第7話
「あるきます」
食堂から部屋に戻る廊下で、俺は大げさに手を振り、足を踏み出した。
「あるきます」
ナラカがノートに書き留めたのを確かめて、今度は、
「はしります」
ナラカを置いて、小走りに走った。
「アケヤ! なんですか? はしります?」
ノートを広げてペンを持ったままのナラカが、慌ててついて来た。
もちろんこれは意地悪なんかじゃなくて、「走る」という単語を教えるためのものなので、すぐに止まってナラカを待つ。
さっき「たべます」を教えたから、ついでに基本的な動詞を教えることにしたのだ。話の流れで偶発的に「たべます」を教えることになったけど、動詞を教えるにはいいタイミングだ。
他にも、ナラカのペンとノートを使って「かきます」「よみます」と教えたりしながら、部屋に戻った。
動詞は「〇〇ます」という形で教える。全ての動詞が「ます」で終わる方が、覚えやすいからだ。逆に言えば、「〇〇ます」という単語に出会った時に、それが動詞であると容易に認識できることになる。それに、実際に会話で使う時も、「〇〇ます」の形の方が相手にいい印象を与えるという効果もある。
「あけます」と言って部屋のドアを開けた俺は、「しめます」と言ってドアを閉めた。「すわります」と言って椅子に座り、「たちます」と言って立った後、「ねます」と言ってベッドに横になった。「おきます」と言って体を起こし、また椅子に……座ろうとする動作だけをして、座らないでナラカの反応を待つ。
「すわります!」
忙しくノートに書き留めていたナラカが、確認しながら答えた。
「はい、『すわります』です」
そう言って椅子に座り、テーブルの上の紙とペンを取った。ここまでに教えた動詞を、「ます」の部分を揃えて書いていく。他にも基本的な動詞をいくつか教え、書き加えていった。
「〇〇ます」を教えたら、他の三つの形も教えなければならない。
新しい紙に「たべます」と書いた。続けてその右に「たべました」と書く。
「たべました」
「『たべました』はなんですか?」
すぐに反応したナラカに、俺は食べる動作をして見せた。
「たべます。たべます」
次に、背もたれに体を預け、おなかをさすった。
「たべました。たべました」
「たべました」
もし日本の学校で教えるなら、食べる前と食べた後の料理の絵も併用して教えるんだけど、今はそれがない。間違って「おなかがいっぱいになった」という解釈をしてしまっていないだろうか。復唱したとはいえ、ナラカの反応がいつもより薄い。
俺は部屋のドアのところまで行き、ドアノブを握った。そして、
「あけます」
と言って、ドアを開けた。
「あけました」
ナラカは真剣にこちらを見ている。
それを見て、俺は同じように「しめます」と言ってドアを閉め、「しめました」と言った。
「わかりました」
ナラカがうなずく。
テーブルに戻った俺は、「すわります」と言って椅子に座った。
「すわりました!」
俺が言うより早く、ナラカが元気な声で答えた。これなら大丈夫だ。ナラカはちゃんと理解している。
今度は、「たべます」の下に「たべません」と書いた。
また「たべます」と言って食べる動作をした後、「たべません」と言って膝に手を置き、何もしない。顔も正面ではなく、あさっての方向を適当に眺める。
自分でやっておいてなんだけど、これは伝わってくれるのだろうか。ここにお菓子の一個でもあれば、食べ物の絵だけでもあれば、説明しやすいんだけど。
ナラカの様子を見ることもせず、俺はまたドアの前に立った。ドアノブに手をかける。
「あけま……せん」
開けるフリだけをして、何もしなかった。
それから、「あるきます」と言って歩いてから、足を前に出すフリだけして「あるきません」と言ったり、ベッドに寝るフリだけしてベッドの上には乗らず「ねません」と言ったりして、「~ません」の説明を続けた。
テーブルに戻った俺は、椅子の隣に立ったまま何もせずにいた。すると、
「すわりません!」
ナラカが答えを言ってくれた。
「はい、『すわりません』です。いいね!」
「いいね!」
ちゃんと伝えることができた俺も、理解できたナラカも、笑顔で「いいね!」と言うことができた。
最後は、動作で説明することが難しい。
「たべました」の下、「たべません」の右に当たる部分に、「たべませんでした」と書く。この位置に書くことで、二つの言い方を組み合わせたものであることを理解してもらう。
「たべませんでした」
「たべません、でした?」
ナラカはまだひらがなが読めない。自国の文字との対応表を作ったとはいえ、今日初めて見た五十音を今日読めるようになるというのは、さすがに無理だ。だから復唱する時はひらがなを見てではなく、俺の発音を聞いて復唱している。それで、ちょっと長い言葉になると、復唱が難しくなるのだ。
「うん、でした。たべませんでした」
「たべませんでした」
たべませんでした、と呟きながら、ナラカはノートに書く。すると、
「あ! アケヤ!」
突然、聞いたことがないような大きな声で叫んだ。
「え? 何? どうしたの急に」
びっくりしすぎて、通じるように単語を選んで言おうという意識も飛んでしまった。
「わかります、ですか? わかりません……でした、ですか?」
「あ! そうそう! よく気づいたね!」
俺は紙にペンを走らせる。
「わかります、わかりました、わかりません、わかりませんでした」
「たべます」と同じ配置で、発音のスピードに合わせて書いていった。
「ナラカ、いいね!」
「わかりました! いいね!」
お互い笑顔で見つめ合った、その時。
「ナラカ! r,]+e& &,- g.f^m{ <!(*' $q*lx $#<」
ドアをノックする音と、ナラカを呼ぶ声。
つい気持ちが高ぶってきて、声が大きくなってしまっていた。声が外に漏れて、何かあったと思われてしまったようだ。
と、思ったら。
ドアの向こうから見えたのは、キーチャの姿。
ナラカがドアのところまで行き、キーチャと話す。
少し話してから、ナラカが戻ってきてノートをめくり始めた。
「あー……クッキー。アケヤ、クッキー、たべますですか?」
クッキーはさっき街へ行った時に露店で売っていたのを教えたから、ノートを見て確認していたのだ。
お菓子が食べられるのなら、せっかくだから食べることにしよう。
「はい、たべます」
そう返事をすると、ナラカがうなずいてキーチャに伝えた。キーチャも何か言って、部屋を後にした。どうやらキーチャが来たのは俺たちが騒がしかったからではなく、おやつがいるかどうか聞きに来ただけだったようだ。
それにしても、ナラカの日本語の理解の早さには、本当に驚かされる。今覚えたばかりの単語なのに、もうそれを使って簡単な通訳ができるまでになっている。この世界に来たばかりの時にはどうなることかと思ったけど、ナラカがいる限り、俺は安心できそうだ。
そんなナラカでも、間違える時は間違える。いや、まだ教えていないんだから、正しく言えなくても当然か。
「ナラカ、『たべますですか』じゃないです。『たべますか』です」
「たべますか?」
「うん、『たべますか』。あけますか、しめますか、ねますか、すわりますか」
「わかりました」
ナラカがコクリとうなずく。
「わかりましたか?」
「わかりました!」
今度はちょっとムキになって、噛みつくように答えた。
「ああ、ごめんごめん、疑ってたんじゃないけど、ちょっと言ってみたくなって」
思ったより怒らせてしまった。ナラカは結構負けず嫌いな性格のようだ。きっと、もともと勉強には自信があるのだろう。
お菓子が来ることがわかっていれば、そのタイミングで「たべました」や「たべません」を教えていたのにと思ったけど、まあしょうがない。結果的にその前に教えたことで、ナラカに通訳を務めてもらうことができたんだし。
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