第9話

 宮殿に帰って来た。

 外から見ると、この宮殿はかなり巨大な建物だ。でも、内部はほんの限られた部分しか行ったことがない。

 街でそうだったように、宮殿の中もまだ行ったことがない場所に行ってみたくなってきた。全ての場所を自由に歩き回ることはできないだろうけど、行けるところまで行ってみよう。

「アケヤ、ひだりじゃないです。みぎです」

 廊下の突き当たりで左に曲がろうとした俺を、ナラカが制する。

 部屋に戻るには、ここは右に曲がるのが正しい。しかし俺はナラカの手を掴み、左の方向を指差した。

「ひだりへいきたいです」

「あー、ひだりへいきたいですか?」

「はい、いきたいです」

「わかりました! いきます!」

 掴んでいた手を離し、握り直す。

 連れて行ってもらう立場の俺が、逆にナラカの手を引いて、左の廊下へと進んだ。


 廊下を適当に歩き、進んでいく。ドアがたくさん並んでいるけど、さすがにドアを開けて中に入ろうとまでは思わない。でも、たまにドアがちょっと開いていたり、ちょうど出入りする人がいたりすることがあった。少し覗いてみると、机を並べ、事務作業に勤しんでいる人ばかりだった。どうやらこの辺りは役所として使われているようだ。服装はかなりシンプルだったから、きっと下級の役人なのだろう。もしかしたら、食堂で見かけたことがある人も、この中にいるのかもしれない。

 さらに進むと、広い階段があった。石の廊下とは違い、この階段には絨毯が敷かれている。

 何か、特別な階段なのだろうか?

 階段を登ってみる。

「アケヤ! l#u % o,"< )"'*y, %(,;|\+)」

 いつもの元気な明るい声ではない。俺を止めようという意思を強く感じる、厳しめの声だ。

 でも、俺は一応わざわざ召喚されてきた伝説の英雄の生まれ変わりなわけだし、行ってはいけないところに行ってしまったとしても、そんなに怒られることはないだろう。いざとなったら、うっかり間違って迷い込んだとでも言えばいい。言っても通じないけど。

 ナラカの注意を聞き流して、そのまま階段を上る。

 階段の踊り場の壁に、大きな地図が掛けてあった。山や川、海、森、平原が描かれている。中心には、この宮殿に似た建物の絵があった。そして、そのすぐ横には大きく、地図の端の方の複数箇所には小さく、文字が書いてある。

 ということは、これはこの国とその周辺地域の地図だ。

「ナラカ、これは、ここですか?」

 地図の中心を指差す。

「はい、ここです」

 やっぱりそうだ。

「これは、ここですか?」

 手のひらを広げ、両腕も広げた。地図はかなり大きいので、それでも端から端までは届かない。

「はい、ここです」

「これは? これは、ここですか?」

 今度は、地図の端に書かれている、小さい文字を指差す。

「いいえ、ここじゃないです」

 思った通りだ。これで、この国の国名がわかる。

 五十音との対応表と、地図の文字を見比べる。

 あれ? 表にはない文字もいくつかあるな。日本語にはない発音の文字か? これじゃわからないな……。

「ナラカ、これ、よみます」

 実際にナラカに発音してもらえば、大丈夫だろう。

 ナラカの口が動く。

「ヴァスヒューダ」

 ヴァスヒューダ。カタカナで表すとしたら、そんな感じの発音だった。

 俺も言ってみる。

「ヴァスヒューダ」

「ヴァスヒューダ です」

「ヴァスヒューダ」

「ヴァスヒューダ!」

 発音が難しくて、うまく言えない。なんとか言っているつもりなんだけど、ナラカの耳には間違った発音として聞こえているようだ。

「あとでちゃんと練習しておくからさ、上に行こうか」

 俺は逃げ出すように階段を駆け上がった。

「あ、アケヤ、いきません! いいえです!」

 そう言われても止まるつもりはない。追ってくるナラカに捕まってしまわないように、一気に階段を駆け上がった。

 そこは廊下ではなく、ロビーのような空間だった。大きなテーブルとソファがあり、隅には背の高い観葉植物が置いてある。天井にはシャンデリア。壁には絵画が何枚も掛けられていて、床の絨毯も絵画のようなデザイン。とにかく豪華な場所だ。

 ソファに誰かが横になって寝ている。こんなところで寝ているなんて、何なんだこの人は。

 凝った装飾に包まれた、小さめの体。青黒い肌に薄い水色の髪……って、この人!

 その人物――少年が目を開いた。金色の眼が、まぶたの向こうから現れる。何度かまばたきをした後、眠そうに眼をこすり、起き上がった。

 昨日、謁見の間で対面した少年。この国の王だ。

 ナラカと王が会話を始めた。ナラカはちょっと申し訳なさそうにしている。多分、起こしてしまったことにではなく、王の居場所に来てしまったことに悪かったと思っているはずだ。この階段を上がるのを強く止めようとしていたのも、そういうことだ。

 けれども、王は笑って話している。王自身は大したことではないと思っているようだ。

 王は俺にも話しかけてきた。もちろん、何を言っているかはわからない。王も通じないのがわかっているだろうに、どんどん話しかけてくる。何を言っているのか気になるけど、この量の言葉をナラカに通訳してくれというのは、さすがに無理だ。

「ナラカ、えっと、その……」

 それでも、ナラカにどうにかしてもらうしかない。救いの手を期待する。

「あー、アケヤ、このひとはカガニスです」

 ナラカもどうしたらいいのかよくわからなかっただろうけど、とりあえず王の名前を教えてくれた。

「カガニス、俺はアケヤ。よろしくな!」

 王に対してどういう態度を取ればいいのかちょっと迷ったけど、どう言おうがどうせ言葉はわからないんだし、ナラカもそこまでかしこまってはいないから、これでいいだろう。

 王は驚いてナラカに話しかける。キーチャもそうだったけど、ナラカがいきなり聞いたことがない言葉で話し出したのだから、それは驚くだろう。

 しばらくまたナラカとカガニスの会話が続いた後、ナラカは俺に顔を向けた。

「カガニスはほん、よみます。……あー、よみました。ねたいです。ねました」

 俺は思わず笑ってしまった。

 確かに、テーブルには本が置いてある。読書をしているうちに眠くなって寝てしまった、ということのようだ。どうして一国の王がこんなロビーみたいな場所で読書をしていたのかまでは、わからないけど……。

 カガニスがナラカに詰め寄っている。余計なことを言うな、ってことなのだろう。ただカガニスの方がおそらく年下だし、背も低いので、怒っていても全然怖さがない。むしろ可愛く感じるくらいだ。



 もう夜が近いので、ナラカは家に帰った。

 俺は部屋で夕食の時間を待っている。おやつのクッキーと紅茶が、まだ少し残っていた。クッキーはともかく、紅茶のカップとポットは片付けてほしいんだけど、どうしたらいいのかな。

 チリンチリン、とベルが鳴った。直後に、トントントン、とノックの音。

 ドアが少しだけ開く。いつも食事を知らせに来てくれる、オレンジ肌のメイドの子だ。恥ずかしがり屋なのか、いつもちょっと顔を覗かせるだけだ。それに、食堂へ連れて行ってくれる時も、ただ黙って前を歩くだけだ。でもこれは恥ずかしがり屋だからではなく、言葉が通じないから言っても無駄、だから黙っている、ということなのかもしれないけど。

「あのー、ちょっといいかな。これ、片付けてほしいんだけど」

 飲み終わった紅茶のセットを指差す。

 メイドの子はやっと体が通れるほどだけドアを開け、部屋の中に入ってきた。でも、それ以上は入ってこない。ドアの前に立ったままだ。

「あの、これ」

 やっぱり、通じていないのかな?

 それとも、この子は本当に食事の案内だけが仕事で、他の仕事をしてはいけないことになっているのだろうか。

 メイドの子はもじもじしながら、かろうじて口を開いた。

「ჰჰကို တန်းတူ ฉันကို ကျီაზასა น่าก ลัวაზას เป็გაწით ครကော င်းပါ တယ်ლებუ ლი გვน ใა」

 な、何だ?

 ナラカが話すのとは、まるで違う言語だ。

 今日は街でさまざまな言語を聞いたけど、その中にあったかもしれないし、なかったかもしれない。とにかく全然わからない。街だけでなく、宮殿の中にも違う言語の人がいるとも思わなかった。

 どうしてもこれ以上は部屋の中に入ってこないので、片付けてもらうことは諦めた。

 俺は素直に食堂に連れて行ってもらうことにした。


 食事をしながら、周囲の声に耳を澄ます。

 聞こえてくるのは、ナラカと同じ言語だけだ。

 ということは、あの子だけが特別なのだろうか。

 とにかく、俺が今日知ったのは、この国ではいろんな言語が使われている、ということだ。ナラカが話す言語が基本だけど、そうじゃない人達もいる。それを知ることができたのは、大きな収穫だった。


 食事を終えて部屋に戻ると、ちょうどキーチャが紅茶のセットを片付けているところだった。通じないことはわかっていても、「ありがとう」と一応お礼は言っておく。

 キーチャが部屋を出て、一人になった。

 寝るまでの時間、明日の準備をしようか。

 テーブルに置いてある紙が、補充されていた。キーチャがしてくれたのだろう。俺は紙とペンを取り、明日教える日本語の準備に取りかかった。

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