第16話

 宮殿に帰り、昼食を食べ終わって部屋に戻ってきた俺は、二人にこう告げた。

「これから、漢字を勉強します」

「…………?」

 二人の反応は薄い。というか、当然だけど、よくわかっていない。

「かんじ……アケヤ、かんじはなんですか?」

 ナラカが質問する。

「日本語の字は、ひらがなと、カタカナと、漢字があります」

「みっつですか! ふたつもへんです。みっつはもっとへんです!」


 言語表記は一般的には一種類の文字を使うものだから、複数の種類の文字を使うことにナラカが違和感を持つのはもっともだ。中には複数の種類の文字があり、それぞれの文字を使って表記することが可能な言語もあることはあるが、例えば「消しゴム」のように三種類の文字を混在させて書くのが正書法であるという日本語の特徴は、他に類を見ない。


「漢字は、意味がある文字です」

「……………………」

 ナラカもマヤーリエも、まだわかっていない。

 さすがに、実際に見てみないことには理解できないだろう。最初はどの漢字がいいかな……。

「これは、きです」

 俺は紙に「木」と書いた。

「き? きは、これです」

 ナラカが「木」の横に「き」と書いた。

「それはひらがなの『き』。これは、漢字の『木』です」

「…………はい」

「漢字の『木』は、この意味です」

 俺は簡単な木の絵を描いた。

「この意味の時に、漢字の『木』を書きます」

「この『き』はだめですか?」

 さっき書いたひらがなの「き」の上に、ナラカは人差し指を置いた。

「だめじゃないけど、漢字の『木』は、見て意味がわかります」

「…………はい」

 どうしても、ナラカの反応は薄い。

 俺は手当り次第に、「人」「目」「口」「上」「下」「山」「川」などの画数が少ない簡単な漢字を書いていった。それでもナラカは「『ひと』はだめですか?」などと言うばかりだ。

 じっと話を聞いていたマヤーリエが、静かに質問した。

「アケヤ、かんじは、えですか?」

「そうだね、絵の漢字もあります。『木』は木の形、『口』は口の形、『山』は山の形です」

 木はさっき描いたから、今度は口の絵や山の絵を描いて、漢字の成り立ちを示す。

「わかります」

「マヤーリエ、わかりますか? わたしはわかりません」

「これ、……」

 マヤーリエはたどたどしくペンを動かし、「きのしたにひとがいます。」という文を書いた。

「キネはにほんごがわかりませんから、これはわかりません」

 次に、漢字を使って「木の下に人がいます。」という文を書いた。

「わたしはキネにヤヌウェルごでかんじをおしえます。キネはにほんごがわかりません。でも、これがわかります。キネも、きのしたにひとがいますとおもいます」

「うん、漢字は見て意味がわかるから、キネもわかるね」

「はい。キネも、ヤヌウェルごじゃないひとも、かんじをみて、わかります」


 これは日本人と中国人の間にもあることで、お互いの言語自体は全然わからなくても、漢字の意味でなんとなく理解できる場合がある。中国国内でも、地域によって漢字の発音が異なるため、会話では意味が通じないことがある。それでも、漢字を見れば意味が通じるのだ。

 もしこれが表音文字なら、別系統の言語を理解することはできない。例えば英語とインドネシア語はどちらも同じラテン文字を使っているが、お互いの母語話者が文字を見て意味を理解することは不可能だ。


 ヴァーセ語が母語の人から絵文字で指示されて意味を理解することに慣れているマヤーリエと違って、ナラカはどうしても実感が湧かないようだ。

「かんじはわかりません。どうしてかんじをかきますか?」

 覚えることの難しさではなく、なぜ漢字があるのか、どう使えばいいのか、漢字を使っていいことがあるのか、ということが掴めずに、困っているようだ。

「それなら、ひらがなでもいいよ」

「わたしはひらがながいいです」


 俺は最初の頃、ひらがなとカタカナですら無理に覚えなくてもいいと思っていた。この世界には、日本語で書かれたものがないからだ。

 そんなことを考えていたくらいだから、漢字は教えるつもりがなかった。でもこの国にはいろんな言語があり、絵文字が“共通言語”としての役割を担っていることを知った。だったら、漢字も受け入れられる土壌がある。そう思い、俺は漢字を教えることにした。

 マヤーリエは漢字の意義が理解できているけど、ナラカは今のところわかっていない。追い追いわかればそれでいいし、わからなくても別にいいと俺は思っている。


 さっき俺が書いた漢字を、マヤーリエは自分のノートに書き取っている。

「たくさんかんじをおぼえます」

 書き順がめちゃくちゃだけど、随分楽しそうだ。

 日本語の力はずっとナラカのほうが上だけど、漢字に関してはマヤーリエの方が上になるかもしれない。

「アケヤ、目と口はわかりました。はなのかんじはなんですか?」

 マヤーリエの人差し指が、鼻の頭に当てられた。

「鼻か……」

 初日に教える漢字じゃないよな、と思いながら、「鼻」と書く。

「あっ、はな……むずかしいです」

 マヤーリエは俺が書いた「鼻」を何度もよく見ながら、妙に縦長の「鼻」を書いた。

「鼻はむずかしいです。アケヤ、かおのかんじはなんですか?」

 なんだかだんだんドツボに嵌っていっているような気がするけど、断るわけにもいかず「顔」と書く。

「かお……ア、アケヤ、あたまは? あたまのかんじはなんですか?」

 もうどうにでもなれ。「頭」と書く。

「うぅ…………でも、おぼえたいですから、がんばります」

 泣きそうになりながら、マヤーリエは必死に漢字を書き取っていた。

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