第2話

 日本語を教えるとはいっても、ナラカに日本語を覚える気がなければ教えることはできない。そもそもナラカは日本語の存在自体を知らない。俺が何をしようとしているのか、理解してくれるだろうか。

 でも、やってみるしかない。俺は日本語教師なんだ。やれる、と思わないでどうする。


 テーブルの上に、便箋ほどの大きさの紙の束と、ペンが置いてある。

 広い部屋の距離感に戸惑いつつテーブルまで歩いて行く。そして右手にペンを持ち、左手で指差した。

「これ」

 これ、と言った俺を、ナラカは小首をかしげて見ている。俺が日本語を教えようとしていることをナラカは知らないし、ただ不思議な行動をしているようにしか見えていないだろう。

 俺は「これ」と言いながらペンを指差す動作を繰り返した。ナラカは相変わらず不思議そうに俺を見ている。ペンが一体どうしたのか、とでも思っているだろうか。

 次に、俺は元いた場所に戻り、ナラカにペンを手渡した。そしてまたテーブルのそばに戻る。

 俺はナラカが持っているペンを指差した。

「それ」

 ナラカは自分が持っているペンを見て、また俺を見た。

 俺は「これ」の時と同じように、「それ」と言いながらペンを指差す動作を繰り返した。

 そして今度は、ナラカからペンを受け取り、テーブルの上に置く。

 俺はナラカの横に立ち、テーブルの上のペンを指差した。

「あれ」

 また何度も「あれ」と言いながら、テーブルの上のペンを指差す動作を繰り返した。


 わかって、くれただろうか。


 横にいるナラカの表情をうかがおうとすると、ちょうどナラカも俺の方を向いて、お互い目が合った。

「……アケヤ、>#]<a}s+*n=k]@:\」

「あー……やっぱり、わかってないか」

 一回で覚えさせようったって、やはり無理がある。そもそもナラカ自身、日本語を教えられているのだという自覚がないだろうし。

 もしこれが異世界でなく地球だったとしても、これだけではわからない可能性は十分に高い。ペンを使って説明したから、ペンに関係することを言っているのだと考えてしまうこともある。

 俺は続けて紙を一枚持って「これ」と指差した。そして、ペンの時と同様に「それ」「あれ」も繰り返す。さらに本棚から本を取り出し、本を使ってまた同じことを繰り返した。

 もしナラカが俺が言っていることを理解しようとしているなら、自分が使っている言語との照らし合わせを、頭の中でやっているはずだ。

 わけもわからずただ見ているだけなのか、それとも理解しようとしているのか。

 後者であることに期待しつつ、ベッドの枕を掴み、「これ」と指差した。

 その時。

「……これ」

 ついに。

 ナラカの口から、小さく「これ」という言葉が出た。

 俺は大きくうなずいた。

「うんうん、これ!」

「これ」

「これ!」

「これ!」

 やった! 伝わった!

 意味不明の言動が理解に変わったからか、ナラカの表情も晴れやかだ。

 俺はナラカに枕を手渡し、指差した。

「それ!」

「それ!」

 ナラカが復唱する。

 ナラカから受け取った枕を、ベッドに置く。

 ベッドから戻った俺は、ナラカの隣で指差した。

「あれ!」

「あれ!」

 ナラカの口から、「これ」「それ」「あれ」の三つの言葉が全て出た。

 ただ、きちんと意味を理解したかというと、まだ不安だ。

 俺はもう一度、ペンを手に取り、指差した。今度は何も言わない。ただ指差しただけだ。

「これ!」

 ナラカが元気よく答える。

 やっぱり。

 この場合は「それ」と答えるのが正しいのに。

 自信満々に答えたのに俺がいい反応をしなかったので、ナラカは不満げだ。

 間違えた理由は、ナラカが「これ」を「俺が持っているもの」と理解してしまっているからだ。

 これを直すには……。

 不意に、チリンチリン、というベルの音が聞こえてきた。続けて、トントントン、とドアをノックする音。

 ドアが少しだけ開き、メイドが体を覗かせた。着替えの時にいたメイドとは違う。肌の色はオレンジ、眼と髪の色は……どう言ったらいいんだ? えーと、モスグリーンか。モスグリーンの中でも薄い黄色っぽい色の眼と、濃い緑っぽい色の髪だ。背は低く、ナラカよりは年下に見える。さっき会った、あの少年王と同じくらいだろうか。

 ちょうどよかった。仕事中に申し訳ないけど、ちょっと手伝ってもらおう。

 手招きして、メイドの子に部屋の中に入るよう促す。メイドの子は緊張した感じで、ゆっくり部屋の中に入って来た。ドアを閉めたものの、そこからは動かない。まだドアの前に立ったままだ。

 俺はナラカの右手にペンを握らせ、背中に回ってナラカの右手を持った。そして左手でもナラカの左手を持ち、ペンを指差させた。

「これ」

 俺が「これ」と言っても、ナラカは復唱しない。「これ」であることが、理解できていないのだ。

 次に俺はメイドの子にペンを持たせた。そしてナラカの背中に戻り、メイドの子が持つペンを指差させる。

「それ」

 やはり、ナラカは復唱しない。

 続けて俺はペンをテーブルに置き、ナラカの隣に立った。

「あれ」

 俺がペンを指差すと、ナラカもペンを指差し「あれ」と言った。

「あれ」はさっきと同じ状況だし、問題なく言えている。あとは「これ」と「それ」だ。

 今度はメイドの子にペンを持たせた。ナラカの時と同様にメイドの子の背中からペンを持つ手を握り、反対側の手でペンを指差させた。

「これ」

 ナラカは黙ってこちらを見ている。何を言っていいのかわからず困っている顔つきではない。真剣に表情で、俺とメイドの子、そしてペンを見つめている。

 続けて俺はナラカにペンを持たせた。メイドの子の後ろに戻り、背中から手を持ってナラカが持つペンを指差させる。

「それ」

 俺が「それ」と言っても、やはりナラカは復唱しない。でもこの場合は「それ」と言わなくていい。ナラカにとっては「これ」だからだ。

 ナラカが、かすかにうなずいた。

 理解したのだろうか。

 今度は本をナラカに渡した。俺は離れた位置に立つ。

 俺は何も言わず、手に持った物を指差すジェスチャーだけをした。

 ナラカが、持っている本を指差す。

 続けて俺は口元で手を動かした。何かを言う、というジェスチャーだ。

「…………これ」

 声は小さかったけど、ナラカはちゃんと「これ」と言うことができた。

「うん、いいね!」

 と思わず出た俺の言葉は理解できていないだろうけど、俺が大きくうなずいたのを見て、ナラカも自信ありそうにうなずいた。

 本をメイドの子に渡す。

「それ!」

 俺が促すまでもなく、ナラカは本を指差して言った。

 これでもう大丈夫かな。

 俺が枕を持って指差すと、ナラカは「それ!」と指差しながら答える。枕をナラカに手渡すと、ナラカは枕を指差し「これ!」と言った。

 間違いない。

 ナラカは正しく「これ」「それ」「あれ」を理解している。

 トントントン、とドアをノックする音が聞こえた。

「ナラカ、+>%.>h$' (-b)*^&#!x>) o;`@+」

 ドアを開けて入ってきたのは、着替えの時にいた水色の肌のメイドだ。

 ナラカと二言三言話すと、オレンジ肌のメイドの子を連れて出て行ってしまった。

 そういえば、あの子は何か用事があったからここに来たと思うんだけど、何だったんだろう?

 ナラカが俺に話しかける。そして俺の手を握り、部屋の外へ歩き出した。

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