8、弱い者、強い者

 窓からの光が、瞼の裏まで貫くような強さで差し込んでくる。

 ベッドの上で身じろぎをして、アルトは太陽の脅威から顔を逸らした。

「アルト!」

 階下からの母親の呼び掛けに、仔竜は再びうごめいた。

「アルト! テッド君が……」

「帰ってもらって!」

 そう言い放つと、ずり落ちていたタオルケットを頭から被る。

「なに言ってるの! 早く降りてらっしゃい!」

「いいから帰ってもらって!」

 苛立ちに満ちた沈黙の後、足音が階段から遠ざかっていく。玄関先でのやりとりを終えて、気配が引き返してきた。

「……テッド君と喧嘩でもしたの?」

「とにかく会いたくないんだ。ほっといて」

 呆れたようなため息を残して、母親が去っていく。いつのまにか力んでいた体を弛ませて、アルトはベッドに沈み込んだ。

 静まり返った部屋の中に、秒針が時を刻む音だけが響いている。

 ふと、思い出したように枕元に置いた雑誌をめくり、無造作に閉じる。そんなことを繰り返している内に、仔竜の心に去来するものがあった。

 ダンの事やファルスの言葉、その一つ一つに怒りや悔しさが沸き立ち、冷たい塩水の記憶と共に、気持ちが深く暗い底へ沈み込んでいく。

 そんな悶々とした時間が過ぎ、やがて仔竜はベッドから体を起こした。

「ちょっと、出てくるから」

 短い断りを残して、アルトは家を出た。

 外は相変わらずの陽気で自然と汗が滲んでくる。歩きながら、仔竜は少し困っていた。

 別にどこへ行こうという訳ではないが、自分の馴染みの場所ではテッドに出くわす可能性がある。ましてやポートの公園でファルスに会うなど願い下げだ。

 十字路の前で立ち止まった時、仔竜の目に大通りの向こうへと続く、なだらかな坂道が映った。あそこなら、どちらとも顔を会わせなくて済むだろう。

 青になった歩道を渡ると、アルトは坂を登って学校に向かった。

 門のところから眺めると練習用ポートから飛び立っていく仔竜たちの姿が見えた。練習を見ている先生に気付かれないよう、塀伝いに練習用ポート近くへと歩み寄る。

 一人の仔竜が一番下のポートから飛び出し、下のマットへと落ちていく。その姿に、アルトはそっと呟いた。

「そっか……もう、飛べるんだよな」

 夏休みが始まる前、自分は落ちるためだけにここへ来ていた。心のどこからか、タールを塗った木の天井や、何度も必死になって走った校庭のグラウンドが浮かび上がってくる。

 自分はもうポテトじゃない。一番高い飛翔口からも、自由に飛んでいく事ができる。

「それでも……あいつには勝てないんだ」

 言葉が、自嘲を含んでこぼれ落ちた。海原を渡る風と潮の冷たさがよみがえり、赤い仔竜の勝ち誇った顔が目の前をちらつく。

 唐突に、藍色の顔が記憶に割り込んだ。

『お前が勝ったからって、ライルが戻ってくるわけじゃないだろ』

 ファルスの言葉はあまりにも冷静で、冷淡だった。

 そして彼の態度が、自分をこんなにも切なくしているのだと、アルトは気が付いた。

 始めて逢ったときから、どこか普通の大人とは違っていた。自分の内に秘めた悩みや迷いを優しく受けとめてくれてきたのだ。

 正直、アルトはファルスが何かの秘策を持っていると期待していた。もし無かったとしてもきっと応援してくれると思っていたのに。

『根性なしのプレイヤーなんかのために、お前が体を張ることはない』

 思い出された言葉に、胸がきりきりと痛む。ファルスの裏切りとライルに対する喪失感が、震えるような絶望を呼び覚ます。

「どうしてなんだよ……」

 呻いてうずくまった仔竜の周囲で、いつかの冷気が広がっていた。


 薄暗い部屋の中でファルスの太った体が限界まで縮こまる。それでも、恐怖の記憶を追い出すことはできなかった。

「う、ぐっ」

 こみ上げた吐き気が洗面所に追いたて、押し込んだ食物が盛大にぶちまけられる。洗面台が汚物で汚れ、それでも胃液が、苦痛がこみ上げるのが止まらない。

 ファルスは顔を上げた。

 ガラスの向こうから、だらしなく膨れた男が涙目で見返してくる。口元も上着も汚物と食べかすで汚れ、苦痛と悲鳴にまみれた荒い息を吐き出すデブ。

『ライルは、根性なしなんかじゃない!』

 洗面台のふちについていた両腕ががくがくと震えた。その振動が痺れになって全身を包み、体の力を奪っていく。膝を突いたファルスの脳裏に、涙目の仔竜の叫びが容赦なくリフレインし続ける。

『帰ってくるって信じてる!』

「……うるさい」

『ダメなんだよ! 今年じゃなくちゃ!』

「やめろ……」

『僕は今でもライルが好きなんだ』

「おねがいだから」

『絶対、帰ってくるんだ!』

「やめて、くれ」

 最後の言葉は形にならなかった。振り絞った苦悶は湿った音にまみれて、胃液と一緒に吐き出されていた。


 外には夏特有の、鋭利に尖った刃物のような金属質な光が満ち溢れていた。すっぱい匂いと悪夢の詰まった部屋からさまよい出たファルスの体が、熱気を含んだ大気に一瞬たじろぐ。

 その心の隙に、地獄の記憶が滑り込んだ。

『全身の三分の二に重度の火傷、翼肢を始めとする十数箇所の骨折……実際生きているのが不思議なくらいですよ』

 眠っていると思ったのか、ベッドの側で医者はそう語った。

 見舞いにきていたチームのクルーが洩らす、安堵と失意の混じった溜息。

『……委員会は、あれを危険行為として処分するそうだ』

『これで……今年は終わりですね……』

 病室から誰も居なくなり、体が痛むほど強く噛み締めた奥歯。それは、絶対の再起を誓った一瞬でもあった。

 言い渡された安静期間を一月も短縮して、リハビリは強行された。

 飛ぶどころか、動く事さえままならない体を待っていたのは、補助具を使っての歩行訓練だった。病気や怪我をした者、レッドカードで処分を受けた者に混じって行なう作業に、焦燥と屈辱が降り積もっていく。

 全てのプログラムが終了し、ようやく馴染み深い場所に帰ってきたのは、事故から半年も経ってからだった。

『いきなりで大丈夫か?』

『シーズンまで三ヵ月を切ってるんだぜ。もたもたしてたら新人に叩き出されちまう』

 笑顔をつくろい、フェイスガードでそれ以上の本心を覆い隠す。自分より少し前に立つ、真新しいスーツの集団を見る目が自然ときつくなる。

『意外に早かったな、ライルの復帰』

『でも、噂じゃまだあちこちガタついてるらしいぜ。それにあんだけの大事故だ、しばらくは前みたいな飛びは無理さ』

『その隙に実力を見せつけて、次のレギュラーに俺がなるってわけだな』

『なに言ってんだか。俺に決まってんだろ』

 冗談じゃない。そう毒付くとスタートラインに立ち、カタパルトに足を掛ける。たった半年いなかったぐらいで、ケツから殻も取れていないようなガキに舐められてたまるか。

 だが、彼方に揺らめくジェットスポットを眺めたとき、小さな違和感がよぎった。頭を軽く振るとホームストレートに滑り降りる。加速していく世界の果てに、銀色の箱型が次第に大写しになっていく。

 以前のように体を持ち上げ、ジェットスポットの息吹に体をさらそうとした瞬間――

『うわあぁっっ!!』

 喉から絶叫ほとばしっていた。気が付いた時には体はコース外のネットに抱き留められ、呆然としたまま空から降りてくる救護班の姿を見つめていた。

『パイロ……フォビア?』

 呆然としたこちらの復唱に、医者はゆっくりと頷いた。

『火炎恐怖症は、ブレイズのプレイヤーが罹る<病気>としては、それほど珍しいことではありません。スポットでの事故を起こした者の場合、大体二割程度がこの症例を』

『そんなことはどうでもいいんだよ! 薬でも催眠療法でも何でもいいから、今すぐ治して俺を空に戻してくれ!』

 医者がゆっくりと首を振る。その瞳には同情も哀れみもなく、冷たい事実を突きつける光があるだけだった。

『この症例に関しては根気強い治療と、何より時間が必要です。残念ですが、あなたを魔法のように空に戻す方法はありません』

 その一言が終わるよりも先に胸倉を掴み、殴っていた。そんなことが何の手立てにもならないと、心が認めてしまうまで罵り続けた。その行動すべてが陳腐で、ありきたりな抗いだったとしても。

 心の疵は肉体の傷以上に、癒しがたかった。

 幾度となくスポットに向かい、その度に体は拒絶した。繰り返されるカウンセリングと、あきれるほど好転しない病状。やがて拒絶はスタートポートに立った瞬間に嘔吐を催すほど、深く進行していた。

『仕方がない、今シーズンは諦めろ』

『な……なに言ってるんだよ!?』

 発した声は抗議や怒号ではなく、悲鳴と哀願だった。

『俺は大丈夫なんだ! だから……』

『引退しろとは言ってない。だが、今のお前はレースには出せん』

 さえぎるように発された言葉が、酷薄な響きで胸に突き刺さる。

『チームは、お前だけのためにあるんじゃないんだ』

 その日から、ポートへ近づく機会は急速に失せていった。マスコミの追求を振り切るためにホテルを転々とする毎日。チームに連絡することも少なくなり、耐えられない孤独感の中、無駄なカウンセリングが続いていく。

『お泊りでしたら、ここにサインをお願いします』

 書き付けたのは自分のものではない名前。半ばやけくそになって書いたFALES(偽り)という名前。ニセモノを意味するその言葉が、本名を書きつけた数を越えていく。

 そして、

『ライル・ディオス選手を、当チームから除名することに決定しました』

 一人のプレイヤーがブレイズの世界から消えた。

 本人不在の記者会見。何度も呼び出しを受けながらエージェントに会わず、チームの誰とも一切連絡を取らなかった末の、結果だった。


 気が付くと、ファルスはぐったりと道の端の木陰に座り込んでいた。全身から汗をだらしなく流し、熱と追憶の苦しみで痛む頭を幹に押し付けて。行き交うヒューやドラゴンが、怪訝そうに眺めすぎていく。

 まるで、自分の体に充満したウソを暴こうとするように、じっと。

 その視線を避けようと、太った体が身じろぎした。

 違う、違うんだ。

 俺は、

「おい」

「っ!?」

 声にならない悲鳴を上げて声のする方を振り返ると、不安そうな表情でこちらを伺う友人の姿があった。

「……グレイ」

「ひどい顔だな。何があった?」

「なんで……ここに」

「あんな電話が掛かってくれば、全速で来るに決まってるだろ!」

 覚えが無かった。ゆっくりと首を振ると、グレイは携帯電話の着信履歴に自分の名前があることを示し、それから言った。

「とにかく、まずは落ち着こう」

 やってきた喫茶店の中に客はいなかったが、二人はあえて奥まった席を選んで座った。程よくかかった冷房に、乱れていた感情がほんの少し和らぐ。

「俺は、なんていってた」

「……『助けてくれ、グレイ』」

 絶句してしまったこちらの顔を見てグレイは慌てたように口を開き、結局何も言わずにメニューを手にした。

「何か食うか? 大急ぎで来たからメシもまだ」

「グレイ」

「……なんだ?」

「新しい家を、探してくれ」

 メニューを置くと、黒いドラゴンはこわばった体をほぐすように吐息をついた。

「家を探すのは構わないけど、理由くらいは聞かせてくれよ」

「理由なんてない」

「……じゃあ、よそに移る理由もないだろ?」

 反射的に友人を睨み付けるが、相手は穏やかな視線のままこちらの返事を待っている。

 やがて言葉は、自然と口を突いた。

「アルトがな……好きなんだとさ」

「……誰を?」

「ライル・ディオス」

 グレイの表情が、微かな動揺と当惑を張りつけて固まった。掛けるべき言葉を見付けられない友人に先んじて言葉を継ぐ。

「ポスターも、インタビューの記事も、みんな持ってるって言ってたよ」

「……」

「あいつが俺に飛び方を教わった本当の理由、何だと思う?」

 押し殺した声の内側に宿る焼け付くような痛み。知らない間に、体が震えていく。

「ライルのカードを取られて、バカにされたからだと。絶対に、ライルなら帰ってくるって……言ったんだよ」

 注文を取りにきたらしい店員が、只ならぬ気配を察して去っていく。グレイは無表情に近い顔で、こちらを見つめていた。

「仔供ってのは恐ろしいよな。そいつが今どこに居て、どんな姿なのかなんて想像もしないんだから」

 涙でにじんだ仔竜の顔が、胸を締め付ける。

「俺はもう、あいつの前に現われたくない。だから頼む、どこか遠くに……あいつの知らないところに、家を見つけて欲しいんだ」

 告白を終えると、彼は友人の返事を待った。

 グレイは黙ったまま時が移ろうのに任せ、やがて口を開いた。

「一つ、聞かせてもらえるか?」

「……何だ?」

「どうして、お前がいなくなる必要があるんだ?」

 茫然と口を開けて、グレイの落ち着いた黒い顔を覗き込んだ。

「だって……俺は……」

「お前は、ファルスだろ」

 淡々とした言葉が、太った体をその場に縛り付ける。それでも必死にもがいて逃げ出そうとする自分に、友人は言葉を続けた。

「確かに、俺にはブレイズをやってた友達がいた。でも、あいつはもういない。レース中の事故でジェットスポットに落ちて死んだ……」

「グ、グレイ……」

「……あの時、お前はそう言ったよな」

 そう告げた瞳には、一切の皮肉も揶揄もない。あるのは、全てを透徹するような意志の光。

「お前が本当にファルスなら、その仔がライル・ディオスを好きだからって、どうってことないはずだろ」

 返事をするべく、口は開かれた。

 そして、そのままの姿勢で凍り付くより他に為す術のない自分がそこにいた。

「……ウソに、決まってるだろ」

 うつむく体をテーブルで支えて呟く。

「俺は、生きてるんだぞ。生きて、全部覚えてるんだぞ。忘れるなんて、できるかよ」


『……お前、もういい加減にやめとけよ』

 薄汚れたアパートの一室でジャンクフードをむさぼっている自分。長い運動不足と、ストレスが原因の過食によって、その体はすでにスポーツ選手のものから逸脱しつつあった。

『現役復帰はどうするんだ。チームから除名されたって、まだ……』

『もう、いいんだ』

 フライドチキンと一緒に胸からこみ上げてくる苦しみを飲み込むと、ファルスはグレイに笑いかけた。

『正直、空を必死になって飛ぶのは飽きてたんだ。節制もトレーニングもうんざりなんだよ』

『それで、いいのか?』

『ブレイズプレイヤー、ライル・ディオスはもう死んだ。あの時スポットに落ちた時にな。俺は、ファルスだ』

 自分が太って来たことも、不摂生が止まらないことも分かっていた。治療の効果は上がらず復帰もできず、そんな毎日が嫌でしょうがない。だからまた食って、家に閉じこもる。

 今はまだ、誰もこのことを知らない。目の前にいる気のいい友人以外は誰も。

 このまま消えてしまえば、ライル・ディオスは数ある『失踪した有名人』の名簿の中にしまわれてしまう。そうすれば誰も、無様に醜く太った自分がライルだとは気付かない。

『俺はもう、ファルスでいいんだ』


 そうして自分は別の存在になった。はずだった。

 その偽りをアルトが全部暴いてしまった。自分が未練たらしく過去にしがみついている臆病者だということを。両腕をテーブルに付き、崩れ落ちそうになる体を支えながらファルスは声を絞り出した。

「なぁ、グレイ……。俺は、どうしたらよかったんだ? 何を聞いても同じようなことしか言わないカウンセラーに神経を削られて磨り減っていればよかったのか? それとも、本当にあのままスポットに落ちて焼け死んでれば良かったのか!?」

 一言口にするたびに、惨めさが内側から染み出てくるようだった。誰にも見せないように隠し続けていたものが、とめどなくあふれ出る。

「どんなにやっても、ダメなんだ。……怖いんだ。思うだけでも怖いんだ。大丈夫だって思って、もう一度戻ろうと思っても、あそこに立つたびに怖くなるんだ。意地張っても、ごまかしても、思い込んでもダメなんだ。怖くて……怖いんだ」

 吐き出すたびに自分が小さく萎んでいく。無価値が頭を押さえつけて、体がぐったりと座席に沈み込んでいった。

「でも、そんなこと言えなかった。誰にも知られたくなかった……そんなこと知られたら、俺は、二度と戻れなくなっちまう……」

 誰にもいえなかった一言があふれ出る。チームの人間にも、カウンセラーにも、目の前の友人にすら。

「俺は……」

「分かったよ」

 握り締めた青い拳に黒い手を置いて、友人は言った。

「家は探しておく。ただ、すぐには無理だから、ちょっと待っていてくれ」

 その一言で全身の緊張がほぐれていく。自分の体の素直すぎる反応を恨めしく思いながら、ファルスは呟いた。

「……なぁ」

「なんだ?」

「俺のこと、根性なしだと思うだろ」

「……ああ。そうだな」

 率直な返事に自嘲の笑みを浮かべて顔を上げると、グレイはじっとこちらを見つめていた。

「でも、そんなことはどうでもいい。……お前がファルスになった日、俺は言ったよな。『お前が誰になろうが、俺はお前の友達だ』って」

「……ああ」

「お前がブレイズのプレイヤーでなくなろうと、根性があろうとなかろうと、それは変わらない。そのことだけは、忘れないでくれ」

 知らずのうちに、深く息をついていた。

 胃の不快感が消えていく。抱えて続けてきた重いものが、恐怖が、呼気と一緒に体から抜けていくような、そんな気分だった。

「ありがとう、グレイ」

 感謝の言葉に、黙って友人が頷く。

 ファルスは、もう一度深く息をついた。その一呼吸が、自分にとって久しぶりに吸う空気であるかのように。


 店を出ると、セドナは夕暮れの光に包まれ始めていた。友人と別れ、のっそりと歩道を歩いていく。行きかうヒューやドラゴンの間を縫うようにして、どこを目指すわけでもなく。

 立ち並ぶ店を見るともなしに見ていた太ったドラゴンの目が、一軒の店に吸い寄せられた。

 ヒューやドラゴンの子供たちが群がる玩具店に自然と足が向く。迷惑そうな子供たちの間をすり抜けてカード売り場の棚へと歩み寄る。

 太い指がブレイズのカードパックを取りだし、その包装を見つめた。

 表面に印刷されているプレイヤーに見覚えはなかった。その胸元に刻み込まれた<シエル・エアリアル>のチームロゴ。

「そうか」

 腹の奥がむずがゆくなって、自然と笑いがこみ上げてきた。

 自分が苦しみ迷っている間も時間は進む。ブレイズプレイヤーの候補生は毎年百人単位でやってくる。その潮流の中では、どんな有名プレイヤーもあっという間に過去へと消え去っていく。自分の固執と裏腹に、ライル・ディオスはすでに過去になっていたのだ。

「そうだよな」

 くすくすと笑いながら彼は外に出た。自分の中に残っていた最後の未練を、見知らぬ選手のパックと一緒に店に置き去りにして。

「俺は、ファルスなんだ」

 その呟きを、唐突に吹き降ろした山風がかき消した。

 突風がファルスの脳裏にびしょぬれの青い仔竜の姿が思い起こさせた。この世界でおそらくたった一人、ライルが帰ってくることを待っている存在。

 だが、その待つべき相手はもういないことを、自分が一番よく知っていた。

 そのことに思い至ったとき、痛みが戻ってきていた。恐れや拒絶から来るものではない、あらゆる意味での悔悟を源にした痛み。

「ごめんな、アルト」

 再び押し寄せた山からの風が、引き潮のように言葉をさらっていく。誰もいない空間に投げられた謝罪が虚空に消える。

 バカか俺は。

 本人に言わなきゃ、意味ないだろ。

 太った体がゆっくりと、それでも明確な目的を持って動き出した。いなくなった男を待っている仔供に、思いを伝えるために。


 砕けていく波頭と、吹き下ろす山風。

 沈む太陽が海原を黄金に染め上げていくのを、アルトはただ見つめていた。

 湾のほぼ中央に屹立する競技用のポート。いくつもの影がこちらを目掛けて飛んでくるが、その大半が道程の半ばであらぬ方向に曲がり、水面に吸い込まれていった。

 自分の寄り掛かった堤防の下には砂浜が広がり、そこで遊んでいる人の声が響いている。

「……ここに、いたんだ」

 背後から掛かるテッドの声にあえて返事をせず、仔竜は海を眺め続けた。

「家に行ったら出掛けたって聞いてさ、あちこち探したよ」

「ごめん」

 右隣に陣取ると、テッドはアルトの顔を覗き込んだ。

「どうするの……これから」

「わかんないよ」

 投げやりでも絶望でもなく、素直な気持ちがそう言わせた。

「でも、さ。ここに来たってことは、やる気はあるんだよね?」

「わかんない」

「だって……それじゃ……」

 困惑した少年の表情に、アルトは苦笑いを浮かべ、問いかけた。

「あのさ、初めて会ったときのこと、覚えてる?」

「……うん」


 今日までに至る最初の日。一度も飛べる兆しを見せなかったアルトを、同じクラスの仔供達がはやしたてて去っていく。

 泣きながら坂を下っていく自分の前に現われた、一人の少年。

『な、にか、よう……?』

『……嫌じゃなかったら、今から僕の家に来ない?』

 訳も分からずに連れていかれた彼の部屋を埋める、ドラゴンたちの姿。漆黒や紅、碧のドラゴンの中にライルの深い蒼を見つけたとき、アルトは驚きと喜びで自分の涙が星上げられるのを感じていた。

『君も……ライルが好きなの?』

『うん。そういえば君、ライルのデビュー戦って見たことある?』

 それまでほとんど話したこともなかったが、その日以来、アルトとテッドはいつでも一緒にいる友達になっていた。

『……僕、ライルみたいになれるのかな』

 初めてテッドの家に行ったその日の帰り際、そう呟いたアルトに、ヒューの少年はにっこりと頷いた。

『なれるよ』

 その言葉にはそれから今日まで続く根拠の無い、それでいて励まされる確信で満ちていた。

『がんばれば、必ず君も、あんな風に飛べるようになる』


「初めて見たときからずっと、僕はライルを見てきた」

 俯いて、アルトは呟いた。

「サーキットで見たあの日から、こんな風になりたいって」

「うん」

「それに、ライルが活躍して、勝つのが嬉しかった」

しかし、そんな幸せはライルの失踪と、自分が少しも飛べないポテトの仔竜であるという現実に打ち砕かれた。

「でも、あの事故で……ライルがいなくなって、僕は……飛べなくて」

「アルト……」

 テッドのなぐさめを遮ると、アルトは喉に詰まったしこりをなんとか飲み下す。

「……だから僕、今度のことは悔しかったけど、ちょっと嬉しかったんだ」

 切り裂かれるような、針で貫かれるような、そんな痛みが胸を苛んだ。食いしばった歯の間から憤りが漏れる。

「やっと、僕も、何かライルに、してあげられるって」

 合わせていた顔をそっと外して、テッドも同じように海を見つめた。

「でも……それが、だめに、なっちゃって……いっぱい、もらったの、に」

 隠しようもない涙が、食いしばった顎の下へと伝わり、嗚咽で声が嗄れていく。

「やっと……とべたの、に……」

 それ以上の言葉が続けられず、仔竜はただしゃくり上げたまま、海を見つめた。

 何もかもが重くのしかかっていた。目指すべき所は分かっているのに、辿り着く術が見いだせない。やれば確実に負けるだろう、それが痛いほどの現実になって肌を刺すようだった。

 だが、それでも何かが納得いかなかった。こんなところで終わりたくない。

「あきらめたく、ない……よ」

「……やればいいじゃないか」

 怒ったような声で、少年は仔竜の呟きに応えた。

「やりたいなら、やればいいんだ!」

「……テッド?」

「ファルスさんは無理だって言ったけど、そんなことどうだっていいじゃないか! ダンとの勝負は、君がやるって言い出したんだよ!?」

 荒々しくアルトの両肩を掴むと、テッドは真正面からこちらを睨んだ。

「あの時は、ほんの少しだって勝てる見込みはなかった! でも、君はちゃんと飛べるようになって、あいつと同じ場所で戦えるようになったんだ!」

「でも……勝てなきゃ、ライルが……」

「勝ち負けなんてスタートして、ゴールしてからの話だろ!? こんなところでうじうじして……ポテトになってる君に何が分かるんだよ!」

 それ以上言葉が続けられず、テッドは何も言わずにアルトの胸へ頭を押しつけた。

「そう……だよね」

 胸の奥を渦巻いていた迷いが、吹き払われていく。

 できるからやるんじゃない、できなくてもやる。ダンとの勝負を決心したとき、自分はここでそういったはずだ。

 自由にさせてもらえない両手をぎこちなく廻して、仔竜は少年の背中を抱いた。

「やってみるよ」

「本気で、やるつもりなのか」

 いつのまにか目の前に佇んでいた丸い影は、囁くようにアルトの言葉を引き取った。

「おじさん……」

「勝てないどころか、下手すりゃケガするかもしれない、それでもか?」

「うん」

 夕暮の公園の時のように、間に割って入ろうとするテッドを制して仔竜は頷いた。

「負けたら……ライルのカードは、取られちまうんだぞ?」

「だから、悩んだんだよね」

 いつのまにか、うまくやる事だけを考えていた。飛ぶことすらままならなかった、過去の姿を忘れて。

「でもさ、逃げたら絶対に手に入らないんだ。だったら、やるしかないんだ」

「ずいぶん……強くなったもんだな」

 そう言って目を細めるファルスに、アルトは照れ臭くなって頭を掻いた。

「そんなことないよ。テッドに言われなかったら、やめてたかもしれないし。ただ……」

「ただ?」

「あいつに負けたくないって、思っただけなんだ」

「……は……ははっ、ははははははは」

 突然、弾けるように笑いだした太ったドラゴンを、二人は呆気に取られて見つめた。

 やがて、思うさまに爆笑してしまうと、彼は真顔になって深く頭を下げた。

「悪かったな……その、ライルのこと」

「……うん。でも、どうしてあんな事」

「いや、その……なんだ……」

 わずかに口篭もると、ファルスは暮れかかった空に顔を向けた。

「む、昔、俺の友達で……似たような無茶を、やった奴が居てさ……つい、な」

「そうなんだ……」

 そのまま会話が途切れ、二人は互いを探るように視線を合わせ、言葉を転がした。

「その、なんだ……」

「あ、あのね……」

「もう一度、アルトのコーチになってくれませんか?」

 驚いて振り返ると、テッドはいかにも世話が焼けるといった表情で、肩を竦めた。

「外を飛ぶコツを教えてあげられなくても、ファルスさんがいてくれるなら、アルトも心強いと思うんですよね」

「そいつは、できないな」

 意外な言葉で不安いっぱいになった仔供達に、ファルスは柔らかく微笑んだ。

「今回はコーチじゃなくて、お前の応援に徹するつもりなんだから」

「……おじさん!」

「それに、コーチだったら、とっておきのスペシャリストのあてがある」

 青い仔竜は首を傾げ、ふと思い出した。

「そっか、おじさんの友達!」

「あいつなら、いい方法を知ってるかもしれない。今日中に聞いておいてやるよ」

「それじゃあ……」

「明日から、練習再開だ」

 そう言って頷くファルスの顔を見ているうちに、アルトは自然と拳を固めている自分に気が付いていた。

 だが、今度は悔しさのそれではない。

 夕日に浮かび上がる尖塔の影を見つめ、アルトは決意を込めて力強く頷いた。

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