだから、殺さないでくれ。

 アイルは心の中で叫んだ。


 (やめろ……)


 現実とは違う、暗闇の中にアイルの声が響く。

 腕にできた傷口に、指が食い込む。


 (あいつは、俺が…… この俺がぶん殴る…… ! そうしなきゃ気が済まないんだ…… ! お前の力なんていらない…… ! 俺の邪魔をするな!)


 ゆっくりと腕が下がっていく。


 (俺の身体から出ていけ!)


 所在の知れなかった意識が、物凄い力で体内に牽引され、急速に視界が晴れていく。今のこの身体は自分のものだと実感できた。


 「レイリー…… !」


 「いつの間に後ろに…… なんだよアイル、やればできるじゃねえか!」


 レイリーこちらを振り返りながら、興奮したように言った。

 アイルは傷だらけの拳を強く握りしめた。出血の勢いが増していくが、そんなことどうでもよい。身体は自由に動く。


 「お前は、仲間の命をなんだと思ってるんだ…… !」


 「仲間? もしかしてリンシアのことか? 勘弁してくれよ。裏切り者が仲間なんて。やっぱりお前、馬鹿だわ」


 「今まで何年間も村で一緒に過ごしてきたじゃないか。裏切り者だと? あいつの信頼を裏切ったのはお前だろ! 苦渋の決断だったんだ! それをお前は…… お前はどこまで腐ってるんだ…… !」


 「はぁ、今更説教か? 勘弁してくれよ。せっかく熱くなってきたってのによ!」


 レイリーが構えた。

 アイルは身体を捻りながら素早く横に避け、着地したところをさらに横に転がった。

 先ほどの得体の知れない魔法は使えなくなっていた。

 視界の端では、腕から溢れ出る血が肌を離れ、空中に飛散するのが見える。そこで彼は偶然にも不可解な現象を捉えた。球体のまま下に落ちていく血が、何か平らなものにでも当たったように平らに伸ばされたのだ。


 「風…… ?」


 左脚に何かが当たったのは、そのすぐ後だった。鮮血が飛び散る。


 「あぁっ!」


 「なんだ、さっきのすげえ魔法は一回きりか? ったく、期待させやがって」


 アイルは倒れ込みそうになるのを、なんとか気力で堪えた。

 あの現象は一体。絶望感がどんよりと漂う中に、一筋の光を見た気がした。

 彼はすぐに手をかざした。"力"を集約させる。


 「お、まだ他の魔法を隠してやがったのか? いいね、そうこなくっちゃ!」


 「ふざけていられるのも今のうちだ。俺は必ずこの手で、お前を叩きのめす!」


 「だから、さっきから言ってるだろ? やれるもんならやってみろって!」


 アイルの周りを取り囲むように黒い炎が発生した。炎は、内側に十分な空間を残して、細い円状に広がっている。


 「は? なんのつもりだ? 全くこっちに届いてねえぞ?」


 身体を浮かせたレイリーの、退屈そうな顔がこちらを向く。彼の言う通り、インフェルノは彼の手前で動きを止めたのだ。


 「別に当てるつもりなんてない」


 そもそも、インフェルノを当てれば命を奪ってしまいかねない。それでは本末転倒だ。


 「そうかよ。じゃあ、その無意味な炎の使い道を見せてくれ!」


 アイルは視覚強化を発動した。見るのはレイリーの魔法ではない。黒い炎の揺れに注目する。

 揺れた。

 アイルの右側の炎。その一方向だけ、炎の揺れ方が微妙に異なっている部分がある。

 

 「あれか…… !」


 アイルは揺れる炎とは、別の方向に身体を動かせる。どこにも痛みはない。


 「ほう?」


 すぐに視線を火に戻すと、違う方向からも魔法が迫ってることがわかった。彼はそれらを見極め、次々とかわしていった。

 やはりそうだ。あの魔法は風を刃物のようにして飛ばすもの。その鋭利な風が通る前を、弱い風が先行するのだ。いや、前方の空気が押し出されると言った方が正確か。しかも、その微風の範囲は風の刃よりもたいぶ広いらしい。

 先ほど平らになった血の滴の位置と、裂傷を負った脚とでは、違和感のある高低差があった。

 レイリーは目を見開いていた。それは純粋な驚きというよりは、感心に近い。初めて彼に視認された、アイルはそう感じた。


 「お前、俺の魔法が見えてるのか?」


 レイリーの反応から、彼はこの小さな弱点について知らないらしい。いや、知る術がなかったのだろう。彼と相対した者の悉くは、そんなもの発見する前に死んでいたはずだ。アイルがそれを見つけられたのも、偶然の産物に過ぎない。


 「ああ」


 沈黙が訪れる。それはたった数秒に過ぎないものだったが、アイルその数倍にも感じられた。

 ゆっくりと、レイリーの口角が吊り上がっていく。


 「前言撤回だ…… アイル。お前、最高だよ! それでこそ殺し甲斐があるってもんだ」


 「俺は死なない」


 「死ぬのは俺ってか?」


 「そうじゃない。罪を償ってもらうまで、お前を死なせたりはしない。俺はただ、お前をぶん殴るだけだ」


 アイルはレイリーを睨んだ。


 「甘いなぁ、アイル…… でも、いいぜ。その反抗的な目、気に入ったよ」


 すると、彼の周囲の空気を、突然オレンジ色の輝きが揺らめいた。炎だ。それは甲高い風切音を奏でながら、高速で回転し始めた。


 「それじゃあ、第二ラウンドといこうか!」


 

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