第19話

「いやー、まさか、ベーンに行けることになるとは思わなかったよ」

「よかったですね、アケヤ」

 太陽が昇ったばかりの早朝、揺れ始めた馬車の中で、俺はさっぱりした頭をなでた。


 俺がソホロドから離れても、大丈夫なのか。

 どのくらいの距離、どのくらいの時間、離れられるのか。

 あれからいろいろと調べてもらい、一ヶ月ほどしてやっと結果が出た。

 結局、やはり俺はソホロドから離れられず、日帰りで隣接する街へ行くくらいなら問題ないが、それ以上となると支障がある、という、最初に思ったこととそれほど変わらない内容だった。

 ただし。

 ワーンガーに、俺がソホロドにいると錯覚させておけば、ある程度ソホロドにいなくても大丈夫だ、という結果も出た。

 例えば、「体の一部が、ソホロドにあること」。これで、ワーンガーを勘違いさせることができる。

 そんなわけで、俺はこの世界に来て初めて、散髪をした。この髪の毛があれば、数日間はソホロドを離れられる。特に短い髪型にしたわけではない。この世界に来た時と、同じくらいの長さだ。


 このベーン行きの馬車に乗っているのは、もちろん俺とナラカだけではない。マヤーリエも、レイミンも乗っている。

 さらに、もう一人。

「あのー……俺よりもっとソホロドを離れちゃいけない人だと思うんだけど、よく来られたね。大丈夫なの?」

 なんと、国王であるカガニスまで、俺達に同行していた。

 カガニスはあくびをしながら、両足を投げ出してぷらぷらさせている。

「モイスがいますからだいじょうぶです。モイスがしごとをぜんぶします」

「でもさ、カガニスだって少しは仕事をしなきゃならないんじゃないの?」

「まえはモイスがしごとのやりかたをおしえてくれました。でもいまはおしえてくれません。モイスがしごとをぜんぶしますから、カガニスのしごとがないです」

 カガニスが不満をあらわにして言っているのは、言い方や表情から十分に伝わってくるんだけど、ナラカは丁寧体で訳しているから、ものすごくギャップを感じる。能力がまだ備わっていないとはいえ、王としての勤めを果たしたいという気持ちは、カガニスにはあるのだ。あくびをしているのも、早朝だからということもあるだろうけど、することがなくなってしまった退屈な日常を思い出したからなのかもしれない。

 レイミンがカガニスに申し訳なさそうに何かを言っている。それを聞いたカガニスも、なんだか申し訳なさそうに返している。きっとモイスのことについてだろう。

 どうしてモイスは、カガニスに仕事をさせなくなったのだろうか?

 詳しい事情はわからない。それに、俺はこの国の政治に首を突っ込める立場でもない。余計な詮索はしないことにしよう。

 毎日のように歩く大通りだけど、馬車用の道を通るのは初めてだ。めちゃくちゃ幅がある大通りの最も内側だから、右も左も遠く、小さく見える。すっかり慣れたはずの街なのに、なんだか知らないものを見ているような錯覚を起こしてしまう。

 そんな巨大な大通りも、宮殿から遠ざかると次第に道幅が細くなってきた。このあたりはもう簡単に歩いて行けるような距離ではなく、両側に並ぶ建物も、初めて見るものばかりだ。

 その、両側に壁のように並んでいた建物が、だんだん低く、まばらになっていく。そしてついに建物は消え、枯草がぽつぽつと生えている程度の、何もない荒れ地が広がるだけになった。道幅も、馬車一台がすれ違える程度しかない。一定間隔に生えている背の高い街路樹だけが、この地にも生命があることを感じさせてくれる。

「なんだか寂しい場所だね」

「どうしてさびしいですか? わたしはアケヤがいるし、マヤーリエも、レイミンもしるし、さびしくないです」

 カガニスは言わないのか。まあ、カガニスだけは普段の勉強仲間じゃないからなんだろうけど。

「えーと、ナラカ、『寂しい』は、『一人だけで寂しい』の意味もあるけど、人が誰もいない場所も『寂しい場所』と言います」

「いま、アケヤのへやは、さびしいです」

「うーん、それは言いません」

「どうしてですか? いま、アケヤのへやは、だれもいません」

「場所の『寂しい』は、とても静かで、不安な気持ちになる時に使います」

「あー……はい、わかりました」

 かばんからノートを取り出し、ペンを走らせる。こんな時でも、ナラカはペンとノートを離さない。

「アケヤ、『ふあん』はなんですか?」

 今度はマヤーリエだ。

「安心じゃないのが『不安』です」

「あっ、この『ふ』?」

 指で空間に「不」と書く。

「そうそう、その『不』だよ」

「わたしも、この場所は不安です。さびしいです。……あの、アケヤ、『さびしい』の漢字はなんですか?」

「あ、まだ教えていなかったかな。えーとね……」

 ナラカのノートじゃないけど、俺も小さなメモ帳を持って来ている。「寂しい」と書くと、マヤーリエもそれを見てノートに書いた。

 カガニスとレイミンが、小声で話している。

「だいじょうぶです! レイミンもがんばります!」

 そこへ急にナラカが大きな声で割って入ったから、レイミンがびっくりして体を震わせた。

「え、ど、どうしたのナラカ」

 カガニスとの会話の内容についてなんだろうけど、俺には二人が何を言っていたのかが全くわからないから、ナラカがどうしてそう言ったのかもわからない。

「レイミンはまだにほんごがよくわかりません。でも、わたしもよくわかりませんでしたが、たくさんべんきょうして、じょうずになりました。だからレイミンもべんきょうして、もっとじょうずになります」

「ナラカ、レイミンはちゃんと頑張っているよ」

 前のめりになっているナラカを落ち着かせる。そして、レイミンに優しく語りかける。

「レイミンはたくさん勉強しています」

「にほんごは、むずかしいです」

「大丈夫。まだ、一ヶ月です。ナラカも、一ヶ月の時は、レイミンと同じでした」

「……はい」

 明るい性格でおしゃべりなナラカとは違って、レイミンは控えめで、あまり口数が多くない。マヤーリエは言語が違う俺やナラカと話せることが楽しくて以前より積極的な性格になったけど、ヴァーセ語が母語のレイミンはそうではないようだ。

 とはいえ、ナラカやマヤーリエと比べて、覚えるスピードが遅いということはない。ナラカからヴァーセ語で説明を聞けるという分、理解しやすいという利点もあった。

 さっきのカガニスとレイミンの会話はきっと、日本語は難しくてわからないとか、そういう話だったのだろう。でも、俺の世話をしてくれているナラカやマヤーリエと違って、レイミンには日本語を覚える必要が特にない。もっと気楽に日本語に接してくれたら、と思う。

 カガニスが俺に何か言っている。

「あー、いまはカガニスがいますから、レイミンはヴァーセごではなします。きょうはあそぶひですから、にほんごじゃないですが、いいです」

 どうしても、カガニスの態度とナラカの丁寧形にギャップを感じてしまう。ナラカの日本語訳をカガニスに合わせて言い直すと、「俺がいるんだからさ、レイミンはヴァーセ語でもいいだろ? 今日は遊びなんだし」って感じだろう。

 カガニスに言われなくても、俺もそのつもりだ。俺だってめったにできない旅行なんだから、思い切り羽を伸ばしたい。

「うん、それはもちろんいいよ。遊ぶ日だからね! それに、みんなが日本語だけ話したら、カガニスが困るし」

「はい! カガニスはさびしいです!」

 カガニスが口を挟む。名前を言われたことだけはわかるから、自分について何か言っているのだろうという想像はつくはずだ。

 ナラカがヴァーセ語で何かを言って、カガニスは納得したようだ。一体何を言ったのだろう? 日本語をそのままヴァーセ語で言ったのでは、ないはずだ。前にカガニスが居眠りしていたところに遭遇した時もそうだったけど、ナラカはカガニスのお姉さん的な存在で、一国の王たるカガニスを、敬意を払いつつも弟のようにうまくあしらっているように見える。


 途中の街で食事をしたり、朝早く出発したせいで居眠りをしたりしているうちに、だんだん太陽が西に傾いてきた。

「なんだか暑くなってきたね」

 太陽が真上にあった時間より、今のほうが暑い。ベーンに近づいていることを感じる。

「ベーンのほうがあついです。よるまでにベーンにつきます」

「じゃあ、海で泳ぐのは明日だね」

「アケヤはおよげますか?」

「うん、泳げるよ」

「わたしもおよげます!」

「他の人は? レイミンもベーンに行ったことがあるから、泳げるのかな?」

「えっ、…………」

 しまった。聞いてはいけないことを聞いてしまったのか、単に日本語の意味が理解できなかったのか、どっちだ? 聞き直してもいいのか?

 思い切って、もう一回、聞いてみよう。

「レイミンは、泳ぐことが、できますか?」

「……はい、できます」

 よかった。聞き直して正解だった。

「わたしは泳げません……」

 マヤーリエは小さな声でそう言うと、目を落とした。

「だいじょうぶです! わたしがおしえます! いっしょにおよぎましょう!」

「うん、マヤーリエは海に行ったことがないんだから、泳げなくても仕方がないよ」

「でも、川に行ったことがあります」

「川と海は全然違うよ。だから大丈夫」

「……そうですか。わかりました」

 マヤーリエの表情が、少し明るくなった。

 カガニスはさっきからずっと眠っているから、泳げるかどうか聞くことはできない。

 でも、俺の予想では、カガニスは多分、泳げない。


 太陽が沈みかけた頃、ようやくベーンに着いた。

 俺達はベーンの領主の館にお世話になることになっている。

 館は海のすぐ近くにあった。門の前で、馬車が止まる。馬車を降りると、弱いけれども熱い風が体を撫でた。

「……全然違います」

 一度では見渡せない水平線を前に、マヤーリエが呆然と立ち尽くしている。

「少し、怖いです」

「だいじょうぶです! こわくないです! あしたはたのしいです!」

 それに引き換え、ナラカはいつでも元気だ。

 館の入り口で、身なりのいい品のある男性が俺達を待っていた。この人が領主だろう。肌の色は薄い茶色。この世界の肌の色は地球を基準にすると非常識だけど、中にはこういう地球にもある肌の色の人もいる。そして眼の色は薄い紫、髪の色は暗めの赤だ。

 カガニスが先頭に立って歩く。そして、領主とあいさつを交わした。

 あいさつは、交わしたのだが。

 この領主の言語は、ヴァーセ語じゃない。

 マヤーリエが話すヤヌウェル語でもない。ソホロドの街の中にある数ある言語のうちの一つかもしれないし、そうではないかもしれない。

 あいさつ程度なら、言語が違っていてもあいさつだと認識できるから大丈夫だ。

 問題は、ここから先だ。

 この館の使用人も、一人残らず領主と同じ言語のようだ。ヴァーセ語が通じる環境ではない。

「ナラカ、ここの人達の言葉、わかる?」

「わかりません」

 ナラカは平然と答えた。俺がソホロドの街にたくさんの言語があると知ってナラカに聞いた時と、同じ反応だ。

「わからなくても、大丈夫?」

「だいじょうぶです」

 やはり、この国の人達は、言語が違うことを気にしていない。それはナラカだけではなく、ベーンの領主がヴァーセ語の話者をこの館に置いていないということからもわかる。王が館に滞在するというのに、王の言葉を理解する必要性を領主は考えていないのだ。

 ソホロドだけでなく、ヴァスヒューダ中がこんな考えなのだとしたら、周辺の国々、そしてこの世界全体も、言語が違っていても気にしないのが常識なのだろうか。それがいいとか悪いとかは、俺は思わない。ただ、ここは地球とは違う世界なんだということを、改めて感じた。


 予定では、四泊五日の旅行ということになっている。往復に一日ずつだから、遊べるのは実質三日間だ。今夜はしっかり寝ることにしよう。

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