第二章 案内されたら、そこに
第13話
俺がこの世界に来て、一ヶ月が経った。
ナラカの日本語の上達ぶりには驚くばかりだ。日本で生活し、一日中日本語漬けになっている留学生でも、たった一ヶ月でこんなにも日本語が上達する人は、相当珍しい。
マヤーリエも熱心に勉強に取り組んでくれている。いつも俺のそばにいるナラカとは違って、メイドの仕事も続けているから、勉強量はどうしてもナラカよりは少ない。それでもキーチャの計らいでメイドの仕事は減らしてもらい、どちらかといえば日本語の勉強に比重を置く日々を送っている。それなのに、俺はマヤーリエがメイド服以外の服装をしているのを未だに見たことがない。勉強中はもっとラフな格好でいいのに、マヤーリエには独自のこだわりがあるようだ。
気候の変化は感じない。いつも晴れていて、空気は爽やかで、苦にならない程度の暑さというのは、俺がこの世界に来た時と同じだ。
今日は、俺にとってとても重要な日だ。
「やっと、知ることができるよ。この日が来るのを、ずっと待っていたんだ」
「またせてしまって、ごめんなさい。わたしがもっとにほんごがはなすことができたら、すぐにおしえることができました」
この世界に来たばかりの頃、初心者向けの教科書で使われるような不自然な日本語ばかりを使って、俺はナラカと会話をしていた。
でも、今は違う。日本にいた頃と変わらない日本語で、ナラカと話している。同じように、最初は教科書的な言葉遣いだったナラカも、より自然な会話ができるようになっていた。日本語を書く時も、最初はナラカの母語(ヴァーセ語と言うそうだ)の文字でローマ字のように書いていたけど、今ではひらがなとカタカナを使って書いている。
俺は複数ある宮殿の出入り口の一つにいる。この世界に来て、最初に宮殿に来た時に通った出入り口だ。
つまり、この先にあるのは、神殿だ。俺は、召喚された時以来となる神殿に、一ヶ月ぶりに行くことになったのだ。
ここにいるのは俺とナラカだけではない。マヤーリエとカガニスもいる。
それに、王族の傍系の血筋に当たる、モイスという人もいる。モイスの肌は灰色で、カガニスの黒い肌同様若干青みがかっている。眼の色は藍色で、髪も同じ色だ。見た感じでは年齢は20代後半くらいで、かなり背が高い。この国の政治は、まだ少年であるカガニスに代わって、実質的にはモイスが執り行っている。国民からの評判も、非常にいいらしい。
カガニスやモイスも一緒に来ているのは、これから行く場所がそれだけ重要な場所だからだ。もし俺とナラカだけで行こうと思っても、そこに行ける許可は出なかったかもしれない。
五人で神殿に行くと、男の人が一人、入口で俺達を待っていた。俺が召喚された時にいた、深緑色の肌の老人だ。この人はナワンと言い、実はナラカのおじいさんだ。この国随一の歴史学者で、神職でもないのにこの神殿の管理を任されている。ナラカが俺の世話係になったのも、宮殿で働いているわけでもないのに自由に中を歩き回れるのも、大歴史学者であるナワンの孫だからというのが、その理由だ。
「ついてきてください」
ナワンの言葉を、ナラカが日本語で俺に伝える。
俺が召喚された場所とは、違う方向に進む。地下へ続く石の階段を下りていくと、地上にはないひんやりとした空気が、緩やかに肌に触れた。
カガニスとモイスが話している。内容は全くわからないけど、この二人が話すのだから、きっとこの国の政治についてだろう。
モイスはカガニスの教育係でもある。まだ若いカガニスに、モイスは王としての教養を身に付けるよう指導している。前に、カガニスが読書中に眠りこけてしまっていた場面に遭遇したことがあったけど、あれもモイスに言われて読書をしていたそうだ。あの時は、読書中に眠ってしまわないように自室に籠もらず歩きながら本を読んでいたものの、ふと気が緩んでロビーのソファに横になったらそのまま……ということだったらしい。
無邪気で人懐っこい性格のカガニスと、知的で落ち着いた雰囲気のモイスは一見相反しているように思えるけど、なぜかうまく噛み合っているのが不思議だ。お互いの持っていない部分を、ちょうどよく補い合っているのかもしれない。
それにしても、この階段はどこまで続くんだ? 百段、二百段……もう感覚がおかしくなってしまうほど深い。もう二度と地上には戻れないんじゃないか、という不安に駆られてしまう。それに、一回も折り返すことなく一直線に下りていっているから、多分神殿の敷地からははみ出してしまっているはずだ。
「ナラカ、この階段、まだあるの?」
「もうすぐです」
そうは言うものの、階段はこの先もずっと続いている。下っていくにつれ、ひんやりとした空気が、だんだん冷たく、鋭く肌に突き刺さってくるように感じる。あんなに知りたかったことを知るために行くというのに、もう帰りたくなってきてしまった。
しかし、そんな帰りたい気持ちは打ち消された。階段の先に、扉が見えてきたからだ。
先頭を歩くナワンが懐から鍵を取り出し、解錠する。
分厚い扉が、開かれた。
その先へ、一歩、踏み入れる。
俺は――その場で立ち尽くしてしまった。
「これが、わたしたちがアケヤをよんだりゆうです」
そう言ったナラカの言葉もうまく耳に入ってこないほど、俺は圧倒されていた。
限界まで見上げる程の高い檻。幅も、一目では見渡せない。右を向き、左を向いて、ようやく両端を確認する。
呪文であろう文字が書かれた光の帯が檻の周囲に張り巡らされ、ゆっくりと巡回している。檻の手前にある柵にも魔法が電流のようにバチバチと放たれていて、近づくことを拒絶している。
檻の中に、何かがいる。
一言で言えば、<
ただ、光る鎖が、過剰の上にも過剰と思えるほど厳重に、この怪物を拘束していた。その鎖の至るところに、錠が掛けられている。怪物は手も足も、指先や尻尾の先端ですらピクリとも動くことを許されず、静かに眠っている。
だから、安全なはずだ。
それなのに、圧倒される。広い空間にいるはずなのに、狭く感じてしまう。静かな空気が、俺を押しつぶそうとしてくる。
俺以外の人達が、前に行く。振り向いたナラカに促された俺は、重苦しく足を進め、柵の前に立った。
ナワンが静かに語りかけた。それを、ナラカが日本語に直して俺に伝える。
「むかし、わるいひとがこのどうぶつにのって、たくさんわるいことをしました。でも、グスタシオがたたかいました。グスタシオは、むかしのアケヤです。グスタシオがかちましたから、わるいどうぶつは、ねています」
この世界に来た最初の日に見た、俺にそっくりな肖像画の人物。それがグスタシオだ。グスタシオはこの怪物と戦ったんだ。とてもじゃないけど、人間ができることとは思えない。本当にそんなことができるのか?
でも、こうして封印されている怪物が、実際に俺の目の前にいる。嘘じゃないんだ。
「このどうぶつのなまえはワーンガーです。さいきん、くさりがふるくなって、ワーンガーがおきますから……おきそうでしたから、おじいさんがれきしのほんをよんで、アケヤをよびましょうといいました」
これが、俺がこの世界に召喚された理由。
時代を経て、この巨大な怪物が眼を覚まそうとしている。
だから、伝説の英雄グスタシオの生まれ変わりである俺が呼ばれたんだ。
ということは、俺はこの怪物と戦わなければならないのか?
今この場で戦うわけじゃないのに、足の震えが止まらない。力を込めているのに、立っているのがやっとだ。
この世界に来た最初の日に、グスタシオの剣を持った時のことを思い出す。あの剣さえあれば、俺でも戦えるのだろうか。自信なんて全然ないけど、それでもきっと、戦わなければならないのだろう。
勝てるのか? 本当に、俺がこいつに。
「アケヤがいると、ワーンガーはこわいとおもって、おきません。だからだいじょうぶです」
そうか、やっぱり俺は戦わなければ……。
…………えっ?
「いるだけ? 俺は、戦わなくていいの?」
ナラカの言葉を、脳内でリピートさせて確認する。
俺がいれば、ワーンガーは起きない。そう、言ったはずだ。
ナラカが通訳として、俺の言葉をナワンに伝える。
すぐに返答が来た。
「はい。いるだけです」
なんだ、そうだったのか……。
俺の存在自体が、封印なんだ。
戦わなくて、いいんだ。いるだけでいいんだ。
急に足の力が抜け、へたり込んだ。
「アケヤ、だいじょうぶ?」
マヤーリエが手を差し伸べてくれた。小さな手を掴んで、立ち上がる。
「わたしはワーンガーのはなしをききました。でも、はじめてみました」
この場合、「ききました」は「きいたことがあります」が正しいけど、今の俺に指摘する余裕はない。
「他の人は? みんな、初めて見たの?」
ナラカを介して、カガニスがそれに答えた。
「おうのかぞくは、れきしをしらなければならないですから、かならずみます」
「そうなんだ。じゃあ、ナラカは?」
「わたしはおじいさんといっしょにみました」
ということは、俺とマヤーリエ以外はここに来たことがあったのか。道理で驚かないはずだ。
モイスが落ち着いた口調で俺に話しかけた。それをナラカが訳す。
「おうのかぞくがいますから、アケヤはあんしんしてください。ずっとソホロドにいてください」
ソホロドというのは、俺が暮らすこの王都の名前だ。
「うん、ありがとう」
俺は特に何もしなくていいことがわかった。それに、今後の生活も保証された。ずっとわからずにいた問題が解消され、やっと心に余裕が出てきた。この先、俺はこの世界で楽しく生きていくことができそうだ。
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