第15話
昨日は神殿から帰ってきてずっと部屋で勉強していたから、今日は朝から外へ行くことにした。
さすがにもうナラカは「なんですか?」攻撃をかけてくることはない。攻撃とは呼べない程度に、少し聞いてくるだけだ。
その代わりに。
「マヤーリエ、クレープをたべましょう!」
「このふくはマヤーリエにいいとおもいます!」
「マヤーリエ、つぎはあのみせにいきます!」
俺ではなく、マヤーリエと話すことが多くなった。
もともと、俺以外に日本語を使う機会をナラカに与えようとしたのが、マヤーリエに日本語を教えることにした理由だった。それが結果として表れていることに、俺は満足している。
マヤーリエにとっては俺の勝手な考えに巻き込まれてしまった形ではあるけれど、結果として俺やナラカと言葉が通じるようになったことを、とてもうれしく思ってくれている。思えば最初は何も言わずにドアの隙間から最小限顔を覗かせるだけだったくらいおとなしくて引っ込み思案だったのに、今では日本語できちんと意思表示をしてくる。この一ヶ月で、少し積極的になった。
一ヶ月経っても、ソホロドにはまだまだ行ったことがない場所がたくさんある。とにかく大きな街だ。今日もまた、新しい場所を見つけて、行ってみる。
この一ヶ月の間に、俺はヴァーセ語の文字やこの国の数字を、対応表を見ずに読むことができるようになっていた。ヴァーセ語は日本語にはない発音も多くて難しいけど、買い物で「これをください」や「いくらですか」と言ったりすることもできるようになった。もっとも、店側は客がヴァーセ語を話す人であろうがなかろうが全然気にしないし、ヴァーセ語が母語ではない俺がヴァーセ語を話すと、かえって不思議に思われてしまうこともあるから、なかなか積極的には使えない。それに、ヴァーセ語じゃない人の店も、たくさんあるし。
今来ている文房具屋も、ヴァーセ語じゃない人の店だ。何語なのか、というのがそもそもわからない。ナラカに聞いても、マヤーリエに聞いても、わからない。それでも、誰もそれを気にすることなく、買い物をしている。
「あっ!」
俺達とは反対方向からこの店に来た女の子を見て、マヤーリエが手を振った。その女の子も気づいて、手を振り返す。
そして、マヤーリエの言語(ヤヌウェル語と言うそうだ)で、会話が始まった。
「俺、マヤーリエがあの言葉で会話をするの、初めて見たよ」
「わたしもはじめてみました」
ナラカと二人で、しばらく会話の様子を見る。女の子の肌は薄い紫、眼と髪の色は黄色だ。
不意に、ナラカが質問してきた。
「アケヤ、『みました』ですか? 『ききました』じゃないですか?」
「え?」
「さっき、アケヤはかいわをみましたといいました。でも、ききましただとおもいます」
「あー、なるほど……」
「アケヤがみましたといいましたから、わたしもみましたといいました。でも、どうしてですか? わかりません」
「うーん、どちらでもいいよ」
「そうですか? はい、わかりました」
この場合、マヤーリエの会話そのものに焦点を当てているなら、「聞いた」と言うのがいい。また、マヤーリエが会話をしている様子、光景について言いたいなら、「見た」がいい。どちらも成り立つし、聞き手側もそれぞれを別の出来事だと取り違えることはなく、どちらで聞いても同じ一つの出来事について言っているのだと理解できるのだから、どちらで言っても構わないということになる。
しばらくすると、俺とナラカに見られていることに、マヤーリエが気づいた。
「あっ、すみません、アケヤ、このひとは、わたしのともだちです。なまえはキネです」
「そうなんだ。俺はアケヤ。よろしくね、キネ」
キネはきょとんとしたまま突っ立っている。こういう反応は、これまで何度も見てきた。俺に話しかけられたからではない。マヤーリエが突然日本語で話し出したから、どう反応すればいいのかわからないのだ。
「キネはアマンキメツィのうちではたらきます」
「えっ!? キネはアマンキメツィのうちではたらいていますか?」
「あっ、はい、はたらいています」
これは、直接指摘をせずに間違いを直す方法だ。相手が言ったことを正しく直した形で復唱し、それを疑問文にしたり確認を取る文にしたりすることで、相手に間違いに気づかせつつ正しい形で言い直させる。あまり直接指摘しすぎると学習者の気持ちがへこんでしまうし、会話の流れも途切れてしまう。しかし、この方法なら、それを避けることができる。
それにしても、意外なところで繋がりがあるんだな。これまでマヤーリエ以外でこの言語を話す人に会ったことがなかったのに、初めて会ったと思ったらその人がアマンキメツィの家の使用人だとは。
「あれ? サンカロンギは、同じうちじゃないの?」
「おなじうちです。でも、アマンキメツィはおねえさんですから、アマンキメツィのうちです」
「なるほど。そうなんだね」
なんだか、納得してしまった。この世界に来たばかりの時も、昨日会った時も、サンカロンギが一人で騒いで、アマンキメツィがそれをじっと制していた。双子とはいえ、上下の差があるように感じる。
「ところで、キネはどうしてここに来たの? 買い物?」
マヤーリエが通訳をしてキネに伝える。マヤーリエはこれが初めての通訳だ。
「ペンとインクとノートをかいます。アマンキメツィがいいました」
「あー、お使いだね」
「おつかい?」
「うん、おつかい」
うっかりしていたけど、俺達とは違って、キネは仕事中だ。邪魔をしてはいけないから、ここで別れようか……。
ふと、疑問が浮かんだ。
アマンキメツィは、どうやって言葉が通じないキネにお使いを頼んだんだ?
ジェスチャーで? でも、それできちんと伝えられるのかな?
キネは、メモを見ながら買う物を探している。と、いうことは。
「キネ! そのメモ、見せて!」
メモに秘密があるに違いない。
急に大声を出されて驚くキネの横から、メモを覗き込んだ。
…………絵文字?
スマートフォンの絵文字アイコンのようなものが、手描きで描かれている。これを見ると、ペン、インク、ノートだということが、ひと目でわかる。その隣には数字が書いてあり、どれをいくつ買うのかが示されている。数字は言語によって読み方は違うけど文字自体は共通だから、そのまま書けばいい。
「マヤーリエは? マヤーリエもお使いの時、いつもこの絵を見て買ってるの?」
「え? えっ、……」
「ごめん、ちょっと、早口になりすぎた」
マヤーリエはナラカほどの日本語の力はない。落ち着いて、ゆっくり話そう。
キネの手を持ち、マヤーリエにもメモが見せる。
「マヤーリエは、お使いの時、いつも、絵を見て買いますか?」
「はい。えをみてかいます」
そうだったのか。こんな伝達方法があったのか。
一度気づけば簡単だ。これなら言語の違いに関係なく、伝えたいことを伝えることができる。
それに……。
「キネ、ありがとう。仕事の途中だったのに邪魔しちゃったね」
キネにとってはわけがわからなかっただろうけど、俺はキネに礼を言い、この場を後にした。
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