第4話

 俺の部屋なのかナラカの部屋なのか不明だったこの部屋は、結局俺の部屋だった。

 ベッドの上であお向けになり、見慣れない天井を眺める。横を見れば本棚。並んでいる本の背表紙には、全く読めない文字が刻まれている。

 今日一日、いろいろありすぎた。まさか異世界に召喚されるとは……。

 でも、何のために召喚されたのかが未だにわからない。伝説の英雄の生まれ変わりにふさわしい使命が、きっとあるはずなのに。

 まさか、いたずら心からそっくりさんを召喚してみました、なんてことはないよな。あの緋色の大剣は、俺を主だと認めてくれたんだし。


 ナラカは家に帰ってしまった。身の回りの世話は宮殿のメイド達がしてくれるから問題ないけど、やっぱり言葉が通じないのは不便だ。かと言ってナラカとも通じるわけじゃないけど、日本語を教えようとする俺の気持ちを理解して覚えようとしてくれるナラカがいないのは、やっぱりちょっと心細い。

 今日はもう寝よう。

 心配したってどうにもならない。この世界で何をすればいいかなんて、どうせまだわからないんだ。明日のことは、明日考えればいい。



 チリンチリンというベルの音と、トントントンというノックの音で、目が覚めた。

 少しだけ開かれたドアの隙間から、オレンジ肌のメイドの子が顔を覗かせている。

「おはよう」

 俺のあいさつには答えず、メイドの子はそのままドアを閉めた。

 この子は、どうやら食事を知らせるためだけにこの部屋に来るようだ。昨日の夜も部屋に来たから何の用かと思ったら、食堂まで案内されてそのままどこかへ行ってしまったし。

 起きたばかりだからまだ食欲がわかないけど、せっかく来てくれたんだから食堂まで連れて行ってもらおう。もう場所は覚えてしまったから一人でも行けるけど、これがこの子に与えられた仕事なのであれば、断りにくい。というか、断ろうにも言葉が通じないから、断り方がわからないし。


 朝食を食べて部屋に戻ると、

「アケヤ!」

 ナラカが部屋で俺を待っていた。

「アケヤ! これ!」

 持っていたノートを、俺の顔の前で広げる。

「これは だいこん です!」

「え? ……う、うん」

 ノートには文が書いてあり、その横に小さく大根の絵が描いてある。他にも昨日教えた野菜や果物の絵が、文とセットで描かれていた。

 昨日教えたことを、ナラカはノートにまとめてきていたのだ。

 ただ、実際には何と書いてあるのか、全く読めない。露店の値札と同じ種類の文字が、ノートに並べられている。

「えーと……そうだ」

 テーブルに置いてある紙に、ひらがなで名前を書いた。

「あけや。あ・け・や」

 ペン先で一文字ずつ示しながら、発音を区切って読んだ。そしてナラカの名前も書き、

「ならか。な・ら・か」

 と、同じように読んだ。日本語はひらがな、カタカナ、漢字の三種類の文字を使い分けるかなり特殊な言語だ。慣れない人にとっては混乱の元だから、ここではひらがなだけで書くことにした。

 ナラカは、意外と冷静だ。

 ナラカが使う文字とは全然違う文字を書いたから、驚いたり不思議がったりするんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。

 俺が書いた文字の隣に、ナラカが俺の知らない文字を書き加える。この国の文字で「アケヤ」「ナラカ」と書いたのだろうということは、容易に想像できた。

 見たところ、ローマ字のように母音と子音を並べて書いているようだ。「Akeya」「Naraka」のaに当たる部分に、同じ文字が使われている。

 昨日のナラカは、日本語の発音はいくつあるのか、どんな種類があるのかということを知らないまま日本語を覚えていた。

 でも、それは知っておいたほうがいい。今教えることにしよう。俺にとっても、気になっていたことを知るいい機会だし。

 まず、「あ」から「ん」までの五十音を、少し間隔を開けて横書きで書いた。間隔を開けたのは、その部分にナラカが書き込めるようにしたかったから。横書きで書いたのは、ナラカが書く文字が横書きだからだ。

 名前を書いた時と同様、一文字ずつ指し示しながら発音する。ナラカは時折聞き返しながら、隙間に文字を書き入れていく。

 二枚目の紙に、濁音と半濁音、つまり「が・ざ・だ・ば・ぱ行」を書いた。三枚目は拗音、つまり小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」を使う発音だ。一枚目の紙の右に並べ、「か行」の延長上に「きゃ・きゅ・きょ」と書く。最後の「りょ」まで書いたら、次は四枚目だ。同様に「ぎゃ」から「ぴょ」までを書いていく。

 ナラカが「ぴょ」の下に文字を書き入れた。

「完成だー!」

 嬉しさから、思わず大きく両腕を高く突き上げた。これでナラカはほぼ全ての日本語の発音を把握した。と同時に、俺はこの国の文字を使って日本語をローマ字のように書くことができるようになった。


 ナラカが日本語の文字を覚えなければならない必要性は、実はそんなにないと思っている。

 もし日本国内で外国人が生活するのであれば、日本語の読み書きができないのは相当な不利だ。

 でも、この世界には日本語で書かれたものなんてない。俺やナラカが日本語を書いたところで、他の人に読ませる状況など生まれない。だったら、この国の文字で日本語を覚えてしまえばいい。実際、海外の日本語の授業では、まずローマ字で単語や文法を覚えて会話の練習をし、その後やっとひらがなを教え始めるという方式のところもあるくらいだ。

 とりあえずひらがなで教えていこうとは思うけど、もしナラカがひらがなを覚えるのに苦労するようなら、この国の文字で教えることにしようと思う。


 改めて、ナラカのノートを見る。いや、「読む」。

 完成したばかりの表と見比べながら読んでみると、確かにこの国の文字で「これは だいこん です」と書いてある。教えたことを、ナラカはちゃんと覚えてくれていた。日本語教師として、素直にうれしい。

 次は……、「これは きゅり です」だ。昨日八百屋の前で教えた時もそうだったけど、正しく認識できていない。

「ナラカ、『きゅり』じゃない。『きゅうり』だよ」

 俺は新しい紙に「きゅり」と書き、横線を重ねて書いて打ち消した。隣に「きゅうり」と書く。

「きゅり。きゅうり。きゅり。きゅうり」

 それぞれを指し示しながら、発音の違いをナラカに聞かせた。


 モーラがうまく取れない日本語学習者は珍しくない。よくあるのが、「ー」や「っ」を一拍の長さとして認識できないということだ。他の言語にはあまりない特徴なので、まだ日本語の感覚がつかない最初のうちは、うまく言えないのだ。


 ナラカは「きゅう」を一拍として捉えてしまっている。

「きゅり。きゅ、り。きゅ、り!」

 ナラカ自身はちゃんと言えていると思っているんだろうけど、やっぱりうまく言えない。文字上では認識できていても、それを正しい発音に結び付けられないということは、人によってはどうしてもあるのだ。

 何度も言ううちに、ちょっとムキになってきてしまっている。

 俺は一拍ごとに手を叩きながら「きゅーうーりー」と言ってみせた。三拍の単語であることを教えるためだ。

「きゅーうーりー」

「きゅーうーりー」

 ナラカも手を叩きながら一緒に「きゅーうーりー」と発音した。いい調子だ。

 俺は手を叩くのをやめ、叩くフリだけして「きゅーうーりー」と言った。ナラカもそれに続く。

 もう、大丈夫だろうか。

 俺はゆっくり目に「きゅうり です」と言った。普通に言った時と手を叩きながら言った時の、中間くらいの速さだ。

「きゅうり です」

 続いて言ったナラカの発音が、改善されている。

 今度は普通の速さで「きゅうり です」と言ってみせた。

「きゅうり です」

「いいね!」

 ちゃんと言えている。もう問題ない。

「これは きゅうり です」

「これは きゅうり です」

「言えた! いいね!」

 ナラカはにっこりと笑った。

「いいね!」

 ナラカの口から、教えていない「いいね」という言葉が出た。ナラカが正しく言えた時に俺が何度も「いいね」と言っていたので、覚えてしまったのだ。

 俺は再び、ナラカのノートをチェックし始めた。正しく書けている文には「いいね」と言い、間違っている部分があれば直した。ナラカも熱心に俺が言うことを聞いてくれた。


 伝説の英雄の生まれ変わりとして異世界に来たはずなのに、やっていることは結局、これまでと変わらず日本語教師だ。

 少なくとも、俺の役目が何なのかを知るまでは、この状況が続くことになりそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る