第25話

  迫り来る重い足音。


 「ライラ、下がっていてくれ」


  アイルは穴の入り口付近に、意識を集中させる。敵を目視すれば、あっという間に、それは灰へと姿を変えるだろう。準備万端だ。

  しかし、忽然とその音は聞こえなくなった。


  「あれ、音が…… どうしたんだろう…… ?」


  「俺たちの存在に気づいて、警戒しているのか?」


  それから一分以上が経過したが、入り口には何の動きもない。


  「何も、来ないね」


  「待ち伏せか…… ? だとすると、ある程度知能があるの魔物かもしれない。下手に向こうには近づけないな……」


  「私に任せて」


  ライラがそう言うと、彼女の目の前に魔法陣が現れる。そこから出てきた黒い巨体は、暗い洞窟の中では一層恐ろしさが増す。これが彼女が得意としている夢幻魔法だ。逆にそれ以外の魔法を見たことがない。

 自我のある生物を作り出すなんて、一体どんなイメージをしているのか。彼女は感覚で出せると言っていたが、アイルには到底不可能な芸当だ。


  「グルルル……」


  後ろから竜種の唸り声が聞こえてくる。いきなり巨大な生物が現れて驚いているのだろう。だが、今のところ何かしてくる様子もないので、竜種の対処は先送りだ。


  「クロ、あっちの様子を見てきて」


  黒い怪物ーー クロは穴の方へゆっくりと歩みを進める。


 「今更なんだが、クロっていう名前はちょっと合わないんじゃないか?」


 「どうして? 可愛いのに」


 「あ、ああ…… あれ、可愛いのか……」


 どうやら、二人の感性はかけ離れているようだ。

  その間にも、クロは勇敢に前進していた。しかし、その入り口にたどり着く前に異変は起こった。何があったのか、クロはけたたましい叫び声を上げ後ろへ後ずさったのだ。クロは片手で目の辺りを抑えた。

  不意に訪れた緊張。


  「なんだ!?」


  「何かに攻撃されたみたい!」

 

  「攻撃!? 穴の中からか!?」


  「ううん、わからない!」


  こうして話し合ってる間にも、クロはさらに悲痛な呻き声を発し、もがくように体を揺らす。よく見ると、クロの顔の辺りから蒸気のようなものが上がっていた。


  「酸か…… !? ライラ、クロをどけてくれ!」

 

  「うん!」


  ライラが目を閉じると、クロはすぐに霧散した。


  「よし!」


  アイルは前方に見える暗闇にインフェルノを放った。黒炎が、穴の入り口から奥の方に向かって濁流のように流れていく。

  通常、視界外へ魔法を放つことはできない。しかし、先ほど通った横穴はほぼ真っ直ぐの道だった。魔法の発生地点を、視認できる入り口に設定し、そこを始点に魔法を伸ばしたのだ。


  「倒した…… ?」


  炎が収まり、ライラが恐る恐る尋ねる。


  「あの中に何かがいたのなら、さすがに逃げられなかったはずだ……」


  「そっか…… 何だったんだろうね?」


  「さあ。わからないが…… 先にクロを行かせておいて良かった」


  クロの様子からして、あの酸を生身の人間が受けていたら、取り返しのつかない傷になっていたかもしれない。


  「アイル。クロも痛みを感じるんだよ?」


  アイルが隣を見ると、ライラは訴えるように目を細めてこちらを見ていた。


  「ああ…… そうだな。クロには感謝しないといけないな…… 」


  「グルルル」


  竜種の声が聞こえ、アイルは思い出したように振り返る。


  「さて、残るはこの竜種だ……」


  「一番最初に何かが来るのに気づいてたよね」


  「耳が良いのか、もしくは鼻が効くんだろう」


  「アイル、やっぱり私が……」


  「いいや。だが、少し時間をくれ」


  アイルは竜種を直視できずにいた。余計な邪魔者が入り、また決心が揺らいでしまったのだ。

  だが、ここで始末しなければ、今度は誰が襲われるかわからない。相手は人の命を脅かす害獣なのだ。自分が今からするのは、他者の命を救うこと。

  アイルはようやく、竜種に手を向けた。


  「あれ? この子、また違う方向を見てる」


  「え?」


  ハッとしてアイルが顔を上げると、竜種の目はアイルなど捉えていなか、彼のちょうど真横の方角を見ていた。そして、まるで威嚇するように喉を鳴らしている。


  「まさか…… !」


  そちらを向いた時には、既に黄色く濁った液体がアイルたちの目の前まで近づいていた。しかも、容易に逃げられぬよう、広範囲に散布されている。

 身体強化を発動してからライラを抱えて避けるか、インフェルノで酸を蒸発させるか。どちらも、助かる可能性は五分五分と言ったところ。

 彼は手をかざした。


 「あれ…… ?」


 魔法が発動しない。代わりに、黒い靄のようなものが、腕の辺りから出てきた。半年前、クロに握られ殺されかけた時も同じ現象があったのを思い出す。


 「思考がまとまらないせいで、魔法が形にならないのか… !?」


 ようやく理解した。

 咄嗟に出た二つの案に、頭が決定を下せていないのだ。今のところ、アイルは同時に二つの魔法を発動できない。一つの強い想像からしか、魔法は生み出せないのだ。

 たった一秒かそこからの遅延。それは致命的なものだった。

 

 「間に合わない……」


  アイルは首を振る。まだ、ライラだけ助けることなら可能だ。

  もはや、躊躇している時間はない。


  「アイル!?」


  ライラが驚きの声を上げる。

  アイルは彼女と酸の間に割って入り、彼女を庇うようにして抱きしめたのだ。これなら、自分が盾になり、彼女へのダメージを最小限に抑えられる。彼自身はどうなるかはわからないが。


  「くそ、俺が優柔不断じゃなければ……」


  残された僅かな時間で、アイルは一言、自分の無念を口にした。これが最期の言葉になると思うと、いたたまれない気持ちになる。

  背中の辺りから、ヒリヒリするような熱を感じる。


  「くっ……」


 しかし、何かがおかしい。いつまで経ってもそれ以上、何の痛みも感じないのだ。


  「ど、どうなってるんだ…… ?」


  アイルはゆっくりと振り返ってみた。


  「お前…… !」


  アイルは目を疑った。

  目の前を覆い尽くす眩ゆい灼熱の炎。それを噴出していたのは、あの竜種だった。


  「もしかして、私たちを助けてくれたの…… ?」


  ライラが呆然と言う。

  炎を吐き切ると、竜種はぐったりしたように首を下ろした。


  「どうして、そんなことを…… そうだ、敵は!?」


  「全然見えないよ……」


  「ここに入ってきた瞬間も見えなかった。やはり、奴には擬態能力があるということか……」


  地面に引火性のものがあったのか、竜種の吐いた炎は所々に残り、洞窟内を幾分明るくする。

  しかし、未だに辺りは薄暗く、どんなに目を凝らしても肉眼で敵を識別することはできない。


  「おいお前、もう一度敵の位置を教えてくれ!」


  「人間の言葉、通じるの?」


  「知能が高いんだから、なんとなく伝わってくれるはずだ! 頼む、奴の場所を!」


  アイルは縋るような思いだった。この後、殺さなければいけない相手に助けを乞うとは、なんと皮肉なことだろう。


  「グルル……」


  しばしアイルを見つめていた竜種だったが、ふいにその琥珀色の瞳を動かした。それは一見、何もない虚空を見ているようだ。しかし、その目は確かに何かを捉えている。


  「つ、通じたのか…… !?」


  「なんでアイルが一番驚いてるの!」


  「いや、まさか本当に通じるなんて思わなくて」


  たまたま竜種が敵を見るタイミングが合っただけかもしれないが。


  「クロ、お願い!」


  そう言うと、ライラが再びクロを召喚する。その顔に傷らしい傷もなく、この短時間で回復したらしい。

  クロは地面に五本の指を突き刺し、その強靭な握力で岩を抉り取った。そして、竜種の向く方に、それを全力投球する。

  岩の塊は、何もないはずの壁に激突する。


  「キィィィ!」


  突如、甲高い鳴き声が壁の方から聞こえた。そして、その壁からは赤々としたものが滲み出てくる。擬態は解けないが、素早く動くあの赤は、敵を可視化させてるも同然だった。


  「見えたぞ!」


  すかさずアイルが手をかざす。

  だが、魔法発動の前に、再びあの酸が飛んでくる。


  「同じ手は食わないぞ!」


  彼は狙いを敵本体から酸へと移した。今度は、炎のイメージだけを強く浮かび上げる。黒い炎に阻まれ、有色透明な液体は白い水蒸気へと変わる。

  追撃はない。おそらく、酸を溜めるのに多少の時間が必要なのだろう。蒸気が消えれば、後はインフェルノを放って終わりだ。


  「な……」


  しかし、視界に映ったものに、アイルは愕然とした。

  壁や地面、至る所に血が撒き散らされていたのだ。しかも、本体も静止しているらしく、どの赤にも動きはない。木を隠すなら森の中。あの酸攻撃は、最後の悪あがきなどではなく、計算づくの作戦だったのだ。

  アイルは自分の稚拙な戦術を悔いた。


  「くそ、どこだ!」


  「グルルル…… !」


  竜種の声が聞こえ、アイルはすぐさま振り返った。見ていたのは後ろの天井辺り。


  「あそこ! 血が落ちてきた!」


  ライラが指差す。


  「クロ!」


  クロは既に持っていた岩を、標的に向かって投げつけた。岩同士がぶつかり、爆発を思わせる轟音が耳を刺す。しかし、敵の声は聞こえてこない。


  「倒せたかな…… ?」


  「わからない……」


  断末魔を上げる間も無く生き絶えたのだろうか。だが、魔物が落ちてくるどころか、血の一滴も垂れてこない。


  「まさか、あれもダミーだったのか…… ?」

 

  アイルは天井の辺りを見回す。すると、少し離れた位置から血が滴るのが見えた。目を凝らしてみると、周りよりも少し隆起しているのがわかる。


  「あれだ!」


  アイルは叫ぶ。

  しかし、相手もそう易々とやられるわけではない。また、目くらまし用の酸だ。


  「またそれか!」


  身体強化を発動。

  そして、ライラを抱え、大きく跳躍する。


  「クロ!」


  アイルの肩から顔を出し、ライラがクロに命令を下す。クロの投石が天井を狙う。しかし、それは当たらない。


  「躱された…… !」


  「いや、違う!」


  ただ避けたのではない。


  「ガァァァァァァァ!」


  こちらに突っ込んでくる巨体。擬態はほとんど解け、その異様に長い胴体と、半分飛び出した丸い目玉が姿を見せた。その全長は竜種よりも長い。

  半ば捨て身で、術者を攻撃しに来たのだろう。

  アイルは着地すると、今度こそ照準を魔物に合わせる。 もう迷ってはいけない。あの魔物を燃やすことだけを考える。

 

  「喰らえ!」


  「キィィ……」


  無慈悲の漆黒が、魔物を丸呑みにした。

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