3、タービュランス(後編)

 マッシモが医務室に帰ると、テーブルの上に一通の書類が届いていた。

 送り主は市内の総合病院、整形外科とスポーツ医療の診療科があり、様々なスポーツ選手が利用しているところだ。

 中を検め、それがライルのものであることを理解する。

 血液検査、心肺機能検査、内臓疾患の有無、それから筋肉組織や骨格についてのデータを確認し、途中で手が止まった。


「右上腕部、および肩と翼の関節を中心に、わずかな疼痛と痺れ、ですか」


 診察の日時はネグラスタGPの二日後。レントゲンとCTスキャンの結果は問題なしとされ、関節炎と打撲傷に対する、痛み止めと湿布の処方がされていた。

 それ以降の経過は良好とあり、薬も最初の二週間だけに留まっている。


「…………」


 嘘の臭いがした。

 ミーティングルームを出る時のライルの動きに、かすかな遅滞があった。右の肩口をかばうように。

 実のところ、ライルの不調は今に始まったことではない。

 去年の九月に行われたメルカルートGP、そのラストラップでコーナーポールへの接触事故を起こし、全治二か月の怪我を負っている。

 それまでのレースで稼いだポイントによって、ライルは三度目の個人優勝を果たし、シエル・エアリアルもチーム優勝を果たした。

 その後ライルはチームに復帰、四度目の個人優勝を狙うべく活動を再開している。


「――ああ、監督、今よろしいですか?」


 カルテを手に部屋を出ると、人気のない廊下を歩く。

 チューナーとして勤めて二十年、リトルウィング社の嘱託医として勤めていた期間を合わせれば三十年近く、ここで過ごしている。

 リトルウィング二代社長が、経営難で解散したサンジョルディのメンバーを引き継ぐ形で結成されたプライベートチーム。それがシエル・エアリアルのスタートラインだ。

 彼らはブレイズで勝つことより、ブレイズを楽しむことを優先していた。それを掲げたシエルというチームは、新興異端の存在として、ブレイズの最下位を独占しつづけた。

 それでも自分はチューナーとして、職務に忠実であろうとした。トレーニング理論について学び続け、プレイヤーの健康を管理し、『真剣な遊び』を楽しむ皆を支えてきた。


「監督、入りますよ」

「どうぞ」


 監督の部屋も、本来は会社の応接室だったものを、そのまま使っている。いかにもお手盛りな、突けばぼろの出る、でっち上げの塊。

 それがシエル・エアリアルという、ブレイズチーム『もどき』の実態だ。

  

「先生、ライルと連絡がつかないんだが、何か知らないか?」

「むしろ私が知りたいぐらいですよ。ところで、こちらがライルの健康診断書です」

「ああ、ようやく来たか」


 鷹揚に資料を受け取ると、彼は目ざとく懸念材料を拾い上げた。


「先生の見立ては?」

「やはり、ネグラスタの負傷は思わしくないようです。カルテ上は異常なしですが、本人の動きは精彩を欠いて見えます」

「……参ったな」


 彫の深い顔に、疲労のしわが寄る。眉間を揉み、椅子に背中を預けると、こちらにも座るようにソファを示した。

 勧めに従う前に、部屋の隅の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り、彼の席に置く。


「ドクターストップ、という判断かい?」

「なんとも言えません。いくらライルとは言え、レントゲンやCTの結果まで改ざんするとは思えませんから。日付も一週間前のものですし」

「だが、プレイヤーは繊細な生き物だ。ちいさな違和感が、試合に大きく影響する」


 マッシモはドアへ近づくと鍵をかけ、それから窓のブラインドをすべて下ろす。

 それから声を落として、監督に苦い一言を切り出した。


「コノリーが、引退したいと言ってきました」

「……いつだ?」

「先ほど、世間話の折に」


 彼の顔に動揺はなかった。あるのは強い悔悟と、やりきれなさだけだった。

 

「ネグラスタGPでは、彼に花を持たせてやりたかった。あの事故さえなければ、個人入賞もあっただろうな」

「彼と話は?」

「レース後、声はかけた、つもりだったが……届いていなければ無意味か」


 本当に、世の中はままならないものだ。

 監督はこのチームを良くするために、日々奮闘している。

 活動予算の増額やチームの福利厚生をフロントと交渉し、取り繕いばかりだったシエルを『本当のワークスチーム』に変えようとしていた。

 その契機になったのが、シエルに初優勝をもたらした最高のプレイヤー、ライル・ディオスの存在だ。

 だが、監督の下支えは気づかれることもなく、起爆剤であった存在は、チームを危うくする火薬庫になろうとしていた。


「シエルは、成長しつつある。始まりは趣味の延長だったかもしれん。だが、一度勝利の果実を口にした以上、そのままではいられない」

「ですが、急激な成長に痛みが伴うこともあります。そして、規模の拡充は組織にゆがみを生じさせる原因となる」


 監督は水を口に含み、もう一度カルテを手にした。

 中身を見ることはせず、片手に乗せたまま、重さをはかるように差し上げる。


「次のレース、ライルの出場は取りやめよう」

「今シーズンを捨てることになりますよ」

「マレーネを除いた残り二回、メルカルートとセファータを取りに行く。他チームの成績次第だが、総合三位の目は十分にあるはずだ」


 本心からの言葉ではないだろう、可能であればライルは外したくないと、その表情が語っている。それでも、彼はシエルというチームの監督であり、彼らの安全と生命を可能な限り守る立場だった。


「私が望むのはシエル・エアリアルというチームの成長であって、そのために誰かが犠牲になったたり、割を食うような状況などではない」

「問題は、ライルをどうなだめるか、ですね」

「いざとなれば、フロント側として強権を使わざるを得んだろう」


 普段の彼から思いもよらないほど、強い発言だ。

 以前、監督を務めていたチームでは『風向凧』などと揶揄され、癖の強いプレイヤーに振り回されていた印象があった。

 シエルに来てからも、基本的にプレイヤーの意見を尊重し、フライトプランも現場の案を承認することに徹してきていた。


「彼を失うわけにはいけない、ということですね」

「ライルのことだけじゃない。コノリーのような不満が出ること自体、あってはならないことだ」

「……失礼しました」


 どうやら、思う以上に自分も、ライルに対してナーバスになっていたらしい。腫物を触るように扱ってきたツケが、回っていたということだ。


「では、私が積極的に恨まれる側に回りましょう。最後の仕事、ということで」

「……ありがとう。君が居なかったら、私もここまでやれなかったよ」

「その言葉は、首尾よく仕事を果たした後に」


 次のミーティングが、今後のすべてを左右することになるだろう。

 ライルに対する姿勢も、チームの運営もだ。

 手にした水のボトルを監督のそれと軽く打ち合わせると、一息で飲み干した。



「すみません、監督さん。そろそろ施錠しますんで」


 警備の男に声を掛けられて、ようやく時間の感覚が戻っていた。

 モートは資料を片付け、荷物を纏めて部屋を出る。すでに廊下以外の灯りは落とされていて、人気は一切ない。

 その時、ポケットの中から振動を感じ、端末を取り出す。


『今、いいかな。モート』

「歩きながらでいいなら」

『そっちもまだオフィスだったか。ブレイズの監督もなかなか激務だな』

「海運業の社長ほどじゃないさ、ジル」


 そっとため息をつき、友人の名を呼ぶ。

 玄関を出ると、雨は止んでいたがどこか肌寒さを感じさせる夜気が立ち込めていた。

 そのまま裏手に回り、守衛に片手を上げて街へと歩き出す。


『例の件、ライルには言ってくれたか』

「音信不通は相変わらずか。悪いが、私がライルでも、同じように対応しただろう。いつまでも子離れできない、父親に対しては」

『お前も親になればわかるさ。息子が火の輪くぐりで命をすり減らすのを、黙って見ている立場になればな』

「……『俺』との仲も、音信不通にしたいのか、ジル?」


 こちらに対する最大級の侮辱に、言葉がついきつくなる。

 声の主はうめき声をあげ、しおらしく謝罪した。


「すまん。だが、分かるだろ? 去年のメルカルート以来、気が気じゃないんだ。ライルは俺のたった一人の息子で、亡くなった妻の子だ」

「それで、直接の上司である私から『こんなヤクザな仕事から足を洗い、親父さんの会社でまっとうに生きろ』と言わせたいわけだ」

「……あいつの才能が、親の欲目を置いても、ずば抜けてるのは分かる。だがブレイズという世界は、ヒトを食って生きる魔物だ」


 言わずもがなの指摘。そんなものは、前線に立っているこちらが、嫌というほどわかっている。だからこそ、苦渋の決断をしたというのに。


『『サラマンダー・ブレイズ』とはよくも名付けたものさ。アースで火を司ると言われた怪物の名。その舌でプレイヤーの命を舐めずっていく』

「そいつは世間の俗説だ。正確には、世界の根源を象徴化した四要素の一つ。ヒトの命そのものであり、活力をもたらす者だ」

『そんなことはどうでもいい。そもそも、今年の成績自体、去年よりもだいぶ落ちているじゃないか』


 めまいのするような話題の切り替えに、手の中の端末を投げ捨てそうになる。

 どうして社長業をやっている連中は、どいつここいつも、自分の欲しい結論以外を認めようとしないんだ。


「故障したプレイヤーの成績が落ちるのは、珍しいことじゃない。今シーズンが終了したら、本人と相談して調整に入るつもりだ」

『だが、それがうまくいかず、成績どころか名声まで落とす者もいる』

「……何が言いたい?」

『そうなる前に、ここで勇退を勧告するという手もあるだろう』


 モートは息を呑み、それから、笑いだした。

 落ちた成績を戻せと言われたことはあったし、うだつの上がらなくなったプレイヤーを解雇する役目も担ってきた。

 だが、先のある者を、身内の都合で辞めさせろと言われたのは、初めてだ。

 

『お、おい?』

「ああ、すまん。あまりに面白いジョークだったものでね。全く、親というモノはとんでもない気苦労を背負うんだな、さぞ身も細る思いだろう」

『なら、お前はどうなんだ。自分で飛びもしないくせに、部屋の中でふんぞり返って、老いも若きも死んでこいと、バカげたレースに蹴り出しやがって!』


 その声は深く、鈍い怒りに満ちていた。船長として気の荒い船員をまとめ上げた、荒っぽい言動が、剥き出しになる。


「私が飛べないのは厳然たる事実だが、軽々しく、彼らの命を扱っているつもりもない」

『それを信用できんから、こうして連絡してるんだろうが!』

「……信用できないという『根拠』は、なんだ?」

『ライルの奴、お前の所のチューナーと、折り合いが悪いそうだな』


 それはあまりにも当然の指摘だ。ゴシップ誌にも書かれるほどに、ライルの行動はブレイズファンの間で周知されている。

 すべてを否定することはできない。それでも一切を肯定する気もなかった。


「すり合わせがうまくいっていないのは確かだ。だが、うちのチューナーに問題はない」

『プレイヤーと信頼を結べない奴が?』

「お宅のわがまま息子以外は、極めて良好な関係を築いていますよ。ジリフィギ・ディオスさん」

『…………っ』


 ライルの性格に問題があるのは知っている。電話口の男が、甘やかしすぎた幼い頃をいろいろ語って聞かせてくれたからだ。

 深呼吸すると、ジルは言葉を和らげて、攻めるラインを変えた。


『であればこそ、そのバカ息子を引き取らせてくれ。才能あるプレイヤーが、わがまま放題にチームを乱すのも、よくある話だろう』

「確かにライルには手を焼いている。それでも、あの才能を今、手放す気はない」

『交渉は決裂か』

「後は当人同士で話しあうことだ。私はチームの監督であって、こじれた親子関係を修復するカウンセラーじゃない」


 相手のため息といら立ちを聞きながし、夜の道を歩き出す。時刻はだいぶ更けて、大通りのめぼしい店はシャッターを下ろしていた。

 だいぶ長い煩悶の後、子の父親はうめくように問いかけてきた。


『ライルは、これからも飛べるのか』

「本人の意思があれば」

『次はマレーネか』


 それは、ジルが放った、致命の一撃だった。

 動揺が脳を揺らし、それでも心境を悟られないよう言葉を継ぐ。


「今度は、私を警察に突き出す手か? 確かにレース情報の漏洩は、チーム存続を揺るがすスキャンダルになるだろうが」

『す……すまん。そんなつもりじゃ、なかったんだ』

「いいさ。こちらもいろいろ失礼した。これで手打ちにしよう」


 型どおりの挨拶を終えて、通話を切る。

 ライルの出場停止を決めた途端、ライルを引退させろという連絡がくるとは。

 外野の人間に難癖付けられるのは慣れているが、それが自分の昔の友人で、面倒を見ているプレイヤーの親というのは、想像以上に負担だ。

 なにより電話口の一言が、こちらの柔らかい部分を、確実に貫いていた。


『自分で飛びもしないくせに、部屋の中でふんぞり返って』


 ブレイズの監督にドラゴンを据えるチームが多いのは、そういう心無い一言を封じる意味が大きい。

 もちろん、ヒューの監督が劣るということは全くなく、飛べないからこそ、客観的にレースを推し量れるのだとする意見もある。

 自分はどうだろうか。

 少なくとも、稀代の名将ではないのは自覚している。


「勝てばプレイヤーの名誉、負ければ監督の恥か」


 それは残酷な真理だ。

 ブレイズはチームプレイと言われるが、それは飛んでいるプレイヤーに限られたものであり、監督がその勝利に取りざたされることは少ない。

 むしろ、選手を潰し良い芽を摘み取る厄介者と、ファンにそしられる。監督の善し悪しが語られるのは、交代したときか、引退したときくらいか。


「まあ、どうでもいいさ」


 自分は望んでこの世界に来た。空を飛ぶドラゴンに憧れ、ブレイズに熱狂し、その舞台に携わるために。


『好きなんです、ブレイズが! だからわたしも一緒に、チームの一員として、働きたいんです!』


 面接の時、ミドリはそう言っていた。

 そのまっすぐな一言に、決して明かす気のなかった秘密を、告げてしまった。

 サラマンダー・ブレイズに関わりたいと思いながら、既得権益と慣習の分厚い壁に弾かれた人々を、招き入れたい。

 そして、もっといい未来を目指そうとした思いを。

 シュツルム・ドラッツェでは無理だった。

 だが、まだ染まり切っていない、シエル・エアリアルというチームでなら。


「腹が減ったな」


 素直な感慨が口を突く。

 この時間では、ファーストフードくらいしか開いている店はないだろう。

 プレイヤーの健康管理に心を砕きながら、自分はまともな食事の時間さえとることができないのが現実だ。

 それでも、構わない。

 自分で選んで、目標と掲げた世界に、いられるのだから。

 己の願いを心に掲げ、モートはひとり、駅までの道をたどった。


 

 ライルが部屋に戻った時、時刻は十二時を回っていた。

 パイプフレームのベッドとガラスの座卓、ドリンクを入れておく冷蔵庫、片隅に置かれたパソコンのデスクだけの、殺風景な調度類。

 南向きの窓からは、ビルの立ち並ぶ夜景が見える。

 うっすらと酒臭い息を吐き、懐の端末が光っているのに気づく。外部からの着信、その相手の番号を見て、即座に履歴から消去した。

 父親が苦手になったのは、いつからだろうか。

 反抗期を示せるほどに、父親のジルと付き合った記憶はない。尊敬の対象だった船長時代でさえ、誕生日と二週間程度の休暇でしか、顔を合わせなかった。

 自分が十三の時、勤めていた会社の社長になり、父親は海の暮らしを辞めた。

 家から会社に通勤するようになり、顔を合わせる機会も増えたが、嬉しさより船長でなくなった父に、落胆したのを覚えている。


『……そろそろ、ブレイズはやめにしないか』


 三年目のシーズンオフ、久しぶりに顔を合わせた父親は、快気祝いという名目で呼びつけたレストランで、そんな不味い会話を始めた。


『確かにお前は優秀で、運に恵まれているかもしれん。だが、次も同じとは限らない』


 そういう話は、先輩連中から聞いていた。

 ブレイズの世界に入った奴のまわりには、二種類の『お邪魔虫』湧くようになると。

 一つ目は、急に知り合い面で距離を詰めてくる、厚かまし屋。

 もう一つは、ブレイズの負の面を極端に恐れる、お節介焼き。


『死んだ母さんに頼まれたんだ。お前を丈夫で、長生きできるようにしてくれと』


 ライルの母親は、一歳の頃に病死している。

 寂しいとも悲しいとも思わなかったが、父親の恩着せがましい一言が、彼女に対するうっすらとした嫌悪を貼り付けたのは、残念だと思っていた。

 結局、その日は互いに意見を翻すこともなく、致命的な決裂を埋め合わせないまま、今に至っている。


『観測員の仕事は無くなってしまったが、お前がうちに来てくれるなら、私も現場仕事に戻ろうと思っている。だから』


 それが、こちらの夢の埋め合わせになると言うように、父親はライルを見ていた。

 自分の船に乗ることをせがんでいた、子供の頃の姿を。


「アンタはいつだって、ズレてんだよ。父さん」


 忌々しさと共に、座卓に薬の袋を放り出す。

 二週間分の痛み止め。都心から十キロほど離れた、小さな町医者から手に入れた。

 曰く、以前の古傷が痛みだしたが大病院は予約がいるし、とりあえずの鎮痛薬を出してもらえないだろうか。

 幸い、医者はブレイズに興味はなかったらしく、こちらを見ても何も言わなかった。

 午後の半日、自然の風に乗ってみたが、痛みはほとんどなかった。微妙な熱としこりのようなものはあったが、あの程度なら問題ないようだ。

 この薬もあくまで保険、ということにしておけるだろう。

 それから、今更チームに顔を出す気にもなれず、適当なレストランで食事した後、チームのメンバーが行きそうもない、場末のバーで時間を潰した。

 そう言えば、打ち上げ以外で酒を飲むなんて、初めてだった気がする。


「ああ、くそ……っ」


 慣れないアルコールの刺激が、神経を鈍麻していく。奇妙にもやがかかった世界、胸の中に湧き出した空虚な思いが、手の中の端末をでたらめに操作させる。

 連絡先は極めて実用的で、見たくもない名前の羅列だ。これを一つ一つ削り落としていったら、日々のストレスも一緒に消えてくれるだろうか。

 地層のように積み重なったアドレスを、古い登録順へとさかのぼっていく。

 そのもっとも深い場所に、妙な異物があるのを見つけた。

 父親のすぐ上、登録者名を酒にボケた口で、何度も反芻する。


「グレイア・サイラス……グレイ……ああ、アイツか!」


 地元を出る時、連絡先を交換しておいた友人。こちらが忙しくなり、すぐに音信不通になってしまったが、まだ通じるだろうか。

 何気なく、コールを掛ける。

 すでに深夜だが繋がらなくてもいいし、相手が面倒そうならすぐに切ればいい。


『……んっ、あぁ……誰だぁ、明日ぁ、早出なんだよ、勘弁してくれぇ』

「あ、悪かったな。それじゃおやすみ」

『え……ちょ、ちょっと待て!? ライルか!?』


 どうやらあちらは寝ていたらしいが、すぐに声の調子から眠気を消し飛ばした。


『どうしたんだよ。今、シーズン中じゃないか』

「シーズン中だからって、電話ぐらい掛けるさ。こっちにその気があれば」

『なにかあったのか?』


 当然こういう反応になるのは分かっている。とはいえ、こいつならそんなに面倒な事にはならないだろう。

 当たり障りのないように、現状を語っていく。


「次のレースで巻き返すために、苦心してるところさ。うちの連中、未だに素人気質が抜けなくてな。その癖、痛くもない腹を探ってきて、うんざりだ」

『だからって、ネグラスタのアレはちょっと派手過ぎだぞ。誰だって心配するさ』

「そういうお前からは、見舞いの一つも来なかったな?」

『ハイスクールの頃から、お前はそういうのが大嫌いだったろ』


 安堵と嬉しさに、深く息を吐く。

 こういう気遣いができる奴が欲しかったのだと、今更ながらに思い知った。


『だいぶ疲れてるみたいだな』

「酔ってるだけさ。気晴らしに軽く」

『……何かあったら言ってくれ。俺には聞くぐらいしかできないけど』

「それで十分だよ。余計な一言を足さない奴は、貴重なんだ」


 二人は静かに笑い、その後に訪れたわずかな沈黙を、愛おしんだ。


「起こして悪かったな。ありがとう、グレイ」

『シーズンが終わったら飯でも食おう。またな、ライル』


 通話を終えてからも、気持ちは穏やかで満ち足りていた。

 ほんの少し前は顔さえ思い出さなかったのに、話し始めた途端に昔のように話し、笑い合えていた。

 そういえば、仕事以外の会話をしたのも久しぶりだ。

 そのままベッドにもぐりこむと、ライルは目を閉じた。瞼の裏に、友人と過ごした日のことを浮かべながら。


「…………っ」


 甘い眠りを、何かが破った。

 顔を上げて窓を見る。いつの間にか朝日が昇っていて、目を刺激した。

 背中の右側が熱く感じた。翼の付け根から伝わる、鈍くて不規則な脈動。

 昨日の午後よりも、強めの痛みがあった。

 ライルは立ち上がり、薬を手に洗面所に入る。湿布は使えない、この薬だけでどうにかなることを祈るしかない。

 食後の服用とあったが、食えるものなどあるはずもなかった。

 多少、胃が荒れるだけだ、そう言い聞かせ錠剤を口にする。

 そのままシャワールームに入り、冷たい水で翼の付け根を洗う。

 この痛みなら知っている、安静にしていれば、三日ぐらいで違和感も取れるはずだ。


「気づかれないように、しないとな」


 幸い、マレーネへの移動は明後日だ。練習メニューはクールダウンに入るし、翼を刺激しない運動を中心にすればいい。

 大丈夫、いつも通りに対処できる。


「こんなことで、立ち止まっていられるか」


 船の上で飛んだ時から、ずっと不自由さを感じていた。

 子供の頃は、決められた場所でしか飛ぶことができなかった。

 ハイスクールでは、煩わしい日常が空を遠ざけた。

 養成所ではバカの群れに、行く手を遮られた。

 そしてようやく、広い空の下へ出られたと思った時、そいつが目の前に立っていた。


「ジョシュア・マイクロフト」


 初めてコースを飛んだ時、ライルは万能を感じていた。誰も俺に追いつけない、このフィールドは俺のものだと。

 最高のライン、生涯でも屈指の飛翔だった。

 だがそれは、ジョシュア・マイクロフトの路だった。

 俺が見つけたと思った宝物は、とっくの昔に他人の手に奪われていた。

 ジョシュアのヘアラインは驚くほどに精密で、高度に計算された工芸品だった。他の誰にも真似ができない、公式にも採用されない、ただ一竜(ひとり)のための空路。


「アンタを超えて、ようやくなんだ」


 自分を塞ぐすべてを吹き飛ばし、誰にも追いつけない世界へ到達する。

 大空を飛ぶ渡り鳥のように。

 そのためなら、命だって惜しくはない。

 部屋の隅でアラームが鳴った。そろそろ集合の時間だ、連中に気取られないようにしないとな。

 トレーニング用のジャージに着替え、部屋を出る。

 痛み止めの錠剤を、内ポケットに忍ばせて。

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