2、タービュランス(前編)

「クソライルが! マジで死ね!」


 目の前のランチプレートに、クラッドは思いっきり罵声を吐きかけた。右手に座ったミドリは肩をすくめ、サンドイッチのセットをもぐもぐと食べていく。

 向かいに座った緑の同期生は、パスタの皿を目の前にして、どこか上の空の顔だ。


「なんだあのバカ、テメエの調子悪いのなんざ、前から知ってるっつの!」

「前って程でもないよね? はっきり気づいたの、ネグラスタの後なんでしょ?」

「確証持ったのはな。でも、飛びがおかしかったのは、結構前からだぜ」

「ク、クラッド、あんまりそういう事、言わない方が、いいかなって」


 弱弱しい笑みを浮かべたコノリーが、周囲を指さす。

 自分たちの所属するシエル・エアリアルは、チーム専用の施設というものをほとんど所有していない。スポンサーである『リトルウィング社』の社屋を一部間借りしており、この食堂も社員食堂を利用させてもらっていた。

 少し離れたテーブルに座った社員たちが、好奇の視線をこちらに飛ばしてくる。

 クラッドは声をひそめ、それでも愚痴を吐くのは止めなかった。


「だいたいコノリー、お前もなんなんだよ」

「な、なにが?」

「『ライルなら大丈夫ですよー』とか、アイツに媚び売るなっての!」

「こ、媚って、そんな、つもりじゃ」

「アイツのせいで一番割食ってるの、お前じゃねーか。悔しくねえのかよ」


 コノリーは、ブレイズプレイヤーの中でもかなり小柄な方だ。

 こういう体格のプレイヤーは『スワロー』と呼ばれ、コーナリング中心になるコースや悪天候中で真価を発揮することが多い。

 実際、この前のネグラスタでも、レース中盤で順位の押し上げに貢献したし、うまくいけばこいつがポールを取れたかもしれない。

 それを台無しにしたのが、ほかならぬライルだ。


「『イーグル』のオレが言うなって話だけどよ、ネグラスタサーキットはイーグルを一、スワローを二でフロックを組むのが基本だろ? でも、うちはスワローがお前だけで」

「いいんだよ、別に。スワローのプレイヤーが増えたって、僕なんか、出る幕は」

「わたしも、コノリーはもうちょっと、活躍できていいと思う」


 持ってきていたタブレットをテーブルに置くと、ミドリは慣れた調子でネグラスタのデータと飛行ラインを表示していく。

 そこには、前回の事故で使っていた『ヘアライン』も同時に表示されていた。


「『イーグル』以上のプレイヤーだと、素直な直線が少ないネグラスタは、どうしても大回りのヘアラインを使わないといけない。でも、先行した『スワロー』でペースを握れるようにすれば、レース展開に幅ができるし」

「別にブレイズは『イーグル』や『アルバトロス』だけのもんじゃねえ。カルドリ―、イズモ、ネグラスタ、前半期のコースはみんな『スワロー』が要で」

「いいんだ!」


 その絶叫に、一番驚いていたのは、コノリーだったろう。

 ライトグリーンの顔を暗く沈ませて、彼はトレーを手に席を去っていく。


「……あー、クソ。ライルのクソ。ホントクソが」

「わたしたちも、色々言いすぎちゃった、かも」

「いや、ミドリは悪くねえ。オレも悪くねえ。あのクソライルが、全部悪いんだ」


 目の前のミートローフをザクザクとフォークで突き刺し、ボロボロに崩れたものを口に運ぶ。パサついた肉の味は、今の気分にしっくりくる。

 どうしてこの頃は、ずっとこんな調子なんだ。


「相席、かまわないか?」

「……いっすよ」

「お疲れ様です、リーダー!」


 四角四面の仏頂面が、前の席に着く。

 手早く昼食を片付けると、クラッドは入れ替わるようにテーブルを離れた。


「少し付き合ってくれ」

「説教なら聞きたくねえっすよ。ライルに謝れってんならお門違いだ。飯も食ったんで居る意味もねえし」

「五分でいい」


 大げさな身振りで座りなおすと、頬杖をついて相手を睨む。こちらの様子を目にしながらスープをすすると、白いドラゴンは意外なことを口にした。


「コノリーは一緒じゃないのか」

「さっき出てきましたよ……ちょっと、つまらない事言っちまったから。謝っときます」

「つまらなくはないんですけど、今の彼、思う以上にナーバスになってるみたいで」

「ネグラスタか」


 居住まいをただすと、クラッドはリーダーの顔をまじまじと見つめた。

 いつも通り、表情の乏しいマズルには、少しだけ気遣いのようなものを感じさせた。


「ライルの不調は、思う以上に深刻だ。コノリーにまで影響が出ては、レースどころじゃなくなる」

「今更っしょ。アンタらがライルの太鼓持ちなんてやってるから、アイツまでおかしくなっちまったんだ」

「太鼓持ちなんて言葉は使うな。あくまで監督の方針として、勝つための方法を取っているだけだ」

「監督の方針?」


 明確な怒りを顔に張り付けて、クラッドは叩きつけるように不満を口にした。


「方針なんて、そんなもんあるんすか。ミーティングにも顔を出さねえで、フロントの連中とよろしくやってっから、チームがガタついてるんじゃないのかよ?」

「フロントやスポンサーへの働き掛けも、重要な仕事だ。例えば、来月以降は専用の食堂で食事が取れるようになる」

「マジで!? あー……そりゃあ、悪いことは、ねえかな、うん」

「それとねクラッド。わたしがここで仕事できるのも、監督のおかげなのよ?」


 明らかな不機嫌顔で、ミドリはこちらのマズルを軽く突いた。


「業界の枠にとらわれない、様々な人材の登用。ただでさえブレイズは、新規のヒトが参加しにくいでしょ? そういうのを変えていきたいんだって」

「そんなこと考えてたんかよ。リーダー?」

「いや、俺も初めて聞いた」

「そうなんだ。それじゃ、これはあくまでこの場のオフレコってことで」


 空になったトレーを眺めながら、新たに知ったことを反芻する。

 監督は思ったより、いろいろ考えているらしい。ミドリの採用はもちろんのこと、ここの食堂は味がいまいちで量も並みだから、改善してくれるのはありがたい。

 とはいえ、そういう裏方仕事でどうにかなるほど、安い状況とは思えなかった。


「なあ、フロックリーダー」

「なんだ」

「次のレース、ライル抜きでやれねえかな」


 ペグラは怒らなかった。こちらの発言を否定もせず、片付いていない食事を前に、どう答えればいいか、考えていた。

 それでも出てきた発言は、予想通りでしかなかった。


「どんなヘアラインを使うにせよ、勝ちたければライル抜きは考えられない」

「オレじゃアイツの代わりにならねえか?」

「……俺が、お前たちの代わりになれないからだ」


 シエルのプレイヤーでも屈指の長身で、うちのチーム唯一の『アルバトロス』は、まるで日替わりランチのメニューでも口にするように、ひどい自虐を口にした。


「ミドリ、お前は知ってるだろう。マレーネの平均ラップタイム、クラッドやライルに比べて、俺は一分弱ほど遅いな?」

「……はい、その通りです」

「安定性と加速度が売りの『アルバトロス』としては、俺は欠陥品だ。年齢的にも、すでに引退が見えている」


 ああ、そう言えば、オレはコイツのこういうところが、嫌いなんだった。

 まるで自分の実力を全部わかり切って、その先などないようにふるまう態度が。


「アンタだって、まだ出来ることがあるだろ! そんな腑抜けた」

「腑抜けでいい。お前たちの翼を温存できるからな」

「なんなんだよそりゃ! お行儀のいいリーダーも大概にしやがれ!」

「そうだ。俺はシエルのフロックリーダー。その責任を全うするために、ここにいる」


 まるで壁と話しているような気分だ。コイツはいつもこうやって、見えているはずのラインに飛び込まない。

 危険を冒さず、過ちを避けて、新しいものを見つけることを拒絶する。


「もういい。好きにしてくれ」


 今度こそ、愛想が尽きた。

 無言のままのリーダーを置き去りにして、席を立つ。

 いったい俺は、なんのためにここにいるんだ。

 純粋にブレイズのプレイヤーとして、レースに集中したいだけなのに。

 それもこれも、全部アイツのせいだ。


「クソッタレ」


 晴れることのない気持ちと愚痴を、クラッドはトレーと一緒に返却口へ押し込んだ。



 社屋の通用口を抜けると、ペグラの体を夏が包み込んだ。

 ネグラスタ地方は緯度が高いせいか、夏と言っても焙るような気温にはならない。むしろ、冬から春にかけた陰鬱な気候を払うような日差しを、心から愛していた。

 会社裏手にある中庭、その少し離れた場所に、古ぼけたオフィスビルが建っている。

 それが、シエル・エアリアルの本拠地だった。


「気温二十六度、湿度二十三パーセント、今日のネグラスタもいい天気ですね」

「同じぐらいの温度でも、次のマレーネは湿度が高いからか、堪えるな」

「体調管理には気を付けないと、ですね」


 本部への道は芝生と広葉樹で舗装され、強い日差しから道行く者を守っていた。かたわらを歩くミドリは、先ほどの会話などなかったように明るく振舞っている。

 そういえば、彼女について分かったことが一つある。


「君の採用も、監督の仕事とは知らなかった」

「あ、はい。さっきのアレは、内々に言われたことなので……黙っててすみません」

「気にしないでくれ。俺たちに話さなかったのも、考えあってのことだろう」


 シエル・エアリアルは、元々小規模なレースチームだ。

 スポンサーであるリトルウィング社は、子供向けの玩具や飛行補助具の中堅メーカーであり、資本力も大手の会社には劣る。

 監督を始めとして、フロント側の人間の経営努力によって保たれている部分も大きい。


「うちはワークスとプライベートの折衷のようなチームだ。実のところ、君のことも」

「お金が安く済むという理由で雇った、って思ってたんですね?」

「すまない」

「わたしみたいな素人はお呼びじゃない。リーダーもライルさんと同じ見解ですか?」

「それは」


 違うとはいえない。

 彼女が新しいプランナーだと聞いた時は、正直落胆した。気象予報士からブレイスのフライトプランナーへの転向。明らかにこちらの世界を『舐めている』か、よほど資金難に陥ったかと。


「はじめはそうだった。だが、今は違う。君のことは認めている」

「今のところ、成果は何も上がってませんけどね」

「いや」


 これを聞くのは、いい気分ではない。

 だが、彼女の資質を確かめるには、ちょうどいい問題だ。


「俺をスターティングメンバーに据え続けて、来期以降の優勝の目はあるか?」

「……それは」

「遠慮はいらない。君はライルに意見してみせた。なら、俺にもできるはずだ」


 彼女は黒髪を揺らして夏空を見上げ、それから切り出した。


「それじゃ……リーダーのラップタイムを例にとって、いくつか質問させてください」


 こういう時、ドラゴン特有のいかつい顔に感謝する。

 口では平静を取り繕えても、表情に出てしまえば、すべて台無しだからだ。


「過去の戦績を見せていただきましたが、全体的に抑えた調子で飛行してますね」

「ヘアラインを崩さず、ペースを乱さない。そうすることで、後に続くプレイヤーの心理的な負担を減らし、チーム全体の動きが安定するからな」

「確かに、そういうゲームメイクがあるのは分かります。でも今年、シーズン最初のシームルグGP。三周目での消極的な飛行は、どうでしょうか」


 彼女の疑問は、当然と言えた。

 シーズン開始を告げるシームルググランプリは、その年のチームを占うレースとして注目される。普段は堅実なプレイをする者ですら、あそこではそういうスタイルをかなぐり捨てて、良い成績を出そうと躍起になるものだ。


「直前のコーナーで後続を引きはがし、俺は最終スポットへ真っ先に飛び込んだ。その余裕を使って高度を稼ぎ、速度を上げれば、タイムは数十秒、いや一分は縮んだだろうな」

「それでも、あなたは普段通りにスポットをパスし、ラップタイムを狂わせなかった」

「ヒトによっては、そこでタイムを稼げというだろうが、予想外の動きをして、後続のペースを乱すのも問題だろう」

「だとすればリーダー。あなたがチームに貢献できることは……ありません」


 まったく、俺はリーダー失格だ。

 年下の新参プランナーに、プレイヤーとしての死刑宣告を読み上げさせるとは。それでも、これは必要なことだ。


「うちは規模も小さくて、選手の層も厚いとは言えません。だからこそ、勝ちに行けるタイミングで、そういう消極を取るのであれば」

「ありがとう。君の分析は俺の見解と一致する。今後のシエルに、俺のようなプレイヤーは、枷になるだけだ」


 淡々と語り、ペグラは自分の翼を見た。

 くたびれかけてはいるが、目立った傷もないそれは、自分の誇りであり、臆病者の証でもあった。


「俺が抜ければ必然的に、チームは運用を変えざるを得ない。コノリーの立場も、今とは違うものになるだろう」

「リーダーは、それでいいんですか?」

「良いも悪いもない。故障なく飛び続け、チームの決定的な崩壊を防いだ。それは『フライセーフ』の俺にしか、できなかったことだ」


 デビューしてから十一年。

 自制心と恵まれた幸運によって、ペグラジェ・ロクデアは軽い接触以外、一切の事故を起こしてこなかった。

 その驚くべき成果は一時期ブレイズ界でも話題になり、ライルの活躍と共に注目を浴びたこともある。

 だがその影で、小さくない嘲弄も、その翼に背負ってきた。


『優良飛行者(フライセーフ)』。


 事故は起こさないが、大した成績も示さない。そんなプレイヤーに与えられた、侮蔑にも等しい二つ名だ。


「わたし、その呼び方、嫌いです。そんなことを言うヒト、みんな謝らせてやりたい」

「俺だってそう思う。だが、そういう奴らに、俺のことはマネできない。違うか?」

「……はい」


 これでいい、と思う気持ちがある。

 同時に、そうじゃない、という葛藤もある。


『お行儀のいいリーダーも大概にしやがれ!』


 クラッドの言葉に、もう一つ閃く記憶。

 それはチームに入りたてのライルが、何気なく発した一言。


『あんた、手抜いてないか? もっと攻めにいけるくせに』


 俺はその時、何と返しただろう。

 いずれにせよ、ライルはそれ以降、俺の飛行に触れてこなくなった。

 見切りをつけられた、プレイヤーとして。だからこそ、俺はプレイヤーではなく、チームのリーダーとして徹することにした。

 二流のプレイヤーでも、一流のリーダーになれると信じて。


「ペグラさん!」

「あ……」


 物思いに囚われて、いつの間にか立ち尽くしていた。

 不安そうなミドリが、見上げるようにこちらを覗きこむ。何とか笑顔らしいものを作り上げると、ペグラは歩き出した。


「君はこのまま『ガイウス・ヘアライン』でプランを構築してくれ。次も、ライルとクラッドのツートップでいく。中速安定のヘアラインでも、二人の加速性能があれば、十分に戦えるはずだ」

「他のチームが『タチカゼ』を選んできたら?」

「その場合はラインが混み合って、結局は足の引っ張り合いになる。先行逃げ切りのプレイヤーはマレーネではなく、次のメルカルートGPに取っておくはずだしな」


 こちらの言葉を受けると彼女は笑い、手元の端末に書き込みを入れた。


「やっぱり、引退なんてもったいないです。そういう目が効く人が、シエルにはまだ必要だと思います!」


 同情、あるいはプランナーとして選手をケアするつもりなのか。それでも、ミドリの言葉は夏日の涼風のように、心をなだめてくれた。


「ありがとう。ライルの説得は、俺に任せてくれ」

「わたしも、ライルさんに信頼されるようなプランを立てておきますね」


 その時、少し強めの風が吹き渡った。

 木々を揺らし、芝生をかすかにざわめかせるそれは、湿り気を帯びている。二人の視線が上に向けられて、流れ過ぎるかすかな雲を見つめた。


「午後は屋内だな」

「みんなに連絡しておきます。明日のスケジュールも変更しましょうか」

「ああ。マレーネでは、こういうアクシデントも想定されるからな」


 足早に二人が去り、中庭から人影が途絶える。

 その三十分後、この辺りでは珍しい、強い雨が降った。



 雨のせいで、屋上出口前の踊り場は、一層薄暗くなった。大粒の水滴がドアに当たり、騒々しい音を立てる。

 その光景を、コノリーはぼんやりと眺めていた。

 ときおり雲間で閃く光に、目を細める。

 あの輝きを二つ名を持つプレイヤーを、自分は知っている。


『雷光(ライトニング)』マリウス・ウォーベン。


 最年少で個人優勝を四度獲得し『シルフィード』の称号を得たプレイヤーだ。

 記録自体は不世出の天才、ジョシュア・マイクロフトに塗り替えられたものの、その名が色あせることはない。

 身長160㎝という体格でありながら、誰にも追いつけない速度でゴールを目指す姿、それは自分のような小柄なプレイヤーの目標であり、憧れだった。


「こんなところにいたのですね」


 階段を上がってきたのは、白衣に身を包んだ男。

 マッシモは笑い、手にした蝋引きの紙カップを差し出してきた。断る理由もないので、目礼して中身を口にする。

 甘いカフェオレの味を確かめながら、それでも黙ったままでいた。


「午後の練習は屋内という事ですが、連絡は受けましたか?」

「……はい」

「なるほど。それでもここにいるということは、今は気が乗らないと」


 まるで授業をサボった学生のようだ。こうして『保険医の先生』に付き添われて、安否を確認されるなんて、いい歳の大人がすることじゃない。

 

「心配かけてすみません。すぐに」

「いえ、君はドクターストップです。今日のところは、ここでのんびりしましょう」


 断る暇もなく、彼はリーダーへ向けて、コノリー・ブライトンを『療養観察』する旨を送信してしまった。


「僕はなんともないんです。ただ、その……」

「それなら、私の愚痴を聞いてもらえますか?」


 黒い肌の初老の男は、自分の分のカップを口元に当て、真紅色のお茶を飲み降す。


「この一年近く、私はライルの医療記録を記入できていません。そして、彼のトレーニングメニューを作ることも、二年はやっていないでしょう」

「……そんなことで、問題は出ないんですか?」

「ブレイズ運営員会には、彼が病院で取ってきたデータを提出していますから、対外的には問題ありません」


 この物静かで理知的な医師と、シエル・エアリアルのスタープレイヤーが、仲たがいをしていることは、誰もが知っていた。

 きっかけは二年目のトレーニングメニューについて、意見の食い違いが発生したから、という事、らしい。

 監督とフロックリーダーを交えての説得にも関わらず、ライルはマッシモに担当されることを拒否して、今日に至っている。


「彼に言わせれば、私のやり方は『合わない靴を、無理矢理履かせるようなもの』だそうです。そんな職人に、自分の体を預ける気はないと」

「僕は……先生のメニューに、問題はないと思います」

「ありがとうございます。残念なことに、ライルには完全に嫌われたようですが」

「本当は、なにがあったんですか?」


 チューナーとプレイヤーが揉めるというのは、ブレイズの長い歴史で起こる『よくある光景』だ。大きなチームであれば別のチューナーに変更すればいいし、小さなチームではどちらかが折れる、という結論が相場だ。


「……もしかして、先生も、譲らなかったんですか?」

「こう見えて、意外と頑固者なんです、私」


 柔らかに笑う顔からは、それ以上の心理を読み取ることができない。

 声を荒げず、ヒトとの和を中心に考える彼が、それでもライルのわがままを聞かなかった。その事実が、決裂の深刻さを物語っていた。


「とはいえ、これ以上私が言えることはありませんよ。守秘義務違反になりますので」

「……大変ですね」

「ええ。それに私自身、己の能力に限界を感じています」


 限界、という言葉が体の芯にしみついてくる。外の雨のように、心の表面を何度もたたいて、冷たく濡らす感覚。


「私自身、本来はブレイズ畑の者ではありません。チューナーとしての資格は持っていますが、トップクラスの方たちとは、比べるべくもない」

「お辞めになる、そうですね」

「はい。SOECに勤めている知人に、後任となる方を探していただいています。申し送りの資料をどうするか、色々悩んでいますよ」


 環境が変わりつつある。

 低気圧が入り込んだ、大荒れの空を飛ぶような、先の見えない不安が湧き上がる。

 自分は――


「――僕も、辞めようかな」

「……辞めるのですか?」

「これ以上、ここにいても、なにかできる気がしない」


 雨音は叩きつけるような音から、静かにつぶやくような、ささやかな音に変わる。

 ぼんやりと輝く雲の群れが、急き立てられて流れていく。それは空の濁流であり、自分の心はその中で溺れていた。


「ライルさんは、すごくて。僕ができることは、彼にもできる。でも、彼にできることは僕にはできません」

「君にできて、彼にもできること?」

「スワローの僕とイーグルのライルさん、コーナーの周回軌道も、終わった後の高度も、三十センチぐらいしか誤差がない。それなのに、向こうの方が翼面が大きいから、僕よりもスポットでの揚力回復が大きいんです」


 口にするだけで、みじめになるような事実だ。

 ブレイズのプレイヤーにおいて、成績上位者に入るのは大抵『イーグル』だ。

 身長170から185ぐらいのプレイヤーを『イーグル』と呼び、それ以下を『スワロー』それ以上を『アルバトロス』と呼ぶ。

 あくまで慣例的なもので、正式な呼称ではない。

 とはいえ、イーグルくらいの体格のプレイヤーが、オールラウンドに活躍できるのは紛れもない事実だ。


「来年にはファームから新人が上がってきます。もしかすると、今期中かもしれない。そうなれば、成績の振るわない僕は、お払い箱だ」

「監督がそう言ったのですか?」

「監督もリーダーも、僕のことはどうでもいいみたいだし。ミーティングでも、なんとなく距離を置かれていて」

「なるほど」


 考えるほどに、状況はろくでもなかった。

 チームから浮いているのは明らかにライルだったが、結果が出せている。

 チームから浮いているというより沈んでいる自分は、何もできていない。


「他のチームメイトはどうですか?」

「……クラッドは、もう少し僕が活躍できればいい、って。あとミドリさんも」

「少なくとも、肯定してくれるヒトはいるわけですね」

「でも、ライルさんは……」


 その名前を口にした時、封じていたものが、首をもたげていた。


『アイツのせいで一番割食ってるの、お前じゃねーか。悔しくねえのかよ』


 クラッドの声が、必死に忘れようとしていた気持ちを思い出させてしまう。

 ネグラスタGPのアクシデント。後続のプレイヤーを避け損ない、大きくコースを外れたライルの姿。

 選手控室で荒れ狂う彼を、誰もがなだめていた。

 コノリーが必死になって叩きだした最速のラップタイム、自己ベストの飛翔は、誰にも顧みられずに忘れ去られた。


「ライルさんは、僕のことなんてどうでもいい。自分を活躍させるための、端役としてしか、見ていないんじゃないでしょうね」


 かたわらの男は、なにも言わずにいた。

 肯定も否定もなく、こちらの毒を飲むように、手にしたカップを空にした。


「言いにくいことを話してくれて、ありがとうございます」

「……いえ。僕も、いっぱいいっぱいだったんで、ちょっとすっきりしました」


 雨は止んでいた。白くぼんやり輝く塊は流れ去って、オレンジ色に染まった空が見え隠れしていた。

 コノリーはマッシモから紙コップを受け取り、立ち上がった。


「先生、もし僕が、マリウス・ウォーベンのように飛びたいって言ったら、どうします」


 問いかけに、彼はすぐには答えなかった。

 考えあぐねているのではなく、言うべき一言を、ためらうように。


「あなたには、あなたにふさわしい飛び方があります。それを曲げてまで、チューニングをするつもりは、ありません」


 それが、すべての答えだった。

 自分は決して、マリウスにはなれない。

 そしてライルは、この回答を拒絶したのだ。


「ありがとうございます」


 そして薄暗い階段を、ゆっくりと降っていく。

 穏やかな諦観と、鈍い憤りを踏み固めるようにして。

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