第12話
チリンチリンとベルが鳴り、トントントンとノックの音。食事のお知らせだ。
俺は、この時を待っていた。
と言っても、待っていたのは食事ではない。このメイドの子だ。
いつものように、わずかに開けたドアの隙間から顔を覗かせるだけで、それ以上のことはしない。
俺はどうしても、この子を部屋に入れたかった。だから、俺は自分でドアを大きく開け、オレンジの手を引いて中に入れ、ドアを閉めた。
「大丈夫、心配しないで。ちょっとお願いがあるだけなんだ」
不安からか、前を向けずにうつむいているメイドの子に、俺は言った。
「名前を、教えてほしいんだ」
当然、それだけでは伝わらない。だから、こちらから示す。
「俺は、アケヤ。アケヤ」
胸に人差し指を当て、名前を言う。
メイドの子はちらっと顔を上げ、またうつむいてしまった。
「ナラカ」
ナラカも、自分の指に人差し指を当てる。
俺はメイドの子に向けて手を伸ばした。五本指を揃えて差し出し、どうぞと促す。
メイドの子は恥ずかしそうに顔を上げ、人差し指を胸に当てた。
「マヤーリエ」
名前がわかった。マヤーリエ。
そして、俺は次のお願いをすることにした。
「マヤーリエ、これから三人で、一緒にご飯を食べよう」
マヤーリエが俺達と一緒に食事するのだと知ったのは、当然ではあるが言われたその場でではなかった。俺達を連れて来るためだけに食堂に来たはずなのに、なぜか一緒の席に座らされ、ナラカが自分の前に料理を配膳し、そこでようやく自分も一緒に食事するのだと知ることになったのだった。
「いいからいいから。一緒に食べようよ」
ナラカの隣に座らされて落ち着かないマヤーリエに、優しく呼びかける。
こういう時は、まず俺から食べ始めなければならない。肉をナイフで切って食べ、パンをちぎって食べ、スープを掬って飲む。
ナラカも同じように、料理を食べ始めた。
それでもまだ、マヤーリエは食べない。
困ったな。確かに誘い方は強引だったけど、そんなにいけないことだったのだろうか。これにはもちろんナラカは同意しているし、それに……。
「ナラカ、<(!q{ .%-" ^k \e$[), @*^」
何度も聞いたことがある声。聞こえてきた方向を見ると、水色の肌のメイドが近づいて来た。
「キーチャ! $j. t<{ *?n>\a t:!:fb+#」
呼ばれたナラカが答える。
今日のキーチャは、トレイを持っていない。ナラカと話しに来ただけだ。
マヤーリエはずっとキーチャを見ている。自分をここから連れて行ってほしい、助けてほしい、と、キーチャに救いを求めている感じだ。
ナラカと話し終わったキーチャが、マヤーリエを見た。そしてにっこりと笑う。
それにつられて、マヤーリエも笑顔になる。
しかし、マヤーリエの願いが叶えられることはなく、キーチャはそのままどこかへ行ってしまった。
途方に暮れるマヤーリエ。
ようやく諦めたのか、マヤーリエはスプーンを持ち、スープを飲み始めた。
状況が落ち着いてきたところで、次の段階に入る。
白いソースがかかった豚肉のソテーを一口大に切って食べる。肉自体はシンプルな味付けだけどソースが濃厚で、日本では食べたことがない味だ。
「おいしいです」
「おいしいです!」
マヤーリエの手が止まった。
「ナラカはこのりょうりがすきですか?」
「はい! すきです!」
食事そっちのけで、マヤーリエは隣のナラカをまじまじと見つめている。
昨日のキーチャと同じだ。マヤーリエも、ナラカが日本語を話して俺と会話していることに驚いている。
添えてあるきゅうりの漬物が、唐辛子まみれなのが気になる。きゅうりに唐辛子の味付けをしたと言うより、唐辛子ペーストにきゅうりを埋めたと言った方がいい。
おそるおそる、きゅうりにフォークを突き刺す。まとわりついてきた唐辛子ごと、輪切りのきゅうりを口に入れた。
うっ…………。
「からい! からいです!」
覚悟はしていたけれど、それにしても辛い。辛すぎる。
ナラカは笑って俺を見ている。
「アケヤはからいきゅうりがきらいですか? わたしはからいきゅうりがすきです」
ナラカも唐辛子まみれのきゅうりの漬物を口に入れた。辛いのが好きなのか、それとも慣れているからなのか、全然平気だ。
「マヤーリエもたべます」
ただただ隣で自分を見つめているマヤーリエに、フォークで肉を口に運ぶ動作と「たべます」と言うのを、何度も繰り返し見せた。
ようやく、マヤーリエの手が動いた。ナイフで肉を切り、フォークで刺して口に運んだ。
「たべます、いいです」
それを見たナラカも、フォークに刺さったままだった肉を口に入れた。
俺が考えたのは、ナラカ以外の人にも日本語を教えることだった。
現状では、ナラカは俺以外に日本語を使うことはない。でも理想としては、俺以外にも話し相手がいた方がいい。その方が断然、上達が早くなるからだ。
でも、その話し相手がキーチャでは都合が悪い。母語で会話ができてしまうからだ。
その点、マヤーリエなら母語が違う。マヤーリエが日本語を話せるようになったら、必然的にナラカとマヤーリエは日本語だけで会話をすることになる。
そういう状況を作ることが、俺の狙いだ。だからキーチャではなく、マヤーリエを誘うことにしたのだ。
さっきのキーチャは、マヤーリエの様子を見に来たのだ。キーチャは事前にこのことを知っていた。昼食前にナラカにお願いして、マヤーリエを一日借りてもいいかどうか、キーチャに聞いてきてもらっていたからだ。もちろん、ナラカにはマヤーリエも一緒に日本語を勉強させたいということを説明して、その上でのことだ。キーチャは快く了承してくれた。協力してくれたキーチャには、感謝したい。
俺はナラカが日本語を話すのを見てほしくて、マヤーリエに食事に同席してもらった。日本語を覚えれば、伝説の英雄の生まれ変わりである俺と話すこともできるんだよ、という、俺の優位な立場を利用させてもらった形だ。
早速効果が生まれている。ナラカがマヤーリエに「たべます」と教えていたことだ。ただ漠然と覚えているだけでは、教えることはできない。教えることができるということは、覚えたことが頭の中でしっかり整理されているということだ。
マヤーリエが初歩的な日本語を覚えるまで、俺だけでなくナラカが教えるということもあるだろう。そういうことが増えれば、それだけナラカの日本語の力も上がるはずだ。
昼食を食べ終わり、三人で街へ来た。ずっと天気がいいし、空気も爽やかなので、外出しやすくて助かる。気温もほとんど変わらず、薄着がちょうどいいくらいの程よい暑さだ。マヤーリエはメイド服のまま来てしまったのでちょっと浮いている感じがするけど、今日のところは勘弁してほしい。
今日は昨日とは反対側、大通りの右側を歩いている。右側を歩くのは、今日が初めてだ。
左側と同じように、露店が並んでいる。使われている言語も、左側と同じくナラカが話す言語だ。
ナラカの「なんですか?」攻撃は相変わらずだ。昨日までと違うのは、その様子をマヤーリエが見ているということだ。俺とナラカが親しげに話し続けることで、ちょっとでも日本語に興味を持ってくれたらいいんだけど。
大通りから、右に曲がる。昨日通った左側の道と同じで、中心の大通りよりは狭いけれど、馬車用、荷車用、歩行者用の道が揃っている、大きな道だ。昨日は曲がった先で初めて聞く言語に出会いまくって驚くことになったけど、今日はどうだろうか。
少し歩くと……やっぱりあった。知らない文字の看板が見えてきた。
「ナラカ、あれ、わかりますか」
「わかりません」
「わかりません……、いいですか?」
「はい、いいです」
昨日と同じで、知らない言語が使われていることを、ナラカは気にしていない様子だ。「わかりません、いいですか?」は「わからなくても、それで構わないのか?」という意味の質問だけど、それでも構わないというのが、ナラカの答えだ。
その後も、別の言語を見たり聞いたりするたびにナラカに聞いてみたけど、やっぱり平然と「わかりません」と答え続けた。
気にしていないのは、ナラカだけではない。露店で働く人も、買い物をする人達も、お互いの言語が違うことを気にしている様子がない。昨日もそうだったし、今日違う場所でもそうなのだから、たまたまということではないだろう。
なんとなく、わかってきた。
どういう事情かはともかく、この国では、宮殿内で使われる言語の他に、さまざまな言語が使われている。しかも、宮殿からちょっと離れると、それらの言語が街中に散りばめられたように混在している。
この国では、それが当たり前なんだ。当たり前すぎて、言語が違うことを誰も気にしていないんだ。
俺がこの世界に来た時、初めて聞いたはずの日本語を聞いても誰もこれといった反応を示さなかった。俺を召喚した褐色肌に銀眼銀髪の二人も、深緑肌のじいさんも、そしてナラカも、さも当然のように俺の日本語を聞きつつ、自分の言語で話しかけてきていた。俺はそれが不思議でならなかったけど、やっとその理由がわかった。俺が何語を話そうが、そんなのはどうでもいいことだったんだ。
十字路が見えてきた。曲がらずに、そのまま真っすぐ行く。
急に、道が細くなってきた。露店が並んでも広々としていた歩道が、露店がないのに狭く感じる。馬車用の道も荷車用の道もなくなっていて、敷かれていた石畳もなく、土がむき出しになっている。道の両側に並ぶ建物も、だいぶ古くて粗末な造りだ。
何だか、変なところに来てしまった。
「ナラカ、マヤーリエ、ここは引き返して、別のところに……」
振り向くと。
いない。
ナラカも、マヤーリエも、いない。
通行人も誰一人としていないことに、今気づく。
空にはいつの間にか黒雲が立ち込め、昼とは思えない薄暗さだ。
やばい。
何かが起きている。
でも、どうしたらいいのかわからない。
「ナラカ! マヤーリエ!」
叫んでみても、返事はない。
とにかく引き返さなくてはと思い、逆方向に走る。しかしいくら走っても、周囲の景色は変わらない。
諦めて走るのをやめて立ち止まった俺の前に、黒い煙のようなものが現れた。ぼんやりとしたその黒い塊から、突然腕が生えてきて、俺を襲った。
走って逃げる。黒い腕はどこまでも伸びて、俺を追ってくる。もうどこに向かって走っているのかわからない。それでも走る。走って逃げるしか、俺にはできない。
息が切れる。苦しい。もう走れない。足がもつれ、地面に倒れ込む。起き上がる力も残っていない俺に、黒い腕が迫る。
黒い腕が、五本の指を大きく広げた。
ダメだ。捕まる。もう、逃げられない。
顔を背け、目を瞑る。
……………………。
何も、起きない。
おそるおそる、目を開ける。
黒い腕は、手首を切り落とされていた。手首から先が、目の前で霧となって消えていく。
「アケヤ! t} |<}c]u]:n t-$ i&+&!」
ナラカの声。
手首から先を失った黒い腕の前に、ナラカが立ち塞がる。
黒い腕は枝分かれし、一本の腕から二つの手を生やして俺を襲ってきた。ナラカの手には札。腕を水平に振り、札を投じる。札は空を舞い、黒い腕を切り裂いていく。
俺は震える足に力を込め、なんとか立ち上がった。
その俺を囲むように、地面に丸い影。人型の影が、そこからゆらゆらと生えてきた。両腕をだらしなく掲げ、音もなく近づいてくる。
逃げようにも、逃げ道などない。
何も、できない。
視界の端で、人型の影が亡霊のような低い悲鳴を上げ、消滅した。
思わず、そちらを向く。
目に入ったのは、小さなメイドの姿。
マヤーリエが両腕を振ると、それぞれの指に挟んだ長針が一直線に飛んで行った。長針に体を貫かれ、六体の人形の影が同時に消滅した。
黒い腕は徐々に薄くなり、人型の影も数を減らしていく。やがて二人の攻撃に耐えきれなくなった謎の敵は、完全に消滅した。
瞬く間に、空は元の青空に戻った。明るくなった周囲を見ると、道は広く、馬車や荷車が通っている。建物も古くも粗末でもなく、石造りやレンガ造りの立派な建物が並んでいた。
何が、あったんだ?
「ტဦးခေ เมมลิပြ န်ပြေน ดัငოჰუიმ აზ უგიဖင့ვნოชิ โიဖเท นკირန်းเวาข คနညბ」
マヤーリエはまだ険しい顔をしている。まさか、マヤーリエにあんな戦闘能力があったなんて思わなかったけど……何か、特殊な事情があるのだろうか。でも、今の俺にはそれを知ることはできない。
「s"+* tf<}v、アケヤ…… d%}w| *##g( **j#q v+e]=i@\+|」
ナラカも俺に伝えようとしていることがある。ただ、それができるほどの日本語の力は、まだない。
とにかく、攻撃されたことだけは確かだ。
おそらく、俺がこの世界に来たことを快く思っていない奴がいる、ということなのだろう。
「ナラカ、マヤーリエ、かえります」
今日はもう、出歩かない方がいいだろう。
俺達は来た道をそのまま引き返し、宮殿に帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます