第5話 蜻蛉

ある日ある時、とある田舎町。そこには、町一番の虫取り少年がいた。名はヨシオ。彼は、小学校の授業が終われば家にランドセルを放り出して虫取り網と籠を持って、空が暗くなるまで虫取りをしては親に怒られていた。特に休みの日なんかは、1日じゅう虫取りに勤しむほどに。

今は、夏休み。ヨシオは、毎日のように虫取り網を片手に近所を駆け回っていた。田園には、緑の頭を重そうに抱えている青々とした稲が広がっている。


夏の田園の上を飛び回る者がいた。夏の太陽の光に煌めく、透明な4枚の羽。頭の殆どを占める大きな複眼。そして、細長いボディ。

蜻蛉が飛んでいた。シオカラトンボに、ギンヤンマ、オニヤンマなどの蜻蛉が飛び交っていた。

まさに蜻蛉天国、とはしゃぎたい気持ちを抑えてヨシオは虫取りに専念する。

ひとしきり捕り終わって、別の場所に移動しようとした刹那。一匹の蜻蛉が横切ったのだ。ヨシオははっとして振り替える。

墨で染まったような、艶やかな黒い羽。細い体は瑠璃色に輝いている。ハグロトンボだ。ハグロトンボの中では一際大きく、オニヤンマよりも大きな体をしていた。

ガチャでいうならSSRだ、とヨシオはSSR級のトンボを追いかける。


ふわりふわりと、蝶のように優雅に舞うトンボ。ヨシオは無我夢中で追いかける。トンボはかなり速く飛んでいた。高く飛んだかと思えば低く飛んだり、あちらこちらを飛び回って予測のつかない飛び方のせいか中々捕まらない。

畦道を駆け抜け、近くのバス停を通り過ぎて、走り回って息が苦しくなった。額から流れる汗を拭い、深呼吸をしてまたハグロトンボを探す。そんなヨシオを嘲笑うようにひらひらと舞うトンボは、子供のヨシオを煽って、逃げるというよりも追いかけっこを楽しんでいるように見えた。

ヨシオは深呼吸をして落ち着いて周りを見てみると、苔の生えた石鳥居があった。追い掛けているうちに、神社に来てしまったようだ。

石鳥居の下を通ると、ぐらり、と視界が歪んで倒れてしまった。


目を覚ますと、澄みきった青空が広がっている。倒れる前は日が沈みかけている4時頃。倒れる前よりも明るい空。今の時期の中で最も暑い1時から2時の間の空だった。

雲一つ無い青空を、様々な種類のトンボが飛ぶ。今いる地元でも見かけないようなトンボや、海外にしか存在しないはずのトンボさえも飛んでいる。

これは夢か、とヨシオは小麦色の頬をつねる。

つねったときの痛みに、これは夢じゃないと嬉しくなったヨシオは、トンボの写真を撮りまくる。

満足したヨシオは、ふと周りを見回す。広大な草原。空はずっと明るいままで熱い日射しも全く変わらない。だが、汗もかかなければ水も欲しくならない上に体力の限界がこない。さらにはあれだけ動きまわったはずなのに、空腹感や排泄欲求すらも湧かない。

なんだか不思議だと思っていたが、ヨシオは大して気にせずトンボを追い掛けて遊び呆けていた。


ヨシオは、そろそろ帰りたくなったので来た道を戻ろうとするが、遊んでいるうちに来た道が分からなくなってしまった。

そういえば、走り回ってもずっと景色は変わらない。ここはどこの町で、家はどこにあるんだ。

ヨシオは帰る場所も分からなくなってしまった。どうやって帰るのかも、家も。親の顔すらも頭に浮かばなくなってきて、いつもの日常すらもぼやけてしまった。

僕の名前は、ヨシオ。××、ヨシオ。上の名前も分からない。

忘れていくことが怖くて、ヨシオはただ泣き続けることしかできなかった。しばらくして落ち着くと、腰の辺りに透明な籠があった。そこには、黒い文字のようなものがあったが、×××は読めなかった。

×××× ×××

これは、なんてよむのだろう。ぼくはだれなんだろう。

×××は、雲一つ無い青空を眺め、草原に寝転んだ。


灯りの少ない町を満月が優しく照らす夜。その中の小さな一軒家で、誰かの帰りを待つ家庭があった。男性と女性はパジャマ姿で話をしていた。

「まったく、あの子ったら…あら、あの子って誰かしら?」

「誰かしらって、それはあんまりじゃないか?…ん?酔ってるのか思い出せなくなってきた」

「あなたも思い出だせないじゃない。もう1人、誰かいたはずなのよ。えっと、昆虫採集が好き…だった、ような」

「そうだったかなぁ。声も顔も名前も思い出せない。そもそも夫婦二人だけだった気がするよ」

「それは…………そうかもしれないわね」


この二人が帰りを待っていたのは、誰なんでしょうか。


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