1、ノイジーマイノリティ
万年筆という代物が、ライルは苦手だった。
先端から液体をにじませて文字を記す筆記具は、力強さと強靭さを要求されるスポーツマンの手と相性が悪い。
白い紙の上に筆を走らせる青い手が、いら立ちに震えた。
じわりと黒いしみが漏れて、ライル・ディオスという署名がインクに溺れていく。
「悪い、監督。もう一枚くれ」
「力を入れすぎなんだよ、君は。もっとこう、フェザータッチにいかないか?」
「俺の繊細さは、もっぱらレース用でね。だいたい、契約更改の話なら、年俸の時に合意してる。改めて記す意味はないだろ?」
座卓から顔を上げると、デスクに座った壮年の男は、苦笑いと朗らかさの折衷された顔を向けていた。
「それが大人の仕組みというモノだ。それとも、契約金をこっそり一桁削り取って、君が知らないうちに円満更新、なんてやって欲しいか?」
「そんなの、通らないだろ」
「それを通さないための仕組みだ。よし、今度は綺麗に書けたな」
綺麗に、というのはかなり気を使った表現で、書き上げた署名は金釘文字の、とても上手とは言えない、たどたどしいものだ。
サインも苦手だ。
デビューして四年になるが、どこでもうまく書けたためしがない。
「そう言えば、来月のファンミーティングの件なんだが」
「パス」
「ライル」
「このやり取りも、いい加減うんざりだぞ、監督」
監督、の部分に力を込め、鼻先から空気を押し出す。
向かい合う相手の顔も、今度は笑いを交えなかった。
「ライル・ディオスのマスコミ嫌いは今に始まったことじゃないが、ファンをないがしろにする対応は、これ以上見過ごせない」
「連中の声援とやらで、レースのタイムが一秒縮むって科学的根拠(エビデンス)があるなら、いくらでも慣れあってやるぜ?」
「君への年俸は、スターとしての振る舞い込みで、支払っているつもりなんだがね」
オフィスの空気が、時化っていく。
壁際の本棚や、レースシーンを収めたポートレートが輪郭を失っていく。座っているソファーの革が、緊張感にちいさな悲鳴を上げた。
監督は窓を背にして、決定的な一言を喉に溜め込んだままだ。
このままいけば事故間違いなし。こういう時は高度を保って、揚力を溜めるべきだ。
ライルは降参のしるしに両手を上げ、笑顔で契約更改の書類を監督に差し出した。
「予選の二日前、調整が終わった後なら」
「良いとも。言っておくが、直前でキャンセルは無しだからな」
「アイ、キャプテン。仰せのままに」
話は終わった、とばかりに背を向ける。
だが、相手はそうではなかったらしく、新たないら立ちの火種を放り込んできた。
「本当に、次のレースは大丈夫なのか?」
ドアを蹴やぶりたい衝動を押し込め、ライルは極めて冷静に、吐き捨てた。
「問題ない」
ミーティングルームに入ると、ライル以外のメンバーが顔をそろえていた。
モニターには過去のレース結果の映像や、予選当日の気象予報などが展開され、レギュラーのドラゴンたちは席について、プランを吟味しているらしかった。
周回遅れを忌々しく思いながら片手を上げると、クリーム色の肌を持つドラゴンがこちらに頷いてみせる。
「済まないが、先に始めさせてもらっていた」
「俺の入るラインは、もちろん開けておいてくれてるんだよな、ペグラ?」
「お前なら問題ないはずだ。ここまでの流れを確認してくれ」
チームリーダーのペグラジェ・ロクデア。
身に着けた練習用のジャージを首元まできっちり締めた姿。だらしなさとは無縁の、几帳面を体現する男は、こちらが流し見る議題を、傍らに立っていちいち確認していく。
「現地の気象予報を元にして、ミドリが利用可能なヘアラインを提案してくれている。ちょうど今――」
「――ミドリお前、教科書丸写しのプランは止めろって言ったろ! ここに来て『ガイウス・ヘアライン』かよ!?」
壁際のモニター前に立つヒューの女性が、こちらの怒気にすくみ上る。
気象予報士にしてチームのフライトプランナー、アヤサカ・ミドリ。堅実な提案とは名ばかりの、凡庸なプランを量産する間抜けだ。
「前回のレースでうちは三位入賞。次のマレーネでポールを取れなきゃ、優勝の目がなくなるんだぞ!? それを、こんなぬるいプランで!」
「だから、今検討中だと言ったろう。落ち着いて、席につけ」
「さっすが、チームのエースは言うことが違うなぁ。遅刻して顔出すなり、プランにダメ出しっすか」
席の最前列に、こちらを睨むドラゴンの顔がある。
真紅の肌とオレンジの髪と相まって、燃え立つような気配が強調されていた。そんな表情の中で、冴えた蒼の瞳がこちらを鋭く穿つ。
クラッド・ノースティア、今年三年目になるレギュラーの一竜(ひとり)。
「『ガイウス・ヘアライン』がダメなら、何がイイってんです、センパイ」
「『タチカゼ・ヘアライン』。先行逃げ切りでペースを作り、後続と差をつける。マレーネで勝つなら、真っ先に考えるだろ」
「へぇ、案外冷静っすね」
ペグラとは違い、クラッドはジャージを腰に巻き付け、身に着けたシャツもお気に入りのバンドのロゴの入ったもの着けている。こうした見かけが黙認されているのも、こいつが同期の中で指折りの実力者だからだ。
そんなイキリ散らした後輩は、皮肉気に口元を歪めて、こちらを挑発をした。
「オレはまた『ジョシュアのヘアライン』を使え、って言うのかと思いましたよ」
「それも考えたがな。お前がついてこれないだろうから、言わないでやったんだ」
席に座ったまま、腕組みをするクラッドの前に立ち、ぐっと顔を押し込む。見返す後輩の口が、鋭く、大きく開いた。
「で、でも、ライルさんならやれますよね、ガイウス・ヘアラインでも」
遠慮がちに掛けられた声に、にらみ合った視線が左に向く。ライトグリーンの肌を持つドラゴンが、遠慮がちな笑顔を浮かべていた。
「きょ、去年のマレーネでも、ガイウスだったし。ライルさんの得意コースだし」
「おいコノリー、これ以上、このおエラい先輩をつけ上がらせてんじゃねえよ!」
「そ……そんなつもりじゃ、ないんだけど」
コノリー・ブライトン。クラッドと同期に入ってきた二年目だが、こっちはいかにも覇気がなく、小柄な背丈と相まって印象が薄い。
取り立てて光るところのない点で、生意気なクラッドとは対照的だ。
こいつらを足して二で割ったら、まだ相手をしてやる価値もあるだろうか。
「いい加減にするのは、お前たち二人だ。これ以上騒ぐなら、出て行ってもらうぞ」
「そうは言いますけどね、フロックリーダー。最初にたしなめるのは、同僚の仕事への敬意も持ち合わせない、どっかのスター様のほうじゃないんすか?」
「…………」
苦々しくため息を吐くと、ペグラはちらりとミドリの顔を視界に収め、こっちへ無言の圧力をかけた。
ああ、全く面倒くさい。
「悪かったよ。そのご立派なフライトプランとやらを、最後まで聞かせてくれ」
「だからアンタ――」
「はい! では早速、説明いいでしょうか!」
それまでのやり取りなどなかったように、マイペースで受け答えをするミドリ。ヒューは感情が顔に出やすいが、こちらへの怒りや不満は読み取れなかった。
そのまま、モニターにマレーネサーキットの立体モデルを表示すると、黒髪の女は解説を始めた。
「一週間後のマレーネは七十パーセントの確立で快晴、日中の平均気温は二十九度、例年のように天然の上昇気流(サーマル)が出やすい環境と考えられます。そこで」
「ジェットスポット使用後の揚力減衰を、サーマルで補うことでレースが高速化、コース全域でライン取りが荒れやすい。そこで、気象条件に左右されない『最優のヘアライン』を使うってことだろ」
「は、はい。その通りです」
まったく、なんて教科書通りだ。
こういうヘアラインの意味をはき違えている奴が、同じチームで、しかも飛行の計画を練ってるとか。こいつのバカさ加減は、本当にムカムカする。
「お前のプランとやらは、練習風景(プラクティスモード)で固定されてんのか?」
「そ、そんなつもりはありません、けど」
「確かに『ガイウス・ヘアライン』をなぞれば、速度を維持して飛行することはできるだろうな。だが、俺たち以外のチームが、すべて『タチカゼ』を選択してきたら?」
飛行レースであるサラマンダー・ブレイズには、レースにおけるセオリーが存在する。
最速最短でゴールを目指せる軌跡(ライン)、いわゆる『ヘアライン』を利用することだ。それぞれのラインには、それを確立させたプレイヤーの名前が冠される。
だが、セオリー通りで優勝が狙えるほど、ブレイズは甘くない。
「今期の『アイケイロス』は調子に乗ってる。あのドン亀のガルボだって、二つ前のカルドリ―で自己ベストを出してきた。連中は確実に、タチカゼを選択するだろうな」
「そ、それに、下位に落ちかかった『アメノトリフネ』も、テンポの速いレース運びを選ぶんじゃないかって、思います」
「『リンドブルーム』や『ロックバード』の石頭共は、ガイウス使うかもしれないだろ」
「それなら連中と一緒に、周回遅れで飛ぶんだな。俺はごめんだ」
周りのチームが速度重視のヘアラインを選ぶだろう中で、安定志向を選択するなんて馬鹿げた話だ。だが、目の前の素人女は、神妙な顔でこっちを見つめていた。
「なんだよ。何か文句でもあるのか?
「……レースが高速化すれば、事故の確率が増えるのも、ご存じですよね」
「それがどうした。事故が怖くてブレイズができるかよ」
「わたしが言いたいのは、ネグラスタの、ペナルティの件です」
ライルは眉根を寄せて、ミドリを睨み返す。
はらわたの奥に痺れるような怒り。喉の奥がごわついて、口が干上がる。隣の新人が気配を察して腰を浮かし、ペグラが一歩、こちらに進み出る。
その全てを振り切って、立ち上がろうとした肩が、背後から掴まれた。
「そこまでです、ライル。今の貴方は冷静に状況を判断できていない」
「手を放してくれ、レストーレさん」
「できません。というより、私もネグラスタの件で、貴方に質問があります」
深く黒い肌を持つ初老の男、マッシモ・レストーレは、その筋肉で分厚くなった手に静かな威力を込めて、こちらの動きを制動していた。
メディカルスタッフの長であり、チューナーと呼ばれるブレイズ専門のコーチを役職する男。
ライル・ディオスが最も信用しない者である彼を、皮肉気に笑いながら振り返った。
「アンタに話すことは何もない。俺の体は良好で、ネグラスタのあれは、相手のライン取りが下手だから起きた事故だ。少なくとも、俺に問題はない」
「そのペナがなきゃ、焦ってマレーネで巻き返さなくても済むんですがね、センパイ」
気が付けば、クラッドの胸倉をつかみ上げていた。
燃え立つような髪と、射るような青い瞳が視界いっぱいに広がり、敵意と怒りをみなぎらせていた。
「もう一度行ってみろ、このクソガキ!」
「何度だって言ってやるよ! ネグラスタの時だけじゃねえ、今シーズンのアンタはなんだ!? 毎度毎度シケた飛びしやがって、その癖、態度だけは一人前かよ!?」
「でかい口叩くな! カルドリ―GPのラストラップ、お前のヘマでポールを逃したのを忘れたか!?」
「もうやめろ!」
割って入ったペグラは、互いを無理矢理引きはがす。
クラッドを背中から抱き留めるミドリと、その手を掴んで動きを止めるコノリー。
ライルはマッシモの黒い手と、ペグラの乳白色の手が、身じろぎさえ封じられていた。
「今日は解散だ! レースにはまだ時間がある、頭が冷えた頃を見計らって、改めてミーティングとする」
「オレは冷やす必要ないっすよ。煮えてんのはスター様の頭ン中だけだ」
「ゆで上がってるのはお前の性根だろ。そっちが黙れば何の問題もない」
「ミドリ、コノリー、クラッドを頼む」
意外にあっさりと、後輩たちは部屋から出ていく。状況にくぎ付けになっていた他のスタッフたちも、その機をうかがうようにして、姿を消した。
「ちょうどいい。俺も出てくる」
「ライル! お前にはまだ話が」
「そういやレストーレさん、今季で引退するとか聞いたが、本当かい?」
静かにたたずんでいた男は、黙って頷いた。
青い顔をさらに褪めた彩りに変えて、ライルは相手への侮蔑を露わにした。
「そりゃよかった。これ以上、あんたに不快な思いさせなくてすみそうだ。チューナーを無視するプレイヤーなんて、顔も見たくないだろうしな」
「貴方にそう振舞わせたのは、私の実力不足です。ほんとうに、申し訳ありません」
それ以上の言葉を飲み込み、背を向けて部屋を出る。
なんだか今日は、こんなことばかりだ。
どうして俺が、逃げるようにその場を後にしなきゃならない。
「……っ!」
扉を通る時、翼の付け根がじくり、と痛んだ。
さっきのくだらないやり取りで、血の巡りがよくなり過ぎたらしい。ポケットに隠しておいた錠剤を、素早く口に含む。
これが最後の処方だ。
次のレースに間に合うよう、誰にも知られずに都合をつける必要がある。
携帯端末を手に取ると、ライルはは何気ない調子で、相手方に連絡を入れた。
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