第8話

 クッキーは日本の、というか地球のものと変わりはない。一緒に運ばれてきた紅茶も、飲み慣れた味だ。

 ティーポットの下に鍋敷きのような板が敷かれているのが、ちょっと違うくらいだ。気になって触ってみたらやけどしそうなくらいに熱くて、反射的に手を引っ込めてしまった。

 これは、紅茶が冷めないようにするための物だ。どういう仕組みで熱を発しているのかはわからないけど、きっと魔法とか、異世界的な不思議な力が働いているのだろう。

 ポリポリとクッキーをかじりながら、紙を眺める。

 クッキーが来るまでの間に、俺は1から10までの数字をナラカに教えた。と言うより、俺がこの国の数字を知りたくて、教え合ったのだ。もしこの国が十進法じゃなかったらややこしいことになっていたけど、幸いなことにその心配は杞憂に終わった。

 この国の数字を覚えれば、街を歩くのがもっと楽しくなるだろう。売っている物の値段がわかるかどうかだけでも、見方が変わってくるはずだ。今はお金を持っていないけど、そのうち小遣いでも貰えたら、自分で買い物をしてみよう。

 数字の表を見ながら、露店で買い物をしている自分の姿を想像してみる。

 そうだ。ひらがなとこの国の文字との対応表も、もう一枚作っておかなきゃ。俺とナラカ、双方にとって必要なものだし。


 また、街に出た。日本にいるのとは違って教科書がないから、部屋にいたのでは教えるにも限界がある。外に出て目に触れるものや、実際の行動の中から教えていく方がいい。

「アケヤ、いきます!」

「うん、いきます」

「あるきます!」

「あるきます、いいね!」

「いいね!」

 動詞を覚えて話せることが増えたからだろうか。ナラカのテンションが高い。肩に掛けたカバンが、昨日よりも揺れている。

 対応表を持ってきたので、見比べながら街を歩く。表のおかげで、値札に書かれた数字が読める。思った通り、物の値段がわかると、街歩きの楽しさが増す。俺もテンションが高くなりそうだ。

 食べ物の露店の中には、クッキーや飴などのお菓子を置いて売っているものもあれば、日本のお祭りの屋台のように、その場で調理して売っているものもある。とはいえ、火は使っていない。さっきのティーポットに敷かれていた熱い板のように、魔法か何かの作用で熱が出る道具を使っているようだ。

 クレープ屋の前に来た。ここは午前中も通ったけど、クレープを作る店員の手捌きが鮮やかで、つい見入ってしまう。

 具材は果物やクリームのものもあれば、肉や野菜のものもある。日本ではクレープはスイーツだけど、本来は普通の食事で食べる料理だったらしいから、二種類のクレープがあることには特に驚かない。それに、食堂の料理は異世界だからといって特に変わったものはなかったし、クレープだってあってもいい。

「アケヤ、クレープ、たべますか?」

 おいしそうなので食べたい気持ちはあるけど、クッキーを食べたばかりだし、おなかは空いていない。でも、クレープを作るところをじっと見ていたから、食べたがっているように思えたのだろう。

 ここは、「たべますか」よりいい言い方がある。本当はちょっと順番が早いんだけど、ここで教えておこうか。

「ナラカは、クレープが たべたいですか?」

「え? たべ? たべ、なんですか? わかりません」

「たべたいです」

「たべたいです」

 ナラカがノートに書き留めたのを見て、俺はクレープが描かれた看板にゆっくり腕を伸ばした。

「クレープ……クレープ……」

 大げさに物欲しそうな表情を作り、演技をする。そして、お金がないという意味でポケットが空っぽであるという演技をし、まるで空気を食べているかのように口をもごもごと動かす。

「クレープが、たべ……たべたいです」

 動作を表す言葉なら、ただその動作をしてみせればいいけど、「〇〇たい」は気持ちを表しているので、そうはいかない。必要なのは、演技力だ。

 ナラカはノートに何かを書いているけど、真面目に勉強しているようで口元が歪んでいる。吹き出しそうなのを何とか堪えている感じだ。

 いや、笑っていいんだけど。大げさに演技している時は多少ウケてくれないと、こっちとしてもやりづらい。

 ちょうど、大通りを馬車が通っていた。馬車が通るのは巨大な大通りの最も内側のレーンだから、外側の歩道にいる俺たちのことなど見えていないはずだ。

「あ! あれは ばしゃ です。 ばしゃに のります。 ばしゃ、いいね! あー、ばしゃに のり……のりたいです」

 向こうから見えていないのをいいことに、俺はまた大げさに演技をしてみせた。

「アケヤ、u[+; [+ >{yb\{#% #h;j+>' e:b」

 ついに堪えきれなくなったナラカが、大声で笑い出した。何を言っているのかはわからない。でも、反応がないよりはこっちの方が断然いい。

 次は……何か例文が作れそうないいものはないかな。

 振り向いてみると、大通りの突き当たりにある、巨大な宮殿の姿。だったら……。

 俺は大きくあくびをしてみせた。そして大げさに目をこする。

「へやに かえりたいです。 ベッドで ねたいです」

「アケヤ、ねたいですか?」

 笑っていたナラカが、急に困った顔を見せた。

「ああ、ごめんごめん。例文で言ってみただけだから」

 と言ったところでナラカには通じないので、改めて言い直す。

「いいえ、ねたくないです」

「いいえです! あー、ねたい……ないです」

「ねたく、ないです」

「ねた……く、…………?」

「ないです」

「ないです」

「ねたく、ないです」

「ねたく、ないです」

「うん。ねたくないです。いいね」


 本当は「~たいです」の表現より「い形容詞」を勉強するのが先で、その後だったら「~たくないです」も理解が早いはずなんだけど、教科書がないんだから教科書通りに進まないのはしょうがない。明日にでも「い形容詞」「な形容詞」を教えることにしよう。


「『ねたいです』『じゃないです』は、『ねたくないです』です」

「あー、わかりました」

 ナラカがノートに書いている間、俺はクレープ屋の手捌きを飽きることなく眺めていた。

 結局、おなかが空いていないので、クレープはまた今度買うことにした。


 同じところばかり歩いていたのでは面白くないから、まだ行っていない道を歩くことにした。とはいえ、俺が通ったことがあるのはこの巨大な大通りだけだ。一回角を曲がれば、それがどこの角であろうが、初めて歩く道だ。

 宮殿を出てから、大通りの左側の道を歩いている。だから曲がるとしたら左側だ。どこの角を曲がってもいいのに、この凄まじく巨大な幅の大通りをわざわざ渡って右に行くほど、俺は物好きじゃない。

 ナラカに「右」「左」「まがります」といった単語を教え、左に曲がる。

 この道も立派な大通りと言えるだけの幅はある。馬車用、荷車用、歩行者用の道も、それぞれ確保されている。ただ、中心となる大通りがあまりにも幅が広いため、つい細い道であるかのように錯覚してしまいそうになる。

 この道路にも露店が並んでいる。道を歩く人がふと立ち止まって買い物をしたり、店員と客が親しそうに話していたりしている。


 ……何だ? この違和感は。


 ある露店の前で、俺は立ち止まった。雑貨屋だけど、売り物が気になったのではない。

 気になったのは、そこにいた二人、店員と客の会話だ。

 もちろん、話している内容は、全くわからない。

 それでも俺は二人の話に耳を傾け、集中して聞いてみた。


 違う。

 ナラカが話す言葉とは、違う。


 日本語しかわからない日本人でも、外国語を聞いて「これはフランス語だ」「これは中国語だ」と、それが何語であるのかがわかる場合がある。発音や抑揚、強弱などに、言語の特徴があるからだ。


 耳に入ってくる言語の特徴が、ナラカやキーチャ、中央の大通りの人達が話す言葉とは違う。

 ということは、この二人は外国人なのか? 地球と違って全員の体の色がそれぞれ違うし、見た目では判断できない。

 よく見ると、商品の値札の文字も違う。数字は同じ文字だけど、商品の名前が書いてあるはずの部分には、持ってきた対応表の文字とは違う文字が書かれている。違う言語であることは、間違いなさそうだ。

「ナラカ、これはなんですか? わかりますか?」

 俺は値札に書いてある商品の文字を指差した。

「わかりません」

 特に表情を変えることもなく、ごく普通の会話のようにナラカは答えた。

 ということは、そんなに特別なことではないのか? 中央の大通りも、まだ一部分しか歩いていない。たまたまここまで、外国人の店に出会わなかっただけなのだろうか。

 さらに進むと、ナラカの言語とも、さっき聞いた言語とも違う特徴の話し声。看板の文字も、初めて見る文字だ。

 驚いたことに、この露店の店員は聞いたことがない言語で話しているのに、客は多分ナラカと同じ言語を話している。それなのに、ちゃんと買い物ができている。一応、数字だけは共通のようだから、買い物が不可能ということはなさそうだけど……。

 十字路を右に曲がる。この道路はそんなに広くはなく、露店はない。ただ、通行人の話し声を聞くと、やはり何種類もの言語が、ナラカと同じ言語に混じって聞こえてくる。次の十字路を、また右に曲がる。この道路は広く、露店が並んでいる。さっきまでとはまた違う言語の会話、そして文字。店員と客が別の言語を交わして買い物をしているのが、ごく当然のように行われている。

 どうなっているんだ? どうして、こんなことが?

「……ケヤ! アケヤ! これはなんですか!」

 ナラカに腕を掴まれ、我に返る。

「え? あ、ああ、これは……」

 言語の違いが気になりすぎて、ナラカに日本語を教えるのを忘れてしまっていた。これじゃ何のために街に出てきたのかがわからない。

 今はいくら考えたってこの謎は解けない。それより、ナラカに日本語を教える方を優先させなくては。ナラカがもっと日本語を話せるようになれば、これが一体どういうことなのか、教えてもらうこともできるようになるだろうし。

 そのまま真っすぐ進み、一区画を一周して中央の大通りに戻ってきた。街歩きはここまでにして、宮殿に帰ることにした。

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