第10話
今日も、朝食を食べ終わって部屋に戻ると、ナラカが待っていた。
「アケヤ、これはなんですか?」
テーブルの上の紙を手に取り、不思議そうに見ている。
数枚の紙に、簡単な絵が描いてある。
今日ナラカに教える日本語は、昨日と違って体を動かして教えるのではなく、絵で説明する方がわかりやすいものがある。だから、昨日のうちに準備しておいたのだ。
椅子に座り、早速今日の授業を始める。
紙を一枚手に取る。絵には、大小の丸が描かれている。
俺は大きい方の丸を指差した。
「おおきいです」
そう言って、丸の下に「おおきいです」と書き込む。
そして、今度は小さい方の丸を指差す。
「ちいさいです」
同じように、「ちいさいです」と書き込んだ。
丸だけでは、まだわかりにくい。
もう一枚、紙を出す。Tシャツのような簡単な服の絵が二つ描かれている。
「この ふくは おおきいです」
「この ふくは ちいさいです」
「わかりました! おおきいです!」
ナラカは両腕を目一杯広げ、大きな円を描いた。
「ちいさいです!」
今度は指で何かをつまむ時のように、親指と人差し指の指先をくっつかない程度に近づけた。
「そうそう! いいね!」
「いいね!」
ナラカの顔がほころぶ。
次の紙には、木が二本描いてある。俺が日本で使っていた教材では木ではなく山だったけど、この街の近くには山がないようなので、木を描いてみた。
「たかいです」
「ひくいです」
木の絵の下に、同様に書き込む。
「たかいです。ひくいです。この きは たかいです。この きは ひくいです」
単語だけではなく、文としても言ってみせた。
それから、俺は椅子の上に立ち、腕を上に伸ばした。頭よりももっと上の位置を、手の平を振って示す。
「たかいです」
今度は椅子から降りてしゃがみ、足元の位置を手の平で示した。
「ひくいです」
「たかいです。ひくいです。わかりました」
うなずいて、ノートに書いていく。
俺はさらに次の紙を出した。「たかいです」をやったら、続けてこれをせざるを得ない。
スマイルマークの顔に首と肩を付け足した程度の、簡単な人の絵。昨日ナラカのノートの隅っこに描いたような絵の、胸から上だけだ。一人は宝石が一個だけの簡素なネックレスをしていて、もう一人はたくさん宝石を使ったネックレスをしている。その下に、昨日覚えたばかりのこの国の数字が書いてある。桁が、三つ違う。
「たかいです」
「やすいです」
そう言った俺がこの言葉を書き込むのを待たず、ナラカが指摘した。
「たかいです? 『たかいです』は、これです」
ナラカはさっきの木の絵を俺に見せた。
「『たかいです』は、2あります」
昨日数字を教えた時に、「いち~じゅう」は教えたけど、「ひとつ~とお」はまだ教えていなかった。だから、「ふたつあります」とは言えない。助数詞も教えていないから「個」は使えない。ちょっと不自然だけど、「に あります」と言うしかない。
「これは、たかいです。これも、たかいです」
「も? これ『も』?」
よかった。ちゃんとそこを疑問に思ってくれた。ちょっと本筋からは逸れるけど、教えておきたかったことだ。
俺は本棚から本を二冊取り出し、別々にテーブルに置いた。
「これは、ほんです。これも、ほんです」
今度は俺のペンをナラカに見せる。
「これは、ペンです。それも、ペンです」
後半部分は、ナラカのペンを指差しながら言った。
「あー、アケヤ、わたしは、ひとです。アケヤも、ひとです」
「うん、いいね!」
「も! も!」
楽しそうに言いながら、ナラカの言語の文字でノートに「も」と書いた。その次に書いた説明文はさすがにわからなかったけど、「も」だけなら俺にもわかった。
話を本筋に戻す。
「たかいです」
「やすいです」
「はい。たかいです。やすいです……あー、アケヤ、いです?」
ナラカが気づいた。ノートを見ながら、確認する。
「いです、いです、いです……いです!」
今、俺が教えているのは、「い形容詞」だ。
日本人が国語の授業で勉強する学校文法と呼ばれるものと、外国人向けの日本語教育とでは、用語が同じではない場合がある。
この「い形容詞」もそうだ。学校文法では単に「形容詞」と呼んでいる。ところが日本語教育では形容詞は二種類あると考えていて、それぞれ「い形容詞」「な形容詞」と呼んでいる。
服の絵に戻って、説明を続ける。
「これは おおきい ふくです」
「これは ちいさい ふくです」
「はい! これは おおきい ふくです! これは ちいさい ふくです!」
「これは?」
木の絵を見せて、答えを促す。
「これは たかい きです! これは あー……ひくい きです!」
ノートを見て確認しながら、ナラカは答えた。
「じゃあ、次はこれ。昨日勉強したのと同じなんだけど」
俺が出した紙には、「たべます たべました たべません たべませんでした」の四つの言葉が、昨日と同じ配置で書いてある。
そして、新しい紙に「おおきいです」、その右隣に、「おおきかったです」と、それぞれ発音しながら書き加える。「たべます」「たべました」と同じ配置だ。
「おおき……?」
「おおきかったです」
「おおき、かった、です」
「うん、いいね」
「おおきいました、じゃないですか?」
「いいえ、『おおきかったです』です」
い形容詞と動詞は活用が違うので、動詞とは別に覚えなければならない。
さらに、「おおきいです」の下に「おおきくないです」と言いながら書く。
「おおきくないです」
今度はナラカは一回で言えた。
「くないです? あー! あー……ねたくないです」
「そう、それ! いいね! ちゃんと覚えていたね」
本来ならば「い形容詞」を教えるのが先で、その後に「~たいです」を教えた時に、変化の仕方は「い形容詞」と同じだ、と説明する。しかしナラカには昨日成り行きで「~たいです」を教えてしまっていたから、あの「~たいです」は実は「い形容詞」と同じなんだよ、という順番になった。
「あー、これは? これはなんですか?」
ナラカが右下の空いている場所を指差す。本当は「これ」ではなく「ここ」なんだけど、「ここ」に土地のイメージがあると、こういう時になかなか「ここ」が出てこない。
「おおきくなかったです」
ここもやはり、言いながら書く。
「おおきくない……かった、です」
「なかったです」
「なかったです」
「おおきくなかったです」
「おおきく、な、な……か、なかったです。んー、;=v|!t| !% #w}a&\;]f&!」
なんとか言えたけど、そのままテーブルに突っ伏してしまった。最後はおそらく、不満をぶちまけていたのだろう。
「最初は難しいよね。しょうがないよ。じゃあ、今度は『ちいさいです』で言ってみようか。ゆっくり、ゆっくり言ってみよう」
とは言っても、ナラカが顔を上げるまでは再開できない。俺ができるのは、ただ待つことだ。
無理やり教えることはできない。ナラカには、日本語を覚えなければならない義務なんて、そもそもない。もしナラカが気分を損ねて日本語への興味を失ってしまったら、俺はもう終わりだ。
「…………たです」
突っ伏したままのナラカが、何か呟いている。
「……く、なかったです。おおきく、なかったです。おおきくないです。なかったです。おおきくなかったです。おおきくなかったです」
言い終わると同時に、勢いよく顔を上げた。
「アケヤ! ちいさいです! ちいさ……かったです! ちいさくないです! ちいさくなかったです! いいね!」
その勢いのまま、一息で最後まで言い切った。
「いいね! すごいよナラカ!」
これまでで一番にこやかな笑顔を、ナラカは見せてくれた。
この後、「おおいです」「すくないです」や、「はやいです」「おそいです」、「いいです」「わるいです」など、他の「い形容詞」をいくつか教えた。
「い形容詞」は、もう問題ない。
この調子だったら、次に教える「な形容詞」も、きっと大丈夫だ。
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