9、戦いの季節

 空と海が見分けられないほど、真っ青に彩られたセドナの沖。それをバックにした海岸通りにはたくさんの物売りや見せ物が並び、物見遊山の人やドラゴンでごった返している。

 わずかに開いた隙間を通り抜けながら、アルト達はある場所を目指していた。

「しっかし、よくもこんなに集まったもんだな」

「今日はセドナ市の『海の祭り』なんですよ。ラグーンレースはその一環で……」

 背後で説明をしているテッドの声を聞きながら、アルトは砂浜の方に目をやった。

 そこには『ラグーンレース実行委員会』と染め抜かれたテントの群れがあり、翼を背負った背中が列を作っている。

「いよいよ、だな」

「う……うん」

 緊張で思わず喉を鳴らす仔竜の肩に、ファルスの手が触れた。

「さあ、まずは受付だ」

 なんとか頷くと、道路を降りて砂浜に立ち並ぶテントへと向かう。視線を左右に振ると『仔竜の部受付所』と書かれた看板が目に留まる。

 そこに並んだ列の最後尾に着くと、アルトはほっと息を吐いた。

「まずは一次予選だよ」

「でも、いきなりあいつと当たったらどうしよう」

「その時は、その時さ。なるようになる」

 そんな事を話している間にも、心臓が高鳴ってくる。気分を落ち着けようと必死になって深呼吸を繰り返すアルトを、前に並んでいた仔竜がうるさそうに振り返った。

「あ……アルトぉ!?」

「フィリオ……」

 その顔は、紛れもなく自分と同じクラスの仔竜の一人だった。瞳を限界まで見開いて、こちらを凝視していた彼は、ようやっと言葉を発した。

「こんな所でなにやってんの? ここ、ラグーンレースの受付だよ?」

「僕も……参加しにきたんだ」

 その言葉にまたしても沈黙し、フィリオは困ったような顔をした。

「テッド……アルト、本気なわけ?」

「もちろん本気だよ」

「……どういうつもりか知らないけど、やめたほうがいいよ」

 たしなめるというより、憐れむといった雰囲気にアルトのこめかみに少し力が入る。そんな気持ちも気付かずに彼は忠告を続けた。

「海の上の風と、練習場の風は全然別物なんだよ。昼はまだいいけど、夕方になると山風になるし……だいたい君、飛べるようになったの?」

「いや……その……」

「よう、ポテト」

 耳慣れた嘲弄が、アルトの言葉をさえぎった。反射的に振り向くと、黒いチュニックを着けた赤い仔竜が背後に立っている。

「これから受付か」

「……うん」

「少しは、ましになったのかよ?」

 小馬鹿にしたようなダンの表情に、アルトの心は静かに反転した。頭一つ分高い相手の顔を睨んで、声に精一杯の力を込める。

「戦ってみれば、わかるよ」

「……そーかい。せいぜい、がんばんな」

 素っ気なく言い放つと、ダンはきびすを返して歩み去っていく。その背中に向かって舌を出しているテッドをたしなめながら、ファルスは片目をつぶってみせた。

「緊張してた割には、いいタンカだったぜ」

「ありがと」

「アルト……もしかして、ダンと勝負する気?」

 訝しそうに問い掛けるフィリオに小さく頷くと、彼は大きく頭を振りかぶった。

「相手はラグーンレースで、三年連続の優勝者なんだよ!? そのダンに、君がどうやって勝つのさ!?」

「作戦はあるんだ。一応ね」

「作戦って……」

 絶句してしまった相手に、アルトはちょっと同情した。なにしろ、うまく行くかどうかも分からない、そんな作戦なのだ。

「おーい、そこの君たち! 受付の仔かい!?」

 気が付くと、列はずいぶん消化されていて、受け付けに並ぶ仔竜たちの姿もだいぶ少なくなっていた。

「早くしないと、もうすぐ締め切るよ!」

「それじゃ、ちょっと行ってくるね!」

 立ち去りぎわに軽く手を振るとテッドは黙って頷き、ファルスも何も言わずに親指を立ててみせる。遠くで鳴り響く花火の音を聞きながら、アルトは受け付けのテーブルへと向かった。


『……ありがとうございました。セドナ市長、マルロ・ロンディニウム氏でした』

 礼を欠かさない程度の適度な拍手が終わると、どこかに設置されたスピーカーからの声は、がらりと口調を変えた。

『それじゃ、開会式も終わったところで、これからが本番! 夏の終わりのお待ちかね、ラグーンレースの始まりだ!』

 今度は惜しみない拍手と声援、マイクの前の男も上機嫌で愛想を振り撒く。

『OK! さて、今年でもう二十八回目を迎えるこのレース、やるごとに盛り上がってきたもんで、よその街からのお客さんもだいぶ増えた。そこで、地元の連中には耳タコな話で悪いがここで内容とルール説明行ってみよう!』

「……最初の運は、あったみたいだな」

 フランクな調子でがなるアナウンスを聞き流して、ファルスは傍らの少年に話し掛けた。

「百を越す参加者がいるんですから、当たるほうがおかしいですよ」

「ま、そうだけどな」

 そう答えてから、眼下に目をやる。砂浜に設けられた観客席はどこも一杯で、結局二人は歩道脇のガードレール前に陣取っていた。

『この大会は二日間に渡って行なわれる。一日目は仔竜の部、二日目は成竜の部。競技は一次・二次の予選を通過したものだけが、決勝に進めるってわけだ!』

「アルトの方……大丈夫ですか?」

 最初の組の仔竜たちを運ぶ船を見つめながら、テッドは少し不安そうな表情をした。

「グレイさんとの練習、あんまりうまく行ってなかったように見えたけど……」

「あいつの要求することが高度すぎるんだよ。……まぁ、あそこまでしなきゃ、アルトが勝てる見込みもないってのが実際なんだが」

 太ったドラゴンは険しい顔をして首筋を掻いた。黒い友人の指導ははっきり言ってスパルタに近かった。セドナの隣町にある海水浴場で繰り広げられた厳しい指導、何度も止めに入ろうかと思ったくらいだ。

 だが、その成果は確実に出ている、そのはずだ。

「とりあえず、まずはタイムアタックを抜けられるかが勝負だ。あいつが海に落っこちないでゴールするのを信じようぜ」

「はい!」

『……は一度に八名ずつ。二次に進めるのは六十四名、タイムが良かった順だ。っと、そんなこと言ってるうちに最初のブロックの準備が出来たようだぜ!』

 自然と、ファルスの視線が海上のポートへと移る。テッドも持っていたザックからオペラグラスを取り出して、観戦に備えた。

「アルトは、何ブロックだ?」

「Fです。結構早いですよ」

『各竜位置について……今、スタート!』

 一斉に飛び立つ仔竜たち。小さな黒い点が、まっしぐらに砂浜を目指していく。

 だが、いくらも行かないうちに水しぶきを上げて海中に没していく者が出る。観客の中から残念そうな声や嬌声が漏れた。

『海の風に翻弄されたか、早くも失格者だ!』

 結局、辿り着けたものは四名、そのうち二名は大きく遠回りをしてゴールするはめになっていた。

『このレースは、セドナの荒っぽい風をどうやって乗り切るかが勝利の鍵だ! 風の神様は仔供だからって遠慮はしないぜ!』

「大丈夫、だよね」

 小声で呟くテッドの肩を、ファルスはそっと叩いた。

 二人が見つめる前で次々と仔竜たちが飛び立つ。あるものは砂浜へ辿り着き、またあるものは海へと落ちていく。

『さて、次はFブロック……』

「いよいよか」

「アルト……がんばってよ……」

 軽く目を閉じると、ファルスは視覚を望遠状態に調節した。近くの景色が霞んで、ポートに並ぶ八名の仔竜がかすかに分かる。アルトはちょうど真ん中に立ち、翼を広げて間隔を取っていた。表情までは分からないが固さは感じられない。

『係員のピストルが……鳴った! 今、スタート!』

 一斉に仔竜たちが飛び立つ。その集団が滑るように水平飛行に移る中、一つの影が高く飛び上がる。

「アルトっ」

「……大丈夫だ、いける」

 放物線を描いて青い仔竜の体がまっしぐらに海を目指す。その体が力強く引き起こされると同時にぐんと加速され、先行していた仔竜たちの群れをあっという間に引きはなした。

「やったっ!」

「【ポップアップスタート】成功だな!」

 過電症によって翼が常にプネウマが多い状態になっているアルトは、余剰な分を除去して飛行する必要がある。だが、迎角を下向きに取る方法は短距離には向いても、長距離では上昇気流を捕まえられる高度まで昇ることができない分不利になる。

 そのため一度スタート地点で高く上昇、プネウマ過多による墜落が起こると同時に迎角を下げ、通常の飛行軌道に戻る【ポップアップスタート】を使うことになった。

 グレイの指導によって必死で身に付けたスタート。見切りを間違えば水面に落下するが、スタート時の高低差によって普通の仔竜をはるかに越える加速が可能になる。今回の特訓で身に付けた秘策の一つだった。

 他の仔竜たちをはるか彼方に引き離した青い姿が、水面ギリギリの高度でまっしぐらに砂浜を目指し――

「ば、バカ! もっと高度を上げ――」

 ゴールの横断幕の下で盛大な砂埃を立ち上らせ、アルトはゴールした。

 陸に着いていために失格ではないようだが、観客の間から爆笑が沸き起こっている。

『気合い充分、スピードも充分。ど派手なゴールを見せてくれたゼッケン七十四番の……アルト・ロフナー君に、みんなで拍手ー!』

 巻き起こった歓声と爆笑にファルスは思わず顔を押さえ、テッドもうめき声を洩らした。

「入れ込みすぎるなって、散々注意しただろうが」

「はずかしいなぁ、もう」

『さてさてお次はGブロック……おおっと、ここで今年の優勝の大本命が登場だ!』

 実況の言葉に二人は顔を上げ、視線を交わした。

「……実際どうなんだ、あのダンとか言う奴」

「悔しいけど、実力は本物です」

 視覚を望遠に戻すと、ファルスはスタートの右端に陣取った、赤い仔竜に意識を集中した。

 ピストルの音と共に飛び出したダンは、他の仔竜より一回り大きな体にいっぱいの風を受けて矢のような速度でゴールを目指していく。そして、砂埃も巻き上げずにふわりとゴール。

『ゼッケン百十二番ダン・トリエスタ……今、一着でゴールイン! この調子なら、相当いいタイムが期待できそうだ!』

「嫌味なヤツ! あれじゃ、アルトが変に比べられちゃうじゃないか!」

「しかし……腕は確かだな」

 着地の瞬間を思い返し、ファルスは独りごちる。友人の姿を思い浮べる程に、見事なフェザータッチだった。

「感心してる場合じゃないですよっ!」

「いや、ちょっと、落ち着けって……」

 ものすごい剣幕で怒る少年をなだめながら、太ったドラゴンはふと、その瞳を覗き込んだ。

「なあ、どうしてそんなにアルトに肩入れするんだ?」

「え……」

「あいつが飛べなくても、友達として付き合うなら関係ないはずだろ」

 ほんの少しテッドはうろたえ、やがて頷いた。

「僕、小さい頃、自分をドラゴンだと思ってたんですよ」

「ドラゴン?」

「家の近くにちっちゃいポートがあって、そこから飛んでいく姿を見て、僕もああいう風になりたいって」

 子供の物にしては苦い笑みが、少年の口元に淡く浮かんだ。

「僕はいつか、なにかの拍子にドラゴンになるんだって思ってて。でも、初めての飛行の授業の日、僕がいたのはポートじゃなくて、バスケットのコートだった」

 相づちもはさまず、ファルスは視線だけで先を促した。

「それから五年生になって、泣きながら帰るアルトを見かけて……気が付いたら家に連れていってライルのビデオを見せてました」

「それが、応援するようになったきっかけか」

「アルトとは何度か遊んでたけど、家に呼んだのはそれが初めてで」

 海の彼方から、また仔竜たちがゴールを目指して飛翔してくる。テッドはオペラグラスを使わずに、それを眺めていた。

「翼を持っているアルトが飛べないってことが、何だか悔しかった。だから……」

「あいつを、飛ばせてやろうとしたんだな」

 少年は頷き、それからまた苦く笑った。

「でも、ライルがいなかったらアルトがラグーンレースに出ることもなかった。飛ぶことを教えたのはおじさんで……僕にできたのは、無責任に励ますことだけだ」

「んなこた、ないさ」

 ファルスは微笑んで、首を横に振った。自分にグレイがいたように、アルトにはこのヒューの少年がいる。ふと、そんな思いが浮かんで、麦わら色の髪の毛をそっとなでた。

「俺や……ライルは、きっかけを与えたに過ぎない。お前のしてきたことに比べれば、俺の役割なんて、大したことじゃない」

「ファルスさん……」

『……これで一次予選はすべて終了だ! 結果発表はそこの掲示板に、一位から書き込まれてくぜ。みんなしっかりチェックしてくれよ!』

 実況の言葉が終わらないうちに実行委員会のテントの傍らにある大きな黒板へ、係員たちがハシゴを使って名前とタイムを書き記していく。

「あのダンってやつは、一位か」

「そんなことよりアルトですよ!」

「……おじさん! テッド!」

 こちらの声を聞き付けたのか、青い仔竜が群衆を擦り抜けてこちらにやってきた。

「お前なあ、あれほどブレーキングに気をつけろって言っただろ?」

「うん。でも、飛んでるうちに速く飛ぶのでいっぱいになっちゃって」

「アルト、髪に砂が残ってるよ」

 大慌てで砂を叩き落としながら、アルトは黒板を食い入るように見つめた。

「僕、何位になってる?」

「まだ結果発表の途中……あ!」

「おおっ!?」

 アルト・ロフナーの名前は、十八位に記載されていた。

 三つの視線は同時に互いを見つめ合い、それから同時に歓声を上げた。

「と……通った! 通ったよ!」

「おめでとう、アルト!」

「ばっかやろ、まだ一次通っただけだぞ!」

 そんな事を言いながらも、ファルスは太い腕を廻してアルトの首を抱き寄せた。

「……でも、よくやったな!」

「この調子で、二次も頑張ってね!」

「お……おじさん、ちょっと苦し……」

 やっと手荒い祝福から抜け出すと、仔竜はあらためて協力者達に向き直った。

「ここまで来れたのは二人のおかげだよ。ありがとう」

『そういうのは』

 期せずして重なった声に、二人は思わず笑みを浮かべた。

「決勝であいつに勝ってからにしてくれ」

「そうそう」

 胸の奥がじわりと熱くなるのを感じながら、アルトは口元を引き締めて頷いた。


「まさか、アルトが通るなんてな」

 緑の肌の仔竜が口にした驚嘆に、隣で同じ物を見ていた少年もかぶりを振った。

「まだ信じらんねーよ。夢でも見てんのかな」

 だが、目の前にそびえる濃緑の掲示板に記されたのは、ポテトだったはずの仔竜の名前だ。

「なんかインチキしてんじゃねえの?」

「かもな。そうじゃなかったら……」

「……あいつ、四年のときはトップだったんだ。滑走だけは」

 素っ気なく言い放ち、赤い仔竜は掲示板に背を向けた。二人の取り巻きも後に続く。

「だからって、かないっこないよ、ダンには」

「それに、二次はレース形式だもんな。決勝に残れるのはブロックの一位だけだし」

「おい、チャーリー」

 不機嫌そうな表情で振り返るダンに、チャーリーは首を傾げた。

「な、なんだよ」

「飲むもの買ってきてくれ」

「何がいい?」

「なんでもでいい」

 緑の仔竜とヒューの少年が手近な売店を目指して歩き去っていく。赤い仔竜は込みあう会場に背を向けて砂浜を歩きだした。白く輝いていた日差しが少し弱くなり、消化されつつある二次予選の光景にわずかな影をそえている。

 やがて、ラグーンレースの喧騒が遥か遠くになると、彼は砂地に腰を下ろした。

 不機嫌な顔のまま服のポケットから何かを取り出す。透明な保護用スリーブに包まれた、一枚のカード。

「あんな奴に、あんたはもったいない」

 ライルのカードを見つめて、ダンは呟いた。

 アルトが彼のファンであることを知ったのは、ほんの偶然だった。いつも一緒にいるヒューの少年と、教室でカードをみて喜んでいた姿を見かけたのだ。

 四年の授業の時、自分よりも滑走の成績が良かった青い仔竜。そいつが全く飛べなくなったこと、そして、自分が誰よりも好きだったプレイヤーの失踪が結び合わないはずの二つを結びつけた。

 あんな奴がファンになったりなんかするから。

 赤い仔竜は苦々しい思いと決意を込めて、カードに誓った。

「それを、俺が分からせてやる」


 実った果実が色付くように太陽が深紅に染まっていく。その移り変りに呼び込まれた風が、複雑に入り組んだ山を抜け、街を、海を洗った。

『……セドナ・ラグーンレース仔竜の部もいよいよ大詰、決勝戦に突入だ。厳しい予選を経て決勝に辿り着いた小さな英雄達を待つのは……』

 情感たっぷりに沈黙が置かれ、突風がその空隙を埋める。

『アペン山地から吹き下ろす山風だ』

 いつしか、観衆から洩れる声はひそやかになっていた。海の彼方にそびえるポートを見つめる少年も、その傍らの太ったドラゴンも、口を開こうとはしない。

『成竜でも扱うのが難しいこの風を、彼らはいかに乗り切るか。それでは、決勝に残った八名を紹介しよう。まずは大会優勝の大本命ゼッケン百十二番、ダン・トリエスタ!』

 沸き起こる歓声と拍手。しかし、テッドは眉一つ動かさない。

『一次、二次と、タイム順位共に文句なしで一番グリッド獲得だ。続いてゼッケン四十番フォロ・ヴィンセント……』

 一人、また一人と名前が呼ばれていく。二人は息をひそめ、その時を待った。

『五番グリッドは本大会初登場! ゼッケン七十四番のアルト・ロフナー』

「アルトーぉっ! 頑張ってー!」

「負けんじゃねぇぞーっ!」

 山風を追い越すほどに、二人は声を張り上げた。


『五番グリッドは本大会初登場! ゼッケン七十四番のアルト・ロフナー』

 遠くからの実況が、霞んで届いてくる。それを耳に入れながら、アルトは救命具の確認を終え、辺りを見回した。

 夕暮迫るポートの上は、あの時と変わりがない。ただ一つ違うのは、自分よりも大きな仔竜たちが、ダンを含めて七名いることだ。

「係員に救命具を確認してもらったら、自分のグリッドについて!」

 次々と確認をすませて並んでいく仔竜たち。なるべく赤い姿を視界に入れないように、アルトは五番のスタートラインに立った。

 決勝戦はそれまでと違い、一直線に陸へは飛ばない。セドナの山風を背中に受けつつ、一度沖を目指し、浮かべられたブイを回り込んでからゴールへ向かう。

『そこに、勝つ道がある』

 ファルスの連れてきた黒い友人は、そう言って作戦を説明した。

『スピードを競うレースで、体が小さいってのは不利なんだ。翼の面積が小さいと風を受けにくいから速度は出ないし、どうしても勝ちに行きにくい』

『それじゃあ……』

『でも、君には二つ利点がある。今回教えた【ポップアップスタート】と、体の小ささだよ』

 体の大きな者は、悪い意味でも風の影響を受ける。特に、旋回をする時の軌道は、体の小さな者よりも大きく取らざるをえない。急激に曲がろうとすれば失速して揚力を失い、墜落してしまう。

『もともと小柄なドラゴンはコーナリングの軌道が小さいし、プネウマが多い君は多少無茶をしても揚力を失って失速しにくい』

『つまり、コーナーで勝負するってこと?』

『そうだよ。君なら多少強引にインをせめても大丈夫。最初に、ポップアップで加速して引き離されないようにする。そして近くに来たら、できる限りポールに間近でコーナリングするんだ。体を斜めに倒して、ポールに寄り添うようなイメージでね』

 それから今日に至るまで、アルトは毎日コーナリングを学んできた。もちろん、海の風にできるかぎり慣れるようにしていた。

 あとは、全力を出し切るだけだ。

 意を決した青い仔竜の脇に、すべての選手が並び終える。係員がピストルを高く差し上げ、身構えた。

「……位置について!」

 係員の声を聞きながら、アルトは自然と落ち着いていた。スタートラインの端で同じように身構える赤い姿を見ても気持ちはざわめかない。

 ざわめくよりも、強く脈打っている。

 誰よりも、早く飛びたい。

「よーい……」

 心が翼の先まで張り詰めたその瞬間、

 思考を貫くピストルの破裂音が、アルトの心と体を空へと解き放った。

 蹴りだした体が宙に飛び出し、上げ気味にした翼が風を切り裂いて全身が浮き上がる。その下を滑るように滑空していく色とりどりの仔竜たち。その先を行くダンの姿が見える。

 甲高い音と吹きつける風に負けないよう歯を食いしばる。本選は予選よりも二百メートルほど距離が長い。その分、プネウマの蓄積で失速落下する直前まで上昇する必要があった。意識を集中させて翼のすべてを感じ取る。

(来たっ)

 翼に走る失速感。学校での練習のとき、何度も感じていたあの『落ちる』感覚を翼から受け取って、アルトは体をすばやく前傾させた。

 音と風が加速して唸りを上げる。真下にあった先行集団の最後尾がみるみる近づく。その大きな背中たちの向こうに、追いかけるべき赤い姿が見えた。

 先行集団よりも下に位置取り、下向きだった翼を水平に引き上げる。途端に感じる音と風が切り裂くような高い音色に変わった。先行するダンを追いかける集団は彼の右手後方から、打ち合わせたように追いすがっていく。

 ドラゴンの翼が作り出した気流は、後方を飛ぶものにとっての乱流になる。それを避けると同時にコーナーを小さく回るために先行したダンの気流を受けない位置を取っているのだ。

 赤い姿が先行してポールを回る。体を斜めに倒し、ブレイズのプレイヤーを思わせるコンパクトで見事なコーナリングで旋回。後続集団を大きく引き離し、まだコーナーにも差し掛かっていないアルトの脇を飛びすぎる。その姿を見た瞬間、仔竜は胸の中でカウントダウンを開始した。

『相手との遅れは十五メートル以下に抑えないと勝つのは難しいよ。それ以上引き離されると、いくらスタートが良くても追いつくのは無理だろうね』

『十秒ってどのくらい?』

『……そうだな。そのダン君がコーナーを回ったあと、君が二十数える間にコーナーをパスできなかったら、そのぐらい距離が離れていると思ったほうがいいよ』

 ダンがターンした瞬間からすでに十一秒。アルトも翼を前傾させてさらに加速、他の仔竜が大回りをしたためにがら空きになったインコースへ、青い体が突進する。

 急速に近づいてくる縞模様のポールに、グレイの指導の声が再び脳裏に浮かぶ。

『近くに来たら体を斜めに倒して、ポールに寄り添うようなイメージでね』

『それならさ――』

 素朴な疑問をアルトは口にした。

『ライルみたいにコーナーにぴたっと張り付いて回るのはどうかな』

『……確かにコーナーを最短距離でパスできるけど、揚力のコントロールが難しいから急には無理だよ』

『でも、試すぐらいはいいでしょ?』

 グレイを説得して追加された特別メニュー。だが、あと少しというところで体のバランスが崩れ、きれいに回ることができなかった。だが、あの時の練習は、海の上に浮かんだ目印のブイを使ってやったものだ。今目の前にあるのは、ブレイズのものと良くにたポール。

 もしかすると、今ならできるかもしれない。

 逡巡は瞬く間だった。そして決断も一瞬。

 ポールに張り付くようにターン。まるでライルのように。

 何度も繰り返し見てきた動画のイメージにぴったりとあわせていく。全身の力を振り絞ってむりやり翼を、全身を捻らせる。

 ポールと自分の距離感がゼロになろうとした瞬間、

 爆発にも似た空気音を残し、アルトの体は大気を見えない螺旋を描いて抉りぬき、垂直に体を立ててポールを旋回した。


『これは驚き! アルト選手、ダン選手のさらにインをつく形でポールをスルー! 一気に距離を縮めたぞ!』

「す……すごい」

「……あいつ」

 まるで張り付くような旋回。一歩間違えればポールに激突しかねない攻めの姿。

「や、やった……すごいよ、アルト」

「……できた、のか」

 知らないうちに体が、声が震えていた。

 まだまだぎこちない、稚拙なコーナリング。それでもあの飛びは、

「すごい……ライルみたい……」

「……ああ」

 少しずつ近づく仔竜の姿を見つめるファルスの拳が、固く握られる。

「本当に、すごいな」

 だが、二人の見ている前で、飛翔するアルトとダンの影に異変が生じていた。

「あ……あいつ、また!」

 赤い仔竜が小刻みに動き、青い仔竜の進路を塞ぐ。先行しようとするアルトの動きはダンによって完全に封じられていた。

「またって……毎回やってんのか、ラインカットを」

「そうなんですよ! あいつ、ああやって毎回後続を海に落としてるんです!」

「なんて奴だ……」

「それよりもアルトですよ! 何とかならないんですか!?」

 すがりつくテッドの体を抑えながら、ファルスはもがく仔竜に向かって絶叫した。

「ちくしょう! 負けんじゃねぇっ、アルトぉっ!」


 歯を食いしばって、アルトは先行するダンの背中をにらみつけた。

 ぴたりと自分の前を塞ぐ赤い仔竜。まるで後ろに目でもあるかのようにこちらの動きを読んで進路に割り込んで来る。しかも、その翼が切り裂いた大気が乱流となってアルトに襲い掛かる。ブレイズでは当たり前のテクニックとして使われるラインカットと呼ばれる技法だが、まさか自分がそれを食らうとは思っても見なかった。

 しかも、山風が刻一刻と強くなり、自分の体と翼をさらに攻め立て、体を揺さぶり疲労が積み重なってくる。焦るアルトの目の前に砂浜が、ゴールの横断幕が近づいてきた。

 追い越せない赤い姿、その向こうにあるゴール。

 このまま二位になってしまえ、そんな心が一瞬沸き起こる。だが、仔竜は即座にその意識を握りつぶした。

 たどり着きたい、あそこまで。あいつよりも速く。意地が必死に答えを探そうともがく。

 下は無理だ。海面との距離はもう十メートルくらいしかない。海に落ちて終わりだ。

 左右の動きは完全に読まれている。大きく外せば避けられるかもしれないが、その分開いた距離を挽回できる速度がない。

 上――。確かに上空に行けば高低さによる加速が可能だ。それでも結局は左右に避けるのと同じで、相手との距離ができる。上昇している間にもダンは先に行ってしまう。

 ほんの一瞬、わずかな間だけダンが止まってくれれば。

 そんな、ありえるはずのない願いを一陣の山風が拾い上げた。

 セドナを囲む山々から吹き付ける風、洪水のような乱流に叩き落され、冷たい海に投げ出された敗北の記憶。

 だが、あの風を利用すれば、自分が求めている勝利への可能性が手に入る。逆に、自分がイメージしたとおりのことが起こらなければ海に落ちて一巻の終わりだ。

 それでも、このままあいつのケツを見て飛ぶよりずっといい。

 そして、心の中に浮かんだライルのイメージと重なったとき、青い仔竜は静かに燃えた。

 ライトニング・フォール。答えはそこにあった。

「やるよ、ライル」


『さあ、ゴールまで約三百メートル……おおっと!? どうしたアルト選手、ここでずるずると後退! なぜかどんどん体を高みに引き上げていくぞ!』

「あ……アルトぉっ! 諦めちゃだめだよぉ!」

「いや……そうじゃない……」

「それって、どういう……」

 ファルスは声を掠らせ、青い仔竜を見つめた。その意図を読んだ顔が驚愕と戦慄に引きつっていく。さっきから強くなる山風、その突風よりも一瞬速く急降下を掛け、同時にその風を受けながら揚力を回復してゴールするつもりだ。

 <自分>が得意にしていた【ライトニング・フォール】の応用。

 だが、一歩間違えば急降下したときの勢いを殺しきれずに海に叩きつけられる。アルトは意識していないだろうが、あの高さから落ちれば水も地面と同じぐらいの固さを持つ。

 しかも、海に出て日の浅いアルトではいつ突風が吹きつけるかも分からないはずだ。

 ファルスの心の中で、あの時の自分と仔竜の行く手に待つ運命が重なる。

「やめろアルト! いくらなんでも無茶だ!」

 次第に荒れていく気流の上を舐めるように翼を動かして、アルトは体を押し上げた。ダンとの距離が広がり、その姿が目線の下になっていく。

 歯を食いしばると、青い仔竜は相手の動きに一切を集中させた。

『いよいよゴール目前! あと二百五十……二百……百五十……』

 その時、赤い仔竜が首を持ち上げようとしたのを、彼の瞳ははっきりと捉えた。

「いっ……っけえっ!」

 勢い良く、青い仔竜は自分の体を斜め下へとねじ込んだ。引力と急降下によって生み出された加速力に、周囲の大気が悲鳴を上げる。

 風圧のため閉じかけた瞳の向こうに、アルトは追い抜くべき相手を見た。

「うおあああっっ!」

 青い疾風と化した仔竜は求めるべき敵の脇をすり抜け、そのまままっしぐらに海へと突き進んでいく。

『なんということだ! アルト選手玉砕覚悟の急降下でダン選手を突破! だがこのままでは海に落ちてしまうぞ!』

「落ちて……たまるかあっ!」

 眼前に迫った水面から、渾身の力を振り絞ってアルトが全身を引き起こす。

 次の瞬間、全てが同時に起こった。

 爆発するような水しぶきと、それを一瞬で洗い流す山からの突風。そして、水の壁を突き破ってゴールを目指してきたのは――

「アルト!」

 テッドの叫びにファルスのうつむきかけた視線が上がる。水面ギリギリを飛翔する姿。プネウマ過多の特性と体の軽さ、そしてかつての<自分>の技が、一つに結実したその姿。

 こちらへ向かって突き進む仔竜に向かって、ファルスは腹の底からの声で吼えた。

「いけえっ、アルトぉ!」

『なんと! なんと! 水面近くで体勢を立て直しアルト選手、山風で揚力を回復! そして今……ゴー……』

 砂が、爆発したように巻き上がった。

 ゴールの横断幕の下に小さな丘ができあがっている。全ての視線がそこに釘づけになった。

『え……えー、ゴールしたアルト選手……果たして大丈夫、なのか?』

「あ……ああ……」

「あの、バカ……」

 観客が複雑な感情を持て余している頃、ゴールから百メートルほど離れた海中から、赤い仔竜がひっそりと助けだされていた。

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