第21話
「マヤーリエ、およぎましょう!」
パラソルの下で座っているマヤーリエを、ナラカが誘う。
「わたしは泳ぎません」
「どうしてですか!」
「泳ぎません」
泳げるようになったはずなのに、なぜかマヤーリエは泳ごうとしない。
「マヤーリエ、一緒に泳ごうよ。俺もマヤーリエが泳ぐのを見たいよ」
しぶしぶ、マヤーリエが立ち上がった。なぜか、やけに周囲を気にしている。
「大丈夫だって。他に誰も見ていないよ」
俺もマヤーリエに釣られて見てみたけど、目に映る岩場や小さな林などに特に変わった様子はない。
「…………わかりました」
静かに、パレオに手を掛けた。巻いていたパレオを外す。
現れた太ももに、目を奪われた。
正確には、太ももに巻かれたベルトに、だ。
俺が謎の影に襲われた時に、マヤーリエが武器としていた長い針。その針が、ホルダーにびっしりと収められている。
「アケヤが危ない時に、戦います。今は危なくないです」
ベルトを外し、パレオと一緒にパラソルの下に置いた。
マヤーリエは、こんな時でも俺を守ろうとしてくれていたんだ。
普段ずっとメイド服なのも、水着にパレオを選んだのも、この武器を隠すためだったんだ。そんな大事なことを、俺は全く考えたことがなかった。ナラカが持ってきているポーチだって、きっと中に札が入っているのだろう。
俺はすっかり気が緩んでいた。泳ぎに行けてうれしい、できなかったはずの旅行ができてうれしい、ずっとそんな気持ちでしかなかった。浮かれていた自分が恥ずかしくて仕方がない。
それにしても、あの時ナラカは肩掛けカバンがあったから、そこに札を入れていたのが想像できるけど、マヤーリエはこんなところに針を装備していたのか。全然気づかなかったな……。
「ここには悪い人は来ないよ。だから、安心して遊ぼう」
まさか領主の私有地に怪しげな敵が現れるなんてことはないだろう。もし万が一のことがあっても、領主の私兵が守ってくれるし。
マヤーリエの手を引いて、波打ち際に歩いていく。波が来て、足首から下を覆った。
「泳ごう!」
手を離し、沖に向かって歩いていく。腰の深さになった辺りでゆっくり泳ぎ出し、全身を水中に沈めた。海水の透明度がとても高く、水中メガネをしていなくても白い砂がはっきりと見えた。
気がつくと、俺一人だけになっていた。止まって振り向く。腰までが海に浸かったマヤーリエが、不安そうに立っていた。
「アケヤ、わたしはそこに行けません」
そうか。
泳げるようになったとはいえ、足が付かない深さはダメなのか。また、俺の考えが足りなかった。
「ごめんごめん」
引き返して、マヤーリエの隣に立つ。
小さいマヤーリエでも立っていられる深さとなると、俺にとってはだいぶ浅い。でも、泳げないことはない。
「横に泳ごう。俺が深い方にいるから」
今度はマヤーリエと離れてしまわないよう、注意しながら泳ぐ。
並んで泳いでわかったのは、マヤーリエは泳げるようになったとはいえ、まだまだ途中で足を付けながらでなければ泳げないということだ。ナラカの言いっぷりからはかなり泳げるようになった印象を受けたけど、あれはナラカのテンションが高いせいでそう聞こえてしまっただけだったようだ。
そういえばナラカはどうしたんだ?
泳ぐのをやめ、ナラカを探す。
ナラカは……砂浜で、カガニスを海に引っ張り込もうとしていた。
水中メガネをつけているというのに、カガニスは必死に抵抗して砂浜に留まろうとしている。そんなカガニスの腕を掴んで海に入ろうとするナラカを、レイミンがなだめてやめさせようとしていた。
一応、カガニスは自称泳げる人だし、海に入れないという理屈は成り立たない。海に入らないなら何のために水中メガネをしているのか、ということにもなる。
ナラカは完全にカガニスをイジり倒そうとしている。一国の王としての尊厳など、そこにはない。ただレイミンがいることで、なんとかナラカに振り回されずに済んでいた。レイミンがいてよかった。本当に。
結局、カガニスはレイミンと一緒に砂浜で遊ぶことになったようだ。
ナラカはというと、海にいる俺達に向かって、水しぶきを上げながら走ってきた。
「アケヤ! マヤーリエ! およぎます!」
近づいたナラカが、俺にダイブして抱きつく。勢いで後ろに倒れ、体が海中に沈んだ。
でもマヤーリエでも簡単に足が付く深さだし、浮力もある。俺はすぐに海面に顔を出した。
呼吸を整え、今の瞬間を振り返る。ナラカの胸が、普通すぎるほど普通に当たっていた。いやむしろ結構押し付けられていた。感触がずっと残っている。いや待て。俺は今でこそ見た目は高校生くらいだけど、本当は大人なんだぞ? いちいち心が揺さぶられてどうする。この程度で、いちいちうろたえてどうする。でもさっき、このままずっと年齢を隠し通してナラカと付き合ってしまおうかと思ったのも事実だ。せめてベーンにいる間くらいは、高校生の頃に戻った気持ちでいてもいいだろうか。いや、いいだろう。つかの間の甘酸っぱいひとときを、過ごしても。
「ナ、ナラカ」
ナラカは――いつの間にか、離れた場所でマヤーリエと一緒に泳いでいた。
灼熱の太陽から逃げるように、俺はのぼせ上がった頭を水中に沈めた。
結局、俺達は日が暮れるまでずっと海で遊んでいた。昼食はバーベキューだったし、使用人が冷たい飲み物を切らさないように何度も持って来てくれたので、安心して遊び続けることができた。
館に戻る頃には、さすがにへとへとに疲れていた。これから夕食だろうから、食べたらすぐ寝よう。
と、思っていたんだけど。
水着のままの俺達が案内されたのは、小さい池のような場所。普通の池と違うのは、その池の縁が石で囲まれているということだ。
そして、池の水からは、湯気。
これは……。
「温泉だーーっ!」
思わず大声で叫んでしまった。
端の方に樋があって、熱いお湯が湯気を立てながら流れ込んできている。湯気が立っていない樋もあって、こっちは水を流すためのもののようだ。今は栓がしてあるけど、熱ければ栓を外して水を流し、湯加減を調整できるようになっていた。
「なんだよ温泉があるのかよ。だったら昨日言ってくれてれば入ってたのに!」
言った後で、言葉が通じないのだということに気づく。
ソホロドには風呂の習慣がなく、せいぜい熱い布で体を拭くくらいしかなかった。俺は今、この世界に来て初めての風呂に遭遇している。それが、こんな広い温泉だなんて。ただ、できれば昨日も来ていたかった……。
あんなに海に入りたがらなかったカガニスが、温泉に飛び込んだ。水着は穿いたままだ。日本とは違って、この温泉は裸にはならないようだ。
俺も続けて入る。さすがに飛び込んだりはせず、普通に足から、そして全身でお湯に浸かる。ちょっと熱めだけど、しばらく風呂に入っていなかった体には、これくらいが入った実感が強くなってちょうどいい。
そして、ナラカ、マヤーリエ、レイミンも、温泉に入ってきた。
……え?
ここって、混浴なのか?
あまりにも自然に入ってきたから、一瞬気づかなかった。でも水着を着ているし、特に困った事態にはならなそうだ。
バシャバシャと大げさに音を立てながら、カガニスが騒いでいる。何か言っているけど
ナラカが俺の隣に来たので、聞いてみる。
「ナラカ、カガニスは何て言っているかわかる?」
「あー、ここは、なんですか?」
手の平でそっと、お湯を叩く。
「ここは、温泉」
「おんせん……うみのあとでおんせんにはいるのは、とてもきもちいいです。いちばんいいです」
「えーと……カガニスは、海に入っていないけど?」
「でも、カガニスはそういいました」
カガニス自身がそう言っているのなら、通訳であるナラカもそう言わざるを得ない。
「わたしもうみのあとでおんせんにはいるのはきもちいいです」
「温泉は海の後に入るの? 海じゃない時は入らない?」
「はい。うみのあとにはいります。おんせんにはいったら、あしたもげんきになります」
昨日ここに連れて来られなかったのは、そういう理由だったのか。海水で冷えた体を温め、泳いだ疲れを癒やす、そのための温泉ということなのだろう。
「俺は毎日入りたいなー」
「はい! あしたも、あさっても、はいります」
「そうじゃなくてさ、俺がいた国では、温泉……じゃなくて、普通のお湯だけど、家の中に小さいお湯の部屋があって、毎日入るんだよ」
「まいにちですか? ほんとうですか? ……まいにちうみにいきますか?」
「海には行かないけど、毎日入るよ」
「……そうですか」
あまり、ピンと来ないみたいだ。風呂に入る習慣を知らない人にとっては、そんなものなのだろうか。
ナラカが体を寄せてきて、肌が密着する。
「わたしは、アケヤがヴァスヒューダにくるまえ、どんなところにいたのか、わかりません。くにのなまえはにほんです。でも、にほんがどんなくにか、わかりません」
「……教えてほしい?」
「おしえてほしいです」
「じゃあ、一回で全部は教えられないから、いつか、少しずつ教えるよ」
日本語を教えている身でこう思うのは変かもしれないけど、俺自身はもう、この世界の人間のつもりでいる。だから、進んで日本や地球の話をしようとは思わない。ナラカがそれを知ったところで、何の意味もないし、何の役にも立たない。
でもナラカがせっかく興味を持ってくれたのだから、今度話してみることにしよう。何から話せばいいだろうか。とりあえず、日本はこっちの世界とは違って、季節によって暑くなったり寒くなったりするんだよ、とかだろうか。
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