第11話

 日本にいた頃は、授業で絵を使って説明する場合、学校にある絵教材や、インターネットのフリー素材を利用していた。でも、学生からの質問など突発的な事態に対応するために、その場で絵を描くこともある。

 そんな時に俺が描く絵はとてもシンプルで、人なら公衆トイレの男女のマークのような形に、顔だけスマイルマークのような目と口を描く、というものだ。描き込めばいいとか、上手ければいいとかいうものではない。肝心なのは、伝わりやすさだ。

 俺がナラカに見せた紙には、部屋に人が大勢いて、おしゃべりしているという絵だ。これまでならこんな絵を自分で描くことはなかったけど、インターネットがないのだから仕方がない。

 これは、難しかった。シンプルな人の絵といえども、大勢となると難しい。何度か描き直した。これと対になる、人がほとんどいなくて何もしていない絵と比べると、本当に描きにくかった。でも、まあ、なんとか描いた。

「にぎやかです」

「しずかです」

 言いながら絵の下に書く、というのはこれまでと同じだ。ただ、「い形容詞」より、「な形容詞」の方が説明が難しい。数は「い形容詞」より少ないけど、それは、教えやすい単語を選んで使うことができないということでもある。

 少し間を置いて、戸惑い気味にナラカが言った。

「ひとはおおいです。ひとはすくないです」

 「人は」は「人が」が正しいけど、今俺が言うべきなのはそれではない。

 俺が伝えたいことが、ナラカにはあまりきちんと伝わっていないようだ。

「ひとが おおいです。はなします。にぎやかです」

「ひとが すくないです。はなしません。しずかです」

「……………………」

 これは……伝わらないか?

 でも、今すぐにはわからなくても、後で実際に賑やかな場所や静かな場所に行った時に、説明すればいいだろう。

 めげずに次の絵に行くことにした。

「じょうずです」

「へたです」

 一枚は、整った顔の絵を描いている、うれしそうな人。もう一枚は、目や鼻や口が福笑いのようにズレまくった顔の絵を描いている、悲しそうな人。これも何度か描き直した絵だし、今度こそわかってほしい。

「このえはいいです。このえはわるいです」

 うーん。それはそうなんだけど。

 せっかくだからナラカの言葉を借りて、さらに説明をしよう。

「いい えです。この ひとは えが じょうずです」

「わるい えです。この ひとは えが へたです」

 そうだ。今、思いついた。

 新しい紙に、ナラカの言語の文字で「ナラカ」「アケヤ」と書いた。一応書く練習はしていたけど、全然慣れていなくてバランスが取れていない。

 ナラカのノートと並べてみる。

「ナラカは じが じょうずです。わたしは じが へたです」

「あー! わかりました!」

「わかった? ほんとに? よかった!」

「あー、キーチャはりょうりがじょうずです。わたしはりょうりがへたです」

「うん、そうそう! いいね! いいね!」

 思わず、ニ回「いいね」を言ってしまった。

「わたしはりょうりがへたです。わるいです。いいねじゃないです……」

「あっ、いや、そういう意味じゃなくて、その……ごめん」

 うっかりナラカを悲しませてしまった。でもこれは事故だ。不可抗力だ。俺が悪いんじゃない……はずだ。

「つ、次にいこうか。ははは……」

 笑ってごまかして、次の絵を見せた。

「ねこです!」

 絵を見せた瞬間、反応があった。

 街で野良猫を見かけたことがあって、その時に教えたから、「ねこ」はすでに知っている。

 一枚は、猫と笑顔の人。もう一枚は、猫と悲しい顔の人。

「すきです」

「きらいです」

「すきです!」

 ものすごく反応がいい。最初にこの絵を出せばよかったか。

「わたしはすきです! ねこ!」

「わたしは ねこが すきです」

「あー! わたしは ねこが すきです! ねこは いいです!」

 俺も子供の頃に猫を飼っていたから、猫が好きな人の気持ちはわかる。

 ナラカの理解が進んだところで、次の段階に進む。

 俺はもう一度、「じょうずです」「へたです」の絵を見せた。そして、それぞれを指差す。

「これは じょうずな えです」

「これは へたな えです」


 これが、「な形容詞」と呼ばれる理由だ。

 学校文法では、これらの単語は「形容動詞」と呼ばれている。しかし日本語教育では「形容動詞」に当たる単語も「形容詞」に分類している。そして名詞を修飾する時に「い」で終わるものを「い形容詞」、「な」で終わるものを「な形容詞」と呼んでいる。


「じょうずな? 『な』?」

「うん。『な』」

「すきな?」

「うん。すきな」

「きらいです……いです!」

 やっぱり来た。これは、「い形容詞」「な形容詞」を教える時に、必ず通ることになる道だ。

「きらかったです! きらくないです!」

「えっと、『きらいです』は、ちょっと特別な単語で」

「きらいですは……なんですか?」

「ナラカ、ちょ、ちょっと、まずこれを見て」

 新しい紙を出して、「じょうずです」と書く。さらに、その右に「じょうずでした」と言いながら書いた。下には「じょうずじゃないです」、右下には「じょうずじゃなかったです」だ。

「『きらいです』は、『きらいでした』『きらいじゃないです』『きらいじゃなかったです』です」

「……………………」

 ナラカの顔は、困惑を隠していない。

 「な形容詞」は、「い形容詞」と違って「です」の前が決まっていない。だから「きらいです」のように、たまたま「い」になってしまうことがある。

「『きらいです』は『きらいな』です。じょうずな。へたな。すきな。きらいな」

 今、必ず覚えなければならないということはない。今はわからなくても、そのうち覚えてくれれば、それでいい。

 ふと壁の時計を見上げて、やる予定だったことを思い出した。午前中にやっておかなければならないことだ。

「ナラカ、キーチャに言います。…………」

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