第6話
宮殿に帰って来るなり、ナラカから「ここはなんですか?」攻撃が始まった。その度に俺は「ここは玄関です」「ここは廊下です」「ここはトイレです」などと答えた。そして最後に答えたのが、「ここは食堂です」だ。
席に着き、「これは料理です」「これはスプーンです」などと教えてから、食事を始めた。毎回違うメニューで、全員が同じものを食べているから、子供の頃の給食を思い出す。
食べ始めて一分も経たないうちに、遠くからナラカを呼ぶ声が聞こえた。
昨日の着替えの時にいた水色の肌のメイドが、料理を乗せたトレイを持ってこちらに歩いてくる。そしてナラカの隣に座ると、食事をしながら二人で話し始めた。いきなり会話が弾み出したところを見ると、この二人は昨日たまたま一緒だったのではなく、もともと仲がいいようだ。
何を言っているのか全然わからないけど、食事中なのでとりあえず手持ち無沙汰にはならない。パンをかじり、スープを飲む。スープには肉と芋がゴロゴロ入っていて、飲むと言うより食べると言った方が合っているかもしれない。
俺が黙々と食事していると、ナラカは俺を無視しておしゃべりに夢中になっていたことに気がついたようで、突然バツが悪そうに、
「アケヤ! これはキーチャです」
と、隣のメイドを紹介した。
「キーチャって言うんだ。よろしくね。俺はアケヤ」
当のキーチャはというと、ただただぽかーんと俺とナラカを見ている。スプーンを持つ右手が、スープを掬って持ち上げたまま止まっていた。ナラカが日本語を話したのを聞き、そして言葉が通じないはずの二人が言葉を交わしているのを見て、驚いているのだ。
そして俺はもう一つ、言わなければならないことがある。
「ナラカ、『この ひとは キーチャ です』」
普通、人に対して「これ」は使わない。「こちらはキーチャです」はこの状況からするとかしこまりすぎているし、ただ「キーチャです」と言うのが、よくある言い方だろう。
ただ、ここで俺が言いたいのは、「これ」は人には使わない、ということだ。だからちょっと不自然かもしれないけど、あえて「この人はキーチャです」という言い方を使うことにした。最初のうちは知っている単語数が少ないし、状況による使い分けもよく知らないから、多少不自然さがある文を学習過程の中で使わざるを得ないということは、仕方がないことではある。
「この、ひと? 『このひと』はなんですか? わかりません」
スプーンをペンに持ち替えたナラカが、前のめりになって俺を見つめる。
こういう姿勢で来られると、ゆっくり食事できないことを嘆くより、教えたい気持ちが勝ってしまう。日本語教師としての俺の本性も、前のめりになってきた。
俺は体の輪郭に沿って手を動かした。
「ひと です」
ナラカにもキーチャにも、同じように「ひと です」と言いながら手を動かす。
「んー……」
わかったようなわかっていないような、微妙なナラカの表情。
「ちょっと、いい?」
ナラカからノートとペンを借りた。邪魔をしないように隅っこに、スマイルマークの顔に簡単な胴体と手足をつけた絵を描いた。
「ひと です」
ノートを返すと、「あー、ひと。ひとです」とわかってもらえた。
「アケヤ、「『この』はなんですか?」
ナラカはもう「これ、それ、あれ」と「ここ、そこ、あそこ」がわかっているから、簡単な説明でも「この、その、あの」がわかってくれるだろうか。
俺はまず、持っていたスプーンをナラカに見せた。
「この スプーン」
右手に持ったスプーンを、左手で指差す。
その手で、今度はナラカのスプーンを指差した。
「その スプーン」
次はキーチャにも協力してもらおう。
「キーチャ」
スプーンを持ち上げ、キーチャのスプーンを指差す。何度かスプーンを持ち上げる動作をしていたら、キーチャもつられて持ち上げてくれた。
「そのまま、そのまま」
言っても通じないから、手で待つように示した。そしてナラカの手を引いて、テーブルから遠ざかった。
「あの スプーン」
ナラカがうなずく。
「アケヤ、『いいえ』は『わかりません』です。『はい』はなんですか?」
あ、そうか。逆にそっちはまだ知らないんだった。
「『わかりました』です」
「わかりました?」
「うん、わかりました」
「わかりました!」
今度はナラカが俺の手を引いて、席に戻った。
「ナラカ、これ、ひとはいいえです。このひと、です」
これまでに教えた語彙だけで「『これ』は人には使わない」ということを伝えるには、ものすごく不自然だけどこう言うしかない。
「わかりました」
ナラカは食事そっちのけでノートに書きまくっている。それを、キーチャが不思議そうに横から覗き込んでいる。
また二人で会話を始めたけど、今度はすぐに終わった。先に食べ終えたキーチャが、席を立つ。「さようなら」や「またね」に当たるであろう言葉を交わして、キーチャは去って行った。
「アケヤ、このひとはナラカです」
ナラカは自分の胸に人差し指を当てている。
俺は首を横に振った。そして自分の胸に人差し指を当てた。
「わたしは アケヤ です」
「わたし?」
「うん、わたし」
俺自身は普段「わたし」なんて使わないけど、教科書的には一人称は「わたし」だ。
「わたしは ナラカ です」
「うん、いいね」
そして、ナラカは胸に当てていた人差し指を俺に向けた。
「…………なんですか?」
「あなた」
「あなた?」
俺もナラカに人差し指を向けた。
「あなたは ナラカ です」
「あなたは アケヤ です」
お互いに言い合う。
これもいかにも不自然で、実際にはこんな会話をする機会は発生しない。ただ、「あなた」という単語を教えるために、こういう文になった。さっきもそうだったけど、初期のうちは、こういう不自然さがある文を使うことが、どうしても避けられない。
「わたし。あなた。わかりました」
ナラカがノートに書き留める。「はい」「いいえ」の時もそうだったけど、この国の言葉にも「わたし」「あなた」に当たる言葉はあるだろうから、理解はできるはずだ。
「ナラカ、勉強もいいけどさ、今は食べようよ」
キーチャと話していたり日本語を覚えていたりで、ナラカの皿がさっぱり減っていない。
「……べん、なんですか?」
しまった。知らない単語はナラカにとって格好のエサだ。すぐに食いついてきてしまう。
「えーっとね、うん、食べます」
フォークで肉を突き刺し、口に近づける。
「たべます」
フォークを口に持っていく動作と「たべます」と言うのを繰り返す。
「たべます」
「うん、たべます」
俺はフォークに刺されたまま上下運動を繰り返した肉を、口に放り込んだ。
ナラカも「たべます、たべます……」とノートに書いた後は、食事に集中した。
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