第5話

 昼食まではまだ時間があるので、ナラカと二人で街へ行くことにした。昨日はナラカに腕を引かれて行ったけど、今日は俺の方から誘ってみた。言葉で伝えることはできないから、窓の外を指差して歩く動作をする、という伝え方だ。

 ナラカは肩にカバンを掛け、ノートとペンを手にしている。ノートとペンはカバンに入れておいたのを取り出したのではなく、部屋を出る時からずっと直接持ったままだ。

 俺は早速、ナラカから「なんですか?」攻撃を食らってしまった。露店の売り物や街の中に設置してある物などをいちいち指差し、「これはなんですか?」「あれはなんですか?」と聞いてくるのだ。俺が「パンです」「帽子です」「ベンチです」などと答えると、その都度ナラカがノートに書く。それの繰り返しばかりなので、なかなか先へ進めない。でもナラカがあまりにも楽しそうにしているので、しつこく聞かれても全然悪い気はしなかった。

 たまに、それが何なのかわからないこともあった。そんな時は、俺は素直に「わかりません」と答えた。それを繰り返すうち、ナラカは「わかりません」という言葉も覚えてしまった。

 そうこうしているうちに、昨日の八百屋の前まで来た。

「これはだいこんです!」

 ナラカが大根を手に取り、ドヤ顔で俺に見せつけた。発音も少し滑らかになっている。

「これは、きゅ……きゅうりです」

 大根を置いた手できゅうりを指差し、一転して少し自信なさそうに言った。大丈夫、ちゃんと発音できている。

「これはとまとです」

 ナラカが指差しているのは、紫色の野菜。

「違う違う。それはなすだよ」

 昨日、トマトもなすも教えた時はちゃんと言えていた。だから、間違えって覚えたということはないはずだ。きっと単純ミスだろう。

 俺はなすを手に取った。

「これはなすです」

「なす!」

 ナラカがノートを開く。

「あー、なす! これはなすです!」

 顔を真っ赤にして……ということは、ない。黄緑色の肌は、黄緑色のままだ。でも恥ずかしさを打ち消そうとしていることは、伝わってくる。開いたままのノートで、少しだけ顔を隠した。

 俺は大根を手に取った。

「これは きゅうり じゃ ないです。 だいこん です」

「じゃ?」

「じゃ ないです」

「じゃ ないです」


 否定の言い方は「ではありません」がより正式で、「じゃないです」がよりくだけた言い方だ。その中間で「じゃありません」「ではないです」もある。四種類とも使われているし、教科書でも、ある教科書は「ではありません」なのに、別の教科書では「じゃありません」だったりして、統一されていない。どれが正しくてどれが間違っている、ということはない。ただ、傾向としては、時代とともに「ではありません」から「じゃないです」に変化してきていると言えそうだ。


「これは きゅうり じゃ ないです。 だいこん です」

 俺は同じ文をもう一回言った。

「これは きゅうり じゃ ないです。 だいこん です」

 俺の後について、ナラカも言う。

 今度は、なすを手に取る。

「これは トマト じゃ ないです。 なす です」

「…………」

 黙ったまま、ナラカがうなずく。さっき間違えたこともあり、ちょっと言うことに抵抗があるようだ。

 この後、野菜や果物を変え、「じゃないです」の文を数回繰り返した。ナラカもスムーズに言えるようになっている。

 俺は次の段階に移ることにした。

 また、大根を手に取る。そして「これはなんですか?」の時のように、一人二役を演じた。

「これは だいこん ですか?」「はい、だいこん です」

 「はい」と言うタイミングに合わせて、首を縦に振る。

 今度はきゅうりを手に取った。

「これは トマト ですか?」「いいえ、トマト じゃ ないです」

 「いいえ」と言うタイミングに合わせて、首を横に振った。

 さらに、「はい」「いいえ」と言いながら首を振るのを、何度も繰り返す。

 ナラカもそれに合わせて、呟きながら首を振る。

 「はい」「いいえ」に当たる言葉は当然この国にもあって日常的に使うだろうし、すぐに覚えられるはずだ。

「ナラカ、これは なす ですか?」

 きゅうりをナラカに見せる。

「いいえ、なす じゃ ないです」

「これは きゅうり ですか?」

「はい、きゅうり です」

「いいね!」

「はい! いいねです!」

 「いいねです」はちょっと間違っているけど、せっかくいい雰囲気なので今は指摘しないでおく。

 しばらく、今までのことをノートにまとめていたナラカが、何かを思い出したように「あっ」という声を出した。

 ナラカは八百屋の端に立った。そして、腕を広げて歩き出す。

「アケヤ、これはなんですか?」

 腕を広げたまま反対側の端まで歩いて行き、振り向いて俺を見た。

 これは八百屋です、と答えたいところだけど、そうはいかない。

「ここは やおや です」

「やおや」

 ナラカはこれまでと同じように、ノートに書いていく。違いに気がついていないようだ。

「ここ! ここは やおや です」

「ここ? ……これじゃないです! わかりません!」

 八百屋の端に立ったまま、「ここ」を強調して言った俺に言葉を返す。

 俺は足元周辺を、円を描くように指差した。

「ここ」

 次に、八百屋の端に立っているナラカの足元を指差す。

「そこ」

 最後に、この場所から遠く離れた店を指差した。

「あそこ」

 それから俺は八百屋の正面に立ち、ナラカを呼んだ。そして、

「ここは やおや です」

 ジェスチャーで「この場所」だと表す。

 そしてナラカを隣の露店へ連れて行く。靴を売っている店だ。

 俺は「くつや です」とだけ言って、ナラカをその場に立たせたまま、八百屋の前まで戻った。そして、ナラカがいる場所を指差す。

「そこは くつや です」

 俺はまたナラカがいる場所へ行った。そして、

「ここは くつや です」

 また、「この場所」のことを言いたいのだ、ということをジェスチャーで表す。

「ここは くつや です」

 ナラカが復唱した。

「これ」「それ」「あれ」がわかっているナラカなら、「ここ」「そこ」「あそこ」を理解するのは簡単なはずだ。

 俺はここから離れたところにある、石造りの建物の一階にある店を指差した。昨日その店の前を通ったから知っている。高級そうなレストランだ。

「あそこは レストラン です」

「あそこは レス……」

「レストラン」

「レス、トラン。あそこは レストラン です」

 ナラカは軽くうなずいた。

「ここ、そこ、あそこ……これ、それ、あれ。ここ、そこ、あそこ」

 呟きながら、ノートにペンを走らせる。もうすっかり理解したようだ。

 レストランを見ているうちに、おなかが空いてきてしまった。

 もう昼だ。宮殿に戻ろう。

 さすがにあのレストランは高級すぎて、あそこで食べたいという気は起きない。露店で何か安そうなものを買って食べてもいいんだろうけど、俺はお金を持っていないし、ナラカに買ってもらうのも気が引ける。宮殿の食堂で食べるのが一番だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る