異世界で日本語が通じなかったので、教えることにした。

夕見すくな

異世界で日本語が通じなかったので、教えることにした。

第一章 召喚されたら、そこは

第1話

 ふと気がつくと、見知らぬ場所に立っていた。どこかの広い建物の中のようだ。

 褐色の肌に銀髪の男女が、何やら話しているのが見えた。いや、男が一方的に話しているだけのようだ。女はうなずきもせず、ただ黙って聞いている。小声で話しているからか、あるいはここから距離があるせいか。声を聞き取ることはできない。

 足元を見ると、石造りの床には俺を中心に魔法陣が広がっていた。文字なのか模様なのかもわからない線が、青白く光っている。

 どうして俺はこんなところにいるんだ?

 まだ覚めきっていない頭で、記憶を探る。

 確か……出勤途中、だったはずだ。

 そうだ。道を歩いていると、どこからか悲鳴が聞こえてきたんだった。とっさに周りを見ても、何もおかしなところはない。けど、ふと気配を感じて見上げてみると、ビルから落下した看板が俺の頭上に……。


 記憶は、そこまでしかない。


 どうやら俺は、異世界に召喚されてしまったようだ。この魔法陣は、あの褐色肌の男女が描いたのだろうか。着ている服もいかにも魔術師っぽいし、きっとそうなのだろう。

 その二人が、こちらに近寄ってくる。眼の色も髪と同じ銀だ。男女であるにも関わらず、顔は妙によく似ている。年齢は二十代くらいに見えるけど、ここは異世界のようだし、実際のところはわからない。

 歩幅もぴったりに並んで歩いて来た二人が、魔法陣に踏み入ってさらに俺に近づく。そして同時に、俺に話しかけてきた。


 それを聞いた俺は、こう返すしかなかった。


「いや、ごめん、何言ってんのか、全然わかんないんだけど」


 俺の耳に入ってきたのは、全く聞いたことがない言葉だったからだ。


 こういう時って、言葉が通じるものなんじゃないのか? 理屈なんか全部ぶっ飛ばして、異世界ではなぜか言葉が通じる、それが当たり前だ。異世界もののラノベはそれなりに読んできたし、アニメだって結構見てきた。でも言葉が通じない異世界ものなんて、俺は知らない。

 あー、わかった。これから言葉が通じるようになる魔法を俺にかけるんだな。そのパターンなら知っている。俺が戸惑ったのと同じように、この二人だって俺の言葉に戸惑っているだろうし。

 と、思ったんだけど。

 二人は全く表情を変えることなく、揃って俺の前に跪いた。

 魔法をかけてくれるんじゃ、ないのかよ。

 また聞いたことがない言葉が聞こえてきて、そちらへ振り向く。今度はあごひげの生えた老人が、ゆっくりと歩いて来た。

 俺は驚いて一瞬目を逸らし、また見直した。

 その老人の肌が、人間の肌としてはありえない色……緑色だったからだ。

 いくら異世界だからって、肌が緑色というのは、さすがに頭がすんなりとは受け入れない。

 驚く俺をよそに、老人が目の前で跪く二人に何かを言った。二人は魔法陣の外へ出て行く。そして今度は老人の後ろから、一人の女の子が歩いてきた。この女の子も、肌が緑だ。ただ、老人の肌が深い緑なのに対し、女の子の肌は黄緑色だ。眼と髪の色も、老人は黒眼に白髪だけど、女の子の眼は紫、髪の毛はピンクだ。

 老人が俺に、短く話しかける。

「えっと、だからその、何言ってんのかわかんないって」

 俺の言葉を聞いても、老人は驚きも戸惑いもしない。聞こえていないなんてことは、ないはずなんだけど。

 女の子の黄緑色の手が、俺の手を握った。そして笑顔で何かを言いながら、握った手を引いて歩き出した。

 つられて俺の足も動き、そのままついて行く。

 魔法陣の外に出て、床だけでなく壁も天井も石造りの通路を、女の子に連れられて進む。

 女の子は、十五歳前後の年齢に見える。ただ、黄緑色の肌が、俺の判断を鈍らせる。地球の白人や黒人でも、日本人の感覚からすると見た目の年齢と実年齢とにギャップを感じることがある。異世界の黄緑色の肌の人間なら、なおさらだ。でも、声の感じからはだいぶ若そうだし、たぶん予想は合っているだろう。

 そう、この女の子は歩いている間、ずっと楽しそうに俺に話しかけている。言葉が通じないことはわかっているはずなのに、全く気にしていないようだ。

 それにしても、全く聞き馴染みがない言語だ。

 俺の職業は日本語教師だ。日本語学校で外国人に日本語を教えるのが、俺の仕事だ。

 だから、日頃から様々な国の人達に接し、その国の言語に接する機会がある。授業中は日本語でも、授業が終われば同じ国の人同士が母語で会話するのはよくあることだ。俺はそれを耳にしているうちに、意味はわからなくても発音の特徴でそれが何語であるかはおおよそ見当がつくようになっていた。

 そんな俺でも、この女の子が話す言語には、まるで心当たりがない。英語やスペイン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語とは違う。中国語や韓国語、ベトナム語、インドネシア語とも違う。モンゴル語とも違うし、ネパール語とも違う。ペルシャ語やアラビア語の生徒を持ったことはないからはっきりとは言えないけど、聞いたこと自体はあるから、違うと推測できる。異世界なのだから、地球の言語と違うのは当たり前といえば当たり前ではあるけど、とにかく違う。

 そんな事を考えているうちに、建物の外に出た。すぐ隣に、また別の巨大な建物が建っている。壁は白く塗られていて、屋根は青い。建物の前には広い庭が広がっている。城……という感じではない。宮殿、だろうか。

 女の子が宮殿に入って行くので、俺も宮殿に入る。この宮殿もやはり石造りだ。振り向くと、さっきまでいた建物の外観が見えた。どうやら神殿だったようだ。

 宮殿の中を歩くにつれ、俺はさらに驚かされた。見かける人達の誰もが、色が違うのだ。眼の色や髪の色、そして肌の色が、赤だったり青だったり、黄色やオレンジ、紫、水色だったり、とにかくさまざまな色をしていた。緑色の肌を見て驚いていたのが、馬鹿みたいだ。きっとこの世界では、これが当たり前なのだろう。

 時折、俺の手を引く黄緑色の女の子に話しかけてくる人がいる。何を言っているのかは、相変わらずさっぱりわからない。でも、軽く話しかけてきていることは、なんとなくわかる。こんな立派な宮殿の中を普通に歩き、気さくに声をかけられるなんて、この子はどういう立場の人間なのだろうか。

 俺も話しかけられることがある。不思議なのは、その時の反応だ。俺は話しかけられても「いや、わからないから」と苦笑いをしながら返すことしかできないけど、その未知の言語であるはずの俺の返答を聞いた時の反応が、特に何もないのだ。多少は驚いたり戸惑ったりしてもいいはずなのに、本当に何もない。

 やっぱり聞こえていないんじゃないだろうかと、改めて不安になる。

 しばらく歩いた後、長い廊下の途中で女の子が立ち止まった。左側の壁には大きなドア。俺の手を握ったまま、女の子はドアを開けて部屋の中に入っていった。

 手を引かれて、俺も部屋の中に入る。そこは、俺が住んでいる……いや、住んで「いた」と言っていいのだろうか、とにかく日本の俺のアパートの部屋なんかより数倍広くて、豪華な部屋だった。大きなベッドに、木彫りの細工が施されたテーブルと椅子。壁にかけられている時計も、細かい木彫りの枠に収まっている。グラスが隙間なく収められている戸棚の上には、大きな絵皿と、赤い花が生けられた花瓶。本棚には革で装丁された本が並べられている。照明はシャンデリアだし、床には厚くて柔らかい絨毯が敷かれていた。

 この女の子の部屋だろうか?

 それとも、俺のための部屋? 一応俺はわざわざ召喚されて来た立場だから、これくらいの部屋をあてがわれてもおかしくはないのかもしれないけど……。

 部屋には女の子と同じ年頃のメイドが一人いて、その足元には大きな箱。メイドの肌の色は水色、眼の色は黄色、髪の色は赤っぽい紫だ。

 メイドが箱を開け、中身を取り出した。どうやら服のようだ。

 二人が俺に話しかける。そして、流れるような手つきで俺のスーツを脱がし、ワイシャツのボタンを外した。

「…………え? ちょ、ちょっと待て」

 突然すぎてとっさに反応できなかったけど、俺を着替えさせようとしていることくらいは、いくら言葉が通じなくてもさすがにわかった。

「待てって言ってるだろ! やめろって!」

 通じないとわかっていても、大声を出さずにはいられない。

 すると、黄緑色の指先が、俺の額をピシャリと打った。

 途端に体に力が入らなくなってしまった。ふらふらと立っているのがやっとの状態だ。俺の顔の前で、白い何かがひらひらと視界を邪魔している。どうやら怪しげな札を貼られてしまったようだ。俺、一体どうなってしまうんだ? 大丈夫なのか?

 抵抗しようがない俺は、なすがままにパンツ一枚にさせられ、強制的に新しい服を着せられてしまった。

 二人は姿見を運んできて、俺の前に置いた。顔に垂れ下がる札を剥がされ、鏡に映った自分の姿が目に入る。


 ……何だ?

 俺……、だよな?


 若い。

 この鏡に映っているのは、二十八歳の俺ではない。

 少なくとも十年は若返っている。高校生の頃の俺のようだ。

 ということは、二人は俺を同年代だと思っているのか?

 この黄緑色の女の子がずっと俺に親しげに話していたのも、そういうことなのだろうか。


 二人から話しかけられ、我に返る。

 この二人が見せたかったのは、若返った俺の体ではない。服だ。

 服の色は、赤やオレンジ、黄色がグラデーションになっている。ただでさえ袖口や裾がひらひらした感じなのに、各所から長い布が垂れ下がって揺れていて、ひらひら感を増幅させている。

 まるで炎だ。炎が揺らめいているようだ。

 ひょっとしたら、俺の名前が火野ひの朱也あけやという、いかにも炎をイメージしそうな名前であることと、関係しているのだろうか。

 いや、そもそもどうして俺がこの世界に来ることになったのかがわからない。仮にこの服が炎の化身の衣装だとして、名前のイメージがかぶるから召喚されたのだとして、だから何だって言うんだ? 俺に何を求めているんだ?

 確かめてみたくても、言葉がわからないのでは質問もできない。

 もどかしさを感じているうちに、黄緑色の女の子がまた俺の手を引き、どこかへ連れて行こうとする。俺はついて行くしかない。

 今度は目的地に着くまで時間はかからなかった。連れて来られたのは縦長の巨大な広間。奥に数段だけの階段があり、上った先で、少年が金で縁取られた椅子に座っている。

 ここは、謁見の間だ。

 そしてあの椅子は玉座であり、少年は王だ。

 右を見ると、壁にはその少年王の肖像画が掛けられている。肌の色は黒、と言っても地球の黒人のように茶色がかった黒ではない。青と黒を合わせたような色だ。眼の色は金、髪の色は薄い水色だ。黄緑色の女の子と比べると、少し年下だろうか。

 そして左の壁を見ると、さっき鏡で見た、若くなった俺の姿が描かれている。

 …………じゃ、ないだろ!

 よく考えろ! いや、よく考えなくたって当たり前だ。

 さっきこの世界に来たばっかりの、そしてついさっきこの服を着たばかりの俺の肖像画があるわけがないじゃないか。あの絵は昔からある絵のはずだ。王と同様に飾られているということは、国にとってそれほど重要な人物だということだ。例えばこの国を作った初代の王とか、世界を救った伝説の英雄とか、きっとそういう人物に違いない。

 そして、俺がこの世界に召喚された理由――それは、俺がこの人物にそっくりだからだ。きっと若返ったのも、この肖像画に合わせてのことだ。実際の二十八歳の俺なら、そこまでそっくりとは言い切れない。

 少年王が玉座から立ち上がり、俺に歩み寄る。目の前まで来た王が、肖像画と俺を見比べる。目は見開かれ、口はぽかんと開いたままだ。

 黄緑色の女の子が、王に話しかける。ハッと我に返った王が、軽く掲げた手をパンパンと二回打った。

 どこからともなく、衛兵が二人がかりで細長い箱を重そうに持ってきた。それを、俺の前に置く。ゴトリ、という低い音が、静かな空間に鳴った。

 衛兵が蓋を開ける。中に入っていたのは、剣だ。

 ただの剣ではない。ゲームの中でしか見たことがないような、いかにもファンタジー世界を思わせる大剣だ。金銀の装飾が施された、緋色の鞘。鍔に埋め込まれた宝石も緋色だ。柄も、銀色の中にうっすらと緋色の光が感じられる。

 剣を手に取るよう、王が促す。

 おそるおそる、柄に手をかけてみた。

 信じられないことに、片手ですんなりと持ち上げることができた。

 王や衛兵、黄緑色の女の子が一斉に驚く。

 俺も驚いた。こんな非現実的な大剣が、楽々持てるなんて。衛兵二人が重そうに運んでいたのだって、決して演技ではないだろうし。

 鞘から剣を抜いてみる。剣身もやはり緋色だ。振ってみると、簡単に振り回すことができた。剣なんて初めて持ったけど、想像以上に扱いやすい。

 少年王が興奮して俺に言葉を浴びせかける。もちろん、何を言っているのかはわからない。「わからない」と言い返すのも、そろそろ面倒くさくなってきた。俺はただ苦笑いだけを返した。

 想像するに、この剣はおそらくあの俺にそっくりな肖像画の人物が使っていた剣だ。そして、主と認められた者だけがこの剣を扱うことができる、といったところだろう。

 全然、自覚はないけど……俺は、あの肖像画の人物の生まれ変わりだったり、するのか?

 だとしたら、俺はこの先、一体何をすればいいんだ? 世界を滅ぼす魔王と戦ったり、しなければならないのか?

 とにかく、言葉が通じないのでは、何もわからない。

 剣を鞘に収めると、王がまた箱に入れるよう促した。俺が剣を箱に入れると、衛兵二人が重そうに持ち上げ、どこかに運んで行ってしまった。

 どうやら、今すぐ冒険の旅に出ろ、ということではないようだ。


 俺はまた、さっき着替えをした部屋に連れて来られた。

 部屋で待っていたメイドが、また別の服を用意している。

 今度は観念して、おとなしく着替えさせられることにした。いちいち札を貼られてしまったのでは敵わない。一人で着替えるから、と言葉が通じれば伝えられるけど、今はそれもできない。

 手際よく着替えさせられた俺は、炎の化身のような衣装から一転して、シンプルな格好になっていた。特にデザインに凝っているところはない。伝説の英雄の生まれ変わりとしてのお披露目が終わり、普段着に戻ったといったところか。

 メイドが部屋から出て行き、黄緑色の女の子だけが残った。

 女の子がまた、俺にいろいろ話しかける。通じないとわかっているはずなのに。それでも言っておきたいことがあるのか、それともただおしゃべりな性格なだけなのだろうか。

 とにかく、言葉が通じないのは、何とかしたい。これからの生活のためにも、俺がこの世界に来た理由を知るためにも。

 気づいたことが、一つある。

 宮殿に入ってからこの部屋に来るまで、女の子は何度か話しかけられていた。そしてメイドとも、言葉を交わしながら俺を着替えさせていた。

 その時、女の子が最初に言われていた共通の発音があった。呼びかけるように言われていたし、きっとそれがこの女の子の名前だ。あいさつの言葉という可能性もなくはないが、女の子自身はその発音の言葉を言っていなかったから、あいさつではないだろう。

 話し続ける女の子に手を差し出し、おそるおそる言ってみた。


「ナラカ?」


 女の子の話が、突然止まった。呼吸を忘れたかのような驚いた顔を、俺に見せている。

 そして、

「%=n@) s?-]n ナラカ ;ov*)m[*$;)]> %.b|:'af! ;<!i ナラカ :=c^-=p\#?」

 また俺に話し始めた。さっきまでよりもかなり早口だ。相変わらず何を言っているのかわからないけど、「ナラカ」と言っている部分だけは、なんとか聞き取れた。

 俺はもう一度、「ナラカ」と呼んでみた。

 女の子は人差し指を胸に当て、「ナラカ! ;%n$;)xk+ ナラカ!」と言いながらうなずいている。

 日本では自分を示すときに人差し指で鼻を指すけど、ボディランゲージは国や文化によってさまざまだ。ここでは人差し指を胸に当てるのが、自分を示すボディランゲージのようだ。そしてうなずく動作は、日本と同じだ。

 この黄緑色の女の子の名前はナラカ。間違いない。

 俺は自分の胸に人差し指を当てた。

「アケヤ」

「……アケヤ?」

「うん、アケヤ」

「アケヤ! [:]j>`@:' アケヤ k#u*!」

 どうやら伝わったようだ。

 俺はナラカを指差し、また「ナラカ」と呼んだ。

 ナラカも俺を指差し、また「アケヤ」と呼んだ。

 全く意思疎通ができない状態から、なんとか名前だけは知るところまで漕ぎ着けた。

 でもこれは、最初の一歩だ。

「ナラカ、聞いてくれ」

 名前以外は認識できないとわかっているけど、ここで言っておきたかった。


「俺はこれから、君に日本語を教える」

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