10、わかれ道

 何かの上に寝そべっている。

ベッドの上ではない、胸の辺りに感じるクッションの感覚と、髪をなぶる風。

「おい、アルト!」

 たぶん、落ちた衝撃で気を失ったんだ。浮かんだ苦い思いに、仔竜は身を縮めた。

「しっかりしろ! 大丈夫か!?」

 大丈夫です先生、でももう少し……

「え!?」

 呼ぶ声の違いに、アルトは思わず跳ね起きた。周りを取り囲んでいるのは、見知らぬ大人や成竜たち。そして、太ったドラゴンと友人の心配そうな顔。

「おじさん……僕……」

「心配させやがって! この野郎!」

 有無を言わせずファルスは仔竜の体を、痛いくらい抱き締めた。

「え、ああ、おじさん!?」

「ブレーキと着地は基本だって、何度も言っただろ!」

 そこでようやく、混乱していた記憶がまとまった。急降下して追い抜きを掛け、近付いてくるゴールと砂。

「……僕、どうなったの」

「なんだ、覚えてないのか?」

 安堵しながらアルトを開放すると、彼は嬉しそうに目を細めた。

「すげえ追い抜きだったよ、見てるこっちが悔しくなるくらい」

「そして、君はゴールしたんだ。一位でね」

 あとを引き取ったテッドも、満面の笑みを浮かべた。

「お前が優勝だ、アルト」

「僕が……優勝?」

「……納得いかねえよ」

 平板だが、憎しみをにじませた言葉。囲みを割って入ってきた赤い仔竜は、呆然としているアルトを睨み付けた。

「なんなんだよ、あの追い抜きは! 故意の接触は反則だろ!」

「……審判は、反則行為にはあたらないと判断した」

 落ち着き払った声で、ファルスはダンの抗議を遮った。

「アルトはただ、脇を通り過ぎただけだ。その風にお前が煽られた」

「く……」

「反則は無かった。それが委員会の答えだ」

 うつむき、拳を握り締める赤い仔竜。

 悔しさと憤りに体を震わせている、今まで想像もしなかったダンがそこにいた。

「どうして……俺がアルトに、ポテトなんかに負けるんだよ!」

「あいつはもう、ポテトじゃない」

 憎しみにまみれた言葉をさえぎって、ファルスは赤い仔竜を見つめた。

「もともと、あいつには飛ぶ力はあったんだ。そして、お前に勝とうと努力してきた」

「そんな理由で……納得できるかよ」

「……『マッチアップ』って知ってるか?」

 意外な一言にダンとアルトの視線が太った顔に釘付けになる。ブレイズを知っている人間なら誰でも知っている言葉。コースの状態やプレイヤーのプレイスタイルによって、得意な相手と苦手な相手ができるという意味の言葉。

「ダン、って言ったか。お前にとってアルトは<天敵>なんだ。特に、短距離や自然の風相手のレースではな」

「……こいつが、<天敵>だって?」

「小さな体のおかげでコーナリング性能が高い。そして、ある理由でこいつはお前と同じぐらいの加速性能を引き出せる――この状態でお前が勝つ方法は、その大きな翼を生かせる安定した高速飛行だ」

 解説を続けるファルスの顔は平静そのものだ。だが、アルトにはその表情に哀しみのようなものが宿っているように思えた。まるで、過去に犯した過ちを語るように。

「だが、お前はアルトを格下と見て、ラインカットで妨害にかかった……そういうことだ」

「くそっ……」

 力なく呟いて、ダンが背中を向けて去っていく。

 その背中に、仔竜は罵倒や嘲笑とは違う何かを、掛けたいと思った。

「やめとけ」

 口を開き掛けたアルトの肩に、大きな手が触れる。その重さにこもったものを了解して、アルトは頷いた。

「おじさん……」

「ん?」

「さっき言ってたのは、ほんとのこと、だよね」

 足元の砂をいじりながら、仔竜は気恥ずかしさとうれしさを混ぜて呟いた。

「天敵なんだ、僕って」

「調子に乗るなよ?」

 意地の悪い笑みを浮かべて、太ったドラゴンはアルトの髪の毛をかき混ぜた。

「マッチアップは相対的なもんだからな。そこのところちゃんと覚えとかないと、次やったときにボロ負けするぜ」

 両手で仔竜の顔を上げると、ファルスはニヤリと笑った。

「それはともかく、おめでとう、アルト」

「おじさん……」

 遅れ馳せながら、喜びが押し寄せてくる。ざわつきはじめた群衆の中から、テッドがマイクを持った男をこちらに連れてきた。

「じゃ、お願いします」

『OK! それでは、第二十八回セドナ・ラグーンレース仔竜の部……今年の優勝者は……』

 いきなりアルトの右手を掴んで引き上げると、実況は高らかに宣言した。

『ゼッケン七十四番、アルト・ロフナーだ!』

 自分を中心に、歓声が爆発する。

 両脇からテッドとファルスに抱きすくめられながら、アルトは言葉にならない喜びを喉からほとばしらせた。

 潮騒も山風も打ち消す歓呼は、なかなか止もうとはしなかった。


 太陽が沈み、空と水平線の境界が闇に消えていく。

 色とりどりのライトが点る水上ポートと、浜で繰り広げられるお祭騒ぎ。その光景をぼんやりと眺めながら、アルトは胸元にさがったそれの感触を、指で確かめていた。

 丸い金属の円盤はかすかに温もり、硬くしっかりとした手触りで、これが現実の物であることを教えてくれている。

「ほれ」

 傍らから差し出された串焼きを受け取ると、先に歩き始めたファルスの後を追う。

「……なんかさ、まだ信じられないよ」

 焦げ目の付いた肉を頬張りながら、アルトはぼんやりと呟いた。

「夢じゃ、ないんだよね」

「ほっぺたでもつねってやろうか?」

「そんなことしなくても、大丈夫ですよ」

 歩いていく二人の前に回って、テッドが一枚の写真を取り出し仔竜に手渡す。

 そこに映っている光景に目を細め、ファルスはいたずらっぽく笑った。

「これだけのブツが揃ってるんだ、言い逃れはできないぞ」

 幸せのこもった吐息を洩らして、アルトは頷いた。

「あ……あのね……おじさん」

「おい」

 掛けられた声に振り向くと、不機嫌そうな表情の赤い仔竜がそこに立っていた。打ち明けようとした感謝の言葉を中断されて、アルトはぶっきらぼうに問いかけた。

「まだ、なにか用?」

「……ほら」

 ポケットから取り出された一枚のカード。ひったくるようにして受け取ると、スリーブに包まれたカードをしげしげと見つめ、ダンのほうへ視線を戻す。

「なんで、こんなこと?」

「賭けの賞品が汚れたらまずいだろ」

「う……うん」

「それから……ライルのこと、悪かった」

 言うだけ言ってしまうと、ダンはきびすを返して立ち去ろうとする。その背中に、思わずアルトは声を掛けていた。

「ダンもライルのこと……好きなんでしょ!」

 振り返らない背中がびくり、と震える。それだけで十分な答えだった。

 しばらく黙ったまま立ち尽くしていた仔竜は、そっと呟いた。

「……お前は、もうポテトじゃなくなった。だからライルも……帰ってくるよな」

「……うん!」

 振り返ったダンは、その表情を真剣なものにしてアルトを見つめた。

「次は、絶対勝つ」

 去っていく赤い仔竜の後姿を見つめながら、ファルスはそっとアルトの肩に手を置いた。

「ライバル認定されたぞ? どうする」

「絶対負けない。次も勝つよ」

 そう言ってから、アルトは自分のやったことを、ようやく実感したように思った。

 信じられないような、だが信じるに足る全て。それらをもたらしてくれた二人に、青い仔竜は深く礼をした。

「ほんとに、ありがとう。おじさん、テッド」

 ファルスは黙って頷き、テッドは照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。

「アルト、そろそろ帰ろうよ」

「ん……そうだね」

 少年の言葉を受けて、仔竜は大きな体を振り返った。

「それじゃ、また明日ね」

「いや、今日でお別れだ」

 一瞬、相手が何を言っているのかが理解できなかった。その言葉の意味が染み通るうちに、アルトの胃袋がきゅっと縮こまっていく。

「な……なに言ってるのさ」

「実はな、ちょっと遠くへ引っ越すことになったんだ」

 そう言うファルスの顔は穏やかに笑っている。

「もう……仕事に戻る時期なんでな」

「なんで、そんな急に……」

「本当はもっと前に決めてたんだがな。ラグーンレースが終わるまで、言わずにおこうと思ったんだ。お前の邪魔をしちゃ悪いと思ってさ」

「それでも……今日なんて、急すぎますよ」

 テッドの抗議にも力はこもっていない。むしろ、声を出すほどに萎えていくようだ。

「むしろ遅いくらいなんだよ。……グレイに頼んで、家も探してもらってあるんだ」

「待ってよ、だって僕まだちゃんとお礼してないし! せめてお別れ会とかそういうのやってからでも……」

 太ったドラゴンは腰をかがめ、アルトに顔を合わせた。

「なぁアルト。今日のお前、すごかったなぁ」

「でも、それは……」

「俺さ、ホントは仕事なんてどうでもいいと思ってたんだよ。何やってもうまく行かなくて、正直辞めようかと思ってた。でも……お前を見てて思ったんだ」

 言葉を切り、ファルスは優しくて、力強い笑顔を浮かべた。

「もうちょっと、逃げずに頑張ってみるのも、悪くないなってさ」

 その表情にアルトの言葉は詰まり、代わりに瞳から気持ちが溢れ出た。太った顔の中には初めて飛び方を教わった、あの時と同じ真剣な表情があった。

「もう……会えないの?」

 わずかに沈黙を置き、彼は口を開いた。

「またいつか、逢えるさ」

 いつか、という時の重さを噛み締めて、それでもアルトは頷いた。それから、胸に下がった勝利の証を取り外す。

「これ、あげるよ」

「おい……それは……」

「貰ってほしいんだ。僕のこと、忘れないように」

 首を振ると、ファルスはメダルを押し返した。

「こんな大切なもの、受け取れるわけないだろ」

「でも!」

「それなら……それ、貰えるか?」

 太い指が示した手の中のカードを、じっと見つめる。

 初めて空を飛んで、そして勝ち取ったもの。金メダルと同じ、いやそれ以上の価値のあるたった一つのカード。でも、これ以上、すべての感謝を伝えるのにぴったりくるものもない気がした。

 手の中の宝物をアルトはおずおずと差し出した。

「大事に、してね」

「ああ」

 短く呟くと、ファルスはライルのカードをそっと受け取った。それから、しばらく黙って見つめていた。その視線に自分と同じか、それ以上に強い気持ちを込めて。

(あれ?)

 ふと、心の中に浮かんだイメージ。ファルスの真剣な表情がよく知っている人物と重なり、思わずうろたえてしまう。

 そんなバカな。いくら体色が似ているからって。おじさんとライルが似ているなんて。

「どうした?」

 気が付くと、ファルスはいつものようにまんまるな顔で笑っていた。

「な、なんでもないよ」

「そっか。それじゃ、そろそろ行くわ」

 手にしたカードを大事にしまいこむと、ファルスはいつもどおり、ゆっくりと歩きだした。

 大きな丸い背中が、遠ざかっていく。

「おじさん! 絶対、また会おうね!」

「ああ」

 振り返らずに片手を挙げると、彼は力強く答えを返した。

「絶対に、また逢おう」


 涼しい早朝の海岸通りの道を、太った姿が歩いていく。祭りが繰り広げられた浜はしんと静まり返り、海の彼方にたった櫓だけが昨日の名残をとどめている。

 目的地のバス停には、黒い肌を持つドラゴンが佇んでいた。

「ちゃんとお別れはしたのか」

「ああ」

 小さな手荷物を一つ下げて、彼は友人に頭を下げた。

「迷惑ばかりかけて、すまない」

「もう慣れたよ」

 やがて一台のバスが二人の前に止まる。窮屈そうに入り口を抜けると、彼は見送りの友人に手を振った。

「またな、グレイ」

「またな……ライル」

 バスは一人のドラゴンを乗せて、セドナの街を去っていった。

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