番外編:流れに花の散るように

0、サマータイム・ブルース

 ライル・ディオスという少年にとって、夏休みとは貨物船だった。

 外洋航海で家を開けがちな父親に会える数少ない機会であり、海外旅行の体験は同級生への自慢になる。

 なにより船の上では、陸では口にしてはいけない『秘密の体験』ができた。

 彼が船に乗り込んでから三日目。

 待ちに待った、その日が来た。



 貨物船というものは、基本ヒトが乗るようにはできていない。巨大な船体のほとんどは荷物を安全に運ぶための機能が満載され、乗組員などはそれらを調整し、無事に送り届けるためのパーツでしかない。

 船底に設けられた通路に充満するのは、よどんだ潮と、鼻腔の奥にねばりつくような重油の刺激臭。

 子供のライルにとっても狭い通路を、翼をどこかのパイプやでっぱりに引っかけないように走る。


「遅いぜライル、五分遅刻だ!」


 船首方向にある空間の広がりには、水夫たち数人がたむろしていた。

 その背後にあるエレベーターのカーゴへ乗り込む彼らについて、体を押し込めるように乗り込んでいく。


「もうちょっと寄ってよ! 狭いし暑い!」

「我慢しろ、俺らだって同じなんだ」


 力自慢の水夫の手が、頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてくる。日々の労働でこわばった角質、分厚い筋肉とほんのりついた脂肪が、重たい感触として伝わった。

 子ども扱いされているとは思うが、それほど嫌でもない。

 彼らの無骨な肉体は父さんの仕事の支えだし、実直で器用な働きをする姿に、憧れてもいたからだ。


『現時刻をもって、本船は公海域へ到達した。観測班は位置に付け』


 ブリッジからのアナウンスに、男たちが反応する。扉が閉まり、重々しいモーター音と共に、狭い空間が上昇していく。

 顔を上げ、昇っていく先に思いをはせる。

 エレベータの外壁がわずかこすれ、巻きあがるワイヤーがきしみ、流れ込んでくる大気の温度と香りが、移り変わる。

 そして、目の前が広がった。


「あぁ、苦しか……っ、わぁあっ!?」

「おらおら、ぼっとしてんな。とっとと出ろ!」

「ああもうっ、分かったよぉっ」


 たたらを踏むようにして飛び出したライルは、そのまま大きく伸びをして、翼をぐっと広げた。

 九歳にしては大きいと言われた翼は、傷もたるみもない。深青(ディープブルー)の肌が、雲間から差す日に照らされて輝く。

 船倉の臭気を押し出すようにマズルを両手で擦り、改めて辺りを見回す。

 目の前に広がるのは、どこまでも平らな金属の甲板だ。床面には様々な標識や補助線が描かれて、規則的に筋目が走っている。

 穀類を輸送するタンカーの上は、内側に秘めた貨物に比べて平坦そのもの。コンテナ船の物々しさとは違う景色だ。

 そして、自分たちの船を、広大な海が取り囲んでいた。


「観測行くんだろ、さっさと位置につけ」

「うん!」

「ほれ、これ使え!」


 船員の内の赤いドラゴンが、こちら向けて袋を放り投げる。

 受け取り、口紐を解くと、中身を取り出して身に着けていく。

 まず最初に着けるのは救命胴衣。首を中心に前後に垂れた分厚い布の塊を、翼に引っ掛けないように通し、脇腹の留め金具で締める。

 肘当てや膝当てをつけて、最後に連絡用のインカムの付いたヘルメットをかぶった。


「始業前点呼!」

「飛行用安全胴衣、着衣ヨシ! 留め具定位置、ヨシ! ヘルメットの顎紐、ヨシ! 肘当て膝当て、ヨシ!」


 大きな声で復唱すると、周囲の大人も満足げに頷く。もう一度安全具の具合を確かめると、ライルは大急ぎで舳先の方へと走った。


「準備できてるぞ。安全確認忘れんな」

「ありがと!」


 舳先には、安全柵で隔てられた巨大な巻き上げ機と、半切りにされた金属の籠のようなものが置かれている。

 走って近づくと、巻き上げ機から太い鉤のような器具を取り出し、胴衣の胸元に下がった金属の輪に接続した。

 

「係留金具、錆、クラック確認! 問題なし! 可動部確認、動作ヨシ!」

「よーし、係留金具、装着!」


 金属部分をガチャガチャ言わせて確認を済ませると、巻き上げ機の前に大人が立ち、ライルは金属の籠に捕まる。

 そして、巻き上げ係は手近なマイクに怒鳴った。


「船長、準備できた! 観測員、上げてよろしいか!?」

『風向、風速、共に問題なし。観測員、上げろ!』


 合図を受けて、仔竜の体が身構える。

 巻き上げ機の隣に旗を持った男が立って、儀式めいた動きで紅白の旗を振る。

 そして、


「観測員、開帆!」


 合図とともに、ライルの青い翼が大きく開かれ、摑まっていた籠のロックが、音を立てて外れた。

 同時に、自分に向かって強烈な風圧が、どっと押し寄せる。巻き上げ機の脇に着けられた送風機が生み出した空気の波が、籠と体を舳先の方へと押し出していく。

 巻き上げ機に付いた五つの赤いランプが、端から消えていき、最後の一個が暗転する。


「ふぅっ!」


 ライルは全身の力を込めて、両手足を籠から放し、背後へと飛んだ。

 ぐんっ、と翼に重みがかかり、そのままあらゆる重量が、空に向かって引き上げられていく。

 甲板が遠ざかり、視界に映る海の比率が多くなっていく。

 風が角を刺激して、髪をかき乱す。

 吸い込まれるように、仔竜の青い体は、空の広がりの中に迎え入れられていた。

 どこまでも浮かんでいきそうな感覚を、胸に掛る金具が唐突に引き戻す。途端に全身が風にあおられ、空気にねばりつくような重さを感じる。

 そのタイミングを見計らって、ライルは口元のマイクに怒鳴った。


「ウインチ! 微速送り出し!」

『あいよ』


 返答と一緒にワイヤーが伸びて、体が再び軽さを取り戻す。ライルは首を水平にして、風を受けた体を高みに持ち上げていく。

 胸元から垂れるワイヤーの張りが、ゆるやかな下向きの弧になった時点で、もう一度下に向けて指示を送った。


「いいよ! ロックかけて!」

『分かったよ。ったく、いっちょ前な口ききやがって』


 つながった巻き上げ機から、大げさな作動の振動が伝わる。巻き上げ機のロックがかかって、サスペンションとワイヤーの遊びが、仔竜の体を手繰るような動作に変換された。


「観測員ライル・ディオス、目標高度に到達! これから観測を開始します!」

『よし、それじゃ雲量と風向、周辺の海流のチェックだ』

「アイ、キャプテン!」


 ヘッドホンの向こうから届く指示に、ライルは笑顔で答える。

 外洋を進む船には、航路の気象や洋上の状態を、一定時間観測して入港の際に報告するという義務があった。

 ライルが生まれるずっと昔、故郷である惑星、フェオリアは一度死んだ。

 その後、数多の奇跡によって息を吹き返してからも、海という場所は長らく、汚染と危険をはらんだ地域だった。

 海上輸送がただの商取引ではなく、命がけの冒険と同義だった時代。洋上観測員は名誉ある職業として尊敬を集めていた。


「――以上、報告終了!」

『ご苦労。それでは回収準備――』

「もうちょっとだけ、いいでしょ?」


 くすぐったくなるような、深いため息。

 自分の目線よりはるか下にあるブリッジ、その外側に面した窓から、自分とよく似た青いドラゴンの顔が見上げてくる。


『五分だ。それが過ぎたら強制回収だぞ』

「ありがと、父さん!」


 いつものやり取りを終えると、ライルは水平線の彼方を見つめる。

 翼をもう少し広げ、足をもう少し伸ばし、顔を上げる。

 心持ち風が強く吹きつけ、手足を締め付ける圧が強まる。体が観測用の高度を超えて上がり、船が小さな点に変わる。

 視線を移すと、すぐ右わきを白く鋭利な欠片たちが、大気を切り裂いて進んでいた。

 渡り鳥の群れ(フロック)。

 その飛行姿勢はライルとほとんど同じだったが、たった一つだけ違う場所があった。


「…………」


 右手が胸元の金具に伸び、安全装置の辺りを指がたどる。

 巻き取り機に問題が起こった時、こちらの側からパージするための機能。これを使えばあの鳥たちと、同じになれる。


『五分だ』


 こちらが見えているみたいな、鋭い一言。

 慌てて手を離すと、ライルは素直に指示に従った。


「観測員、これより帰還します! ウィンチ、収容お願い!」

『はいはい。角度に気をつけろ、巻取り開始!』


 再び空気が、ねばりつくような重さを伝え、体が引きずりおろされていく。

 近づいていく甲板を感じながら、ライルは一瞬、空を仰いだ。

 鳥はまだ、蒼の中に留まっていた。



「ほら、ボーっとしてんな観測員。片付け手伝え」


 身に着けた保護具を取り外しながら、ライルは言われた通り仕事に入る。

 巻き上げ機や係留金具の整備と収納を手伝い、袋詰めにした保護具を抱えると、エレベーターに再び乗り込む。

 始まる時はあんなにワクワクするのに、終わってしまえば気持ちはしぼんで、出てくるのはため息ばかりだ。


「もっと飛んでたかったのに」

「諦めろ。ホントなら、お前を飛ばすの自体、やっちゃダメなんだからな?」

「…………」


 そんなことは分かってる。

 観測員になれるのは、航空免許を持っている大人だけ。その大人たちも、普段は観測用の無人飛行ブイで済ませることになっていた。

 父さんの船で、船員のみんなも黙っていてくれるからできる、夏休みだけの冒険だ。

 船底の倉庫部分につくと、ライルはエレベーター入り口近くに掛けられた、名簿に目をやった。


「ホントなら、名簿に名前書くんだよね、僕の」

「書いちゃダメだって。さっきのも『無人ブイが飛んだ』ってことになってんだから」


 ライルは無言で、胸元をたどった。

 そこにある、見えないワイヤーを確かめるように。

 どうして自分は、自由に空を飛べないんだろう。


「どうした、ライル。あまりザインを困らせるんじゃないぞ」

「父さん!」


 身に着けた白い制服は、薄暗い船倉のなかでも輝いて見える。深い青の肌と、いかつい顔のドラゴンは頷いて、仔竜の肩に手を当てた。


「それで、今度はどうしたって?」

「観測員として名前を書きたいだそーです。船長、あんまり息子さんを甘やかさんでくださいよ」

「すまん。後で一杯奢るよ」


 船員が去っていき、父親は腕組みをして何事かを考えていた。それから、船倉の隅に置かれた観測用の飛行凧を見つめた。

 

「手伝えライル。備品倉庫から青のペンキと刷毛を持ってきてくれ」

「うん!」


 大急ぎで言われたものを取って戻ると、畳まれていた凧は翼を展開して、鳥のような翼面を晒していた。

 その上面に、父親は青いペンキで何かを書き記した。


「『FALES』?」

「アースの言葉で『仮の』という意味だよ。これからこの凧はファルス号だ」

「それで、どうするの?」


 掛けられた名簿を取り外し、ペンと一緒に手渡してくる。今日の日付と飛んだ時刻、そして飛行した観測員の名前を書く欄。

 少し考えて、ライルはブイにか書かれた『名前』を記した。


「ブイを飛ばすたびに、この名前を書くように言っておこう」

「こうすれば、僕も名前が書けるってこと?」

「気に入らないか?」


 確かに、こうすれば自分が名前を書き込める。

 でも、やりたいのは自分の名前を書くことだ。

 不機嫌をなだめるように、父親の両手がこちらの肩にあてて、ゆっくりと撫でた。


「本当の名前を書くのは、先の楽しみにとっておきなさい。大人になったら、好きなだけ観測員として名前を書けばいい」

「……分かった、約束だからね」


 不器用な思いやりに、ライルはぎこちなく頷いた。

 欲しくないわけではないが、ほんの少しズレたプレゼントを贈ってくるのは、いつもの父さんだ。

 

「さあ、上に行って昼飯にしよう」

「うん」 


 通路を先に立って歩きながら、残された『自分』を視界に入れる。真新しいペンキの臭いを漂わせたそれは、薄明りの中で静かにたたずんでいた。



 それから二年後、外洋航海の観測員制度は廃止された。

 ライル自身も夏休みが忙しくなり、父親の船に乗らなくなっていたから、そのことを知ったのはかなり後のことだ。

 『仮の』名前を背負った観測凧は、船の備品として廃船となる日まで残り続けた。

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