7、裏切りの世界

「そういえばさ」

 照り返す強い日差しに目を細めながら、アルトは傍らを歩くテッドに声を掛けた。

「昨日のネグラスタ、大雨でミストがすごかったね」

「あれで強風もあったら、レース中止だったろうね」

「結局、ガラムがポール取っちゃってさ、アイケイロス独走だよ」

 こちらのぼやきに、テッドが苦笑する。

「アルト、アイケイロス嫌いだもんね」

「あそこって、お金にもの言わせて片っ端からいいプレイヤー取ってくんだもん」

「仕方ないよ。プレイヤーだって食べてかなくちゃならないし、腕前を高く評価してもらってるわけだから」

「でもさ……ライルはオファー蹴ったじゃない」

 少年の瞳がわずかに見開かれる。そういえば、こうやってライルのことをはっきり口にすることも久しぶりのような気がする。彼が事故にあってから、自発的にその話題に触れることは避けてきたが、飛ぶという目的の一つを果たした今、ライルのことを語る資格ができたような気がしていた。

 テッドの驚きに気が付かないふりをして、アルトは言葉を継ぐ。

「チームの人間は仕事仲間であるのと同時に、家族みたいなものだからって」

「……僕だって、全面的にアイケイロスのやり方がいいと思ってるわけじゃないよ。協会でも交渉権を制限しようって動きがあるしね」

 会話に一区切りがつき、二人は黙ったまま大通りを歩いた。

 昼を少し回った時刻のせいか、店舗に群がる人の姿も少ない。軒先に並べられた赤や黄色の果物の匂いを嗅ぎつつ、隣の書店へと入った。

 雑誌の並べられたラックをいくつか過ぎ、目的の物を手に取る。

「今月号は買うんだ?」

「うん。シエルの小特集もやるって、予告にあったし」

 ページを斜め読みしてライルの青い姿を認めると、アルトはレジに向かおうとした。

「よう」

 いつのまにか、緑の仔竜が行く手を遮り、こちらを薄い笑いで見つめている。

 なるべく視線を合わせないように、二人はその脇を通り過ぎようとした。

「とうとう、練習にこなくなっちゃったなあ」

「……そんなの僕の勝手だろ」

「勝負はあきらめたってわけか」

 行く手をふさぎながら嫌味を述べ立てる相手に、アルトは少し瞳をきつくした。

「別に、あきらめたわけじゃないよ」

「そんなこと言ったって、ポテトのままじゃ話にならないだろ」

「アルトはもう、ポテトじゃないんだ」

 テッドの言葉に、仔竜は疑わしそうな目でアルトを上から下まで眺め回した。

「その場しのぎで嘘つくと、後で困るぜ」

「嘘じゃないんだから、後で困ることもないさ」

「じゃあ、これから俺と勝負しても大丈夫だよな」

 思わず顔色を変えた青い仔竜に、相手はいやな笑顔で語り掛けた。

「市立のポートに行って、どっちが早く端まで辿り着けるかレースするんだ。飛ぶのは一番上の飛翔口から」

「……いいよ」

「恐くなったら、いつでも逃げ出していいんだぜ」

 ほんの一瞬、アルトは瞳を閉じた。緊張に高鳴りだした心臓の音、それに負けないように、ファルスの言葉を思い描く。

「そっちこそ、負けて悔しい思いをしても知らないからね」

 三人がやってきたとき、ポートの上には少し強めの風が吹き渡っていた。最上階は初めてのテッドはもちろん、緑の仔竜の表情も強ばっているように見える。

「僕が合図するから、それと同時にスタートだよ」

「分かった」

「お、おう」

 飛翔口近くにテッドが立つと、二人は翼を広げて間隔を確認し、身構えた。

「スタート五秒前、四、三」

 少年の取るカウントに、緊張を凌駕する冷静さと集中がみなぎってくる。意識で引き伸ばされた時間に、青い仔竜は教授された全てを脳裏に閃かせた。

「二、一、スタート!」

 ほぼ同時に、青と緑の影は空中に躍り出た。

 アルトの視界に驚きを隠せない相手の顔が映り、後へと遠ざかっていく。

『飛ぶってのは、揚力と速力の足し引きだ』

 翼の角度を地面寄りに調節しながら、仔竜はただ前だけを見つめて大気を突き抜けた。

『翼の角度を空に向け気味にすると、揚力が強まって速力が落ちる。逆に地面寄りにすると、今度は速力が強まって揚力が落ちる』

 急速に近付く地面を感じながら、今度は角度を上げて揚力を足してやる。

『長い距離を飛ぶなら揚力を、短距離で早く着きたきゃ速力を取る。ただし、自分がプネウマを取り込みすぎる体質だって事を忘れるなよ』

 あっと言う間に近付いてくる、ゴール代わりの飛び出し防止ネットを認め、アルトは首を上げた。

『着陸したい時は、まず首を上げろ。そうして少しずつ上体を上げて風の抵抗を強くしていって、最後に翼を進行方向に向かって立ててやるんだ』

 ファルスの言葉にしたがって体が起こされ、翼が立てられる。

 だが、

「うわあぁっ!?」

 急な煽りを喰らって、アルトは勢い良く引っ繰り返り、背中をすりながら着陸した。

『急に体を起こすと、背中から着陸するから気をつけろよ』

「失敗……」

 痛みを堪えながら起き上がると、遅れて緑の仔竜が傍らに降り立つ。

 驚きと、自らに降り掛かった事実とで一言もない相手に、青い仔竜は笑顔を向けた。

「どう?」

「……くそっ」

 苛立ちに満ちた呻きを洩らして去っていく脇を抜けて、テッドが走り寄ってくる。

「すごいよ! 飛んでからまだ日がないのに、いきなりチャーリーに勝っちゃった!」

「まあ、これが僕の実力ってこと?」

 軽く胸をそびやかそうとした瞬間、

「い……ったぁっ!」

「そういう台詞は、ちゃんと着陸できるようになってから言ったら?」

 痛い一言とひりつく背中にも関わらず、アルトの顔は自然とほころんでいた。

「とにかく、これでダンに勝てる可能性がでたわけだね」

「ダン……」

 赤い仔竜の姿を思い浮べると、勝利の高揚が次の一戦の緊張へ代わっていく。

 腕や翼の曲げ伸ばしをして体をほぐすと、アルトはポートへと歩きだした。

「背中は大丈夫?」

「このくらいどうってことないよ。それより、今は練習しなくちゃ」

「今日は、完全休養日じゃなかったっけ?」

 と言うテッドの声も、それほど強く引き止めてはいない。

「ちょっとだけなら平気だよ。悪いけど、そこで待っててね」

 軽く片手を振ると、仔竜は再び最上階へと向かっていった。


 木陰に置かれたベンチに、ファルスはぼんやりと座り込んでいた。

 隣に置かれた屋台の食べ物やジュースのビンは全く手が付けられていない。時々、太った体

がびくりと震え、そのたびに荒い息をつく。 

 緊張と恐怖に見開かれた目は、公園の景色とはまったく別のものを凝視し続けている。

 とめどなく繰り返される、あの時の記憶を。


 飛び過ぎた瞬間に見えたピットインの指示を無視してホームストレートを飛びぬける。自分の十メートルほど先に見えるプレイヤーとの差がどうしても縮まらない。苛立った意識に苦りきった監督の言葉が割り込んだ。

『別にポールじゃなくても、三位入賞でも勝ちには繋がるんだ』

『『俺の』勝ち星にはならないだろ。総合なんて興味はない、あるのは目の前の『サラマンダー』だけだ!』

 その会話を最後に十週以上ピットに入っていない。一分一秒が惜しい、くだらない言い合いなどしている暇はなかった。

 並行にならんだ六番と七番のチェックポール。体を垂直にしながらインを攻めていく。背中とチェックポールがわずかに擦れるが、目の前のプレイヤーとの差が数メートル縮まった。

 この位ならなんとかなる。会心の笑みを浮かべて、追うべき先頭を求めスポットを舐める。

 目の前に群がるプレイヤーたちを強引なライン取りで追い抜きながら、脳裏に今シーズンのことが思いが浮かんでいた。チームのメンバーとの幾度とない衝突、新人の思いもよらない活躍、調子の上がらない自分に対する苛立ち。

 だがそれも、これで終わる。ポールを取れば、個別・総合とも上位と並べる。

「……お前を抜いて、な!」

 目と鼻の先になった赤いスーツに噛み付きそうな勢いで追いすがる。しかし、わずか数十センチの差が、どうしても埋まらない。小柄で翼の小さなプレイヤーはその体格ゆえにコーナリング性能が大きく、強風に煽られにくい。吹き荒れ続ける強風の中を自由にすり抜けていく。

 対して、自分のような大柄で翼面積が大きいプレイヤーはそれだけスポットの影響を受けやすく、直線上での加速が有利になる。

 強風に神経を集中しつつ、八番のポールの間に設置されたスポットの勢いを得て高く舞い上がる。間近に映る影。嘲るような笑みを浮かべると、間近に迫った九番ポールを攻めるべく、体を垂直に起こそうとした。

 だが、

「なにっ!?」

 突然の横風が体に吹き付け、中途半端な角度で体がスポットに侵入してしまう。急旋回と風のあおりを食らい、体が十番ポールの間へ引き込まれる。

 甲高いジェットの排気音、猛烈な熱さ、金網を張ったスポットの火口が迫る。

 全力で立てた翼、必死にねじった体、回避のためのむなしい行動を金属の顎が一瞬の内に全身を飲み込み――


「うあっ……ふっ、ふぅっ」

 稲妻のように全身を貫く恐怖が、押し殺した絶叫で遮断される。

 乱れた鼓動を押さえるようにファルスは胸の辺りを強く掴んだ。固くつぶった目蓋の上を、冷汗が流れ落ちていく。顎がガチガチと鳴り、体中を恐怖と悪寒が這い回る。事故の瞬間に襲い掛かった灼熱と激痛、自分の肉が焼ける臭いがリアルに蘇る。

 昨日からずっとこの拷問は続いていた。食べても眠っても、繰り返し襲ってくる。

 違う、違うんだ。もう終わったんだ。

 苦しい気持ちを押し込めるように、袋から取り出した串焼きにかぶりつく。それでもまだ止まらない震えを抑えるようにハンバーガーを、ホットドッグを、フライドチキンを詰め込む。

 胃袋が窮屈になるにつれて、どうにか気持ちが落ち着いてきた。

 そうだ、これでいい。俺は、

「ファルスさん!」

 一瞬、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走り、それから太ったドラゴンはなんとか驚きを押し隠して、聞き慣れた声の主に振り返った。

「……いきなり大声だすなよ。死ぬかと思ったぜ」

「ごめんなさい! それより大変なんです!」

 息も絶え絶えに、テッドは必死に先を続けた。

「アルトが、今からダンと勝負するんです!」

「……そいつは、今月の終わりにやるんじゃなかったのか?」

「それが、昼間にダンの友達に勝負を挑まれたんですけど……」

 無言で先を促すと、落ち着かない様子で少年は顛末を語り始めた。

「そいつとは二十メートルくらい差を付けてアルトの圧勝だったんです。でもその後ダン本人が練習ポートに来ちゃって……」

「で、勝負を早めたってわけか」

 瞳を曇らせたテッドの肩をそっと叩いてやると、ファルスは空になった袋を手近なごみ箱に放り捨てた。

「心配すんなよ。向こうも同じ仔供なんだ、結構善戦するかもしれないぜ?」

「そう……だといいんですけど……」

「俺も行ってやるから、一緒に応援してやろうぜ」

「はい!」

「で、あいつは市立のポートか?」

 こちらの問い掛けに、テッドは首を横に振った。

「いえ。ダン達と一緒に海の方へ」

「……海って、なんでまた」

「セドナ・ラグーンレースって知ってます?」

 友人との会話を思い出し、彼は訝るように眉根を寄せた。

「沖の方に立ってる櫓から飛ぶっていう、あれだな」

「はい。実はアルト、そのレースに出るために練習してたんです」

「なんだってぇっ!?」

 こちらの叫びに萎縮したテッドは、それでも緊張した面持ちになった。

「な、なにかまずいんですか?」

「競技場と自然の風が吹く場所は別物なんだよ! 今のあいつじゃ、飛ぶのも難しいはずだ」

「それじゃあ……勝負にならないじゃないですか!」

「あのバカ……」

 片手を額に当てながら、ファルスは海のある方角を見つめた。

「アルトは?」

「僕が出てきたときには、ダンと一緒に練習組の一番後に……」

「とにかく、お前はアルトのところに行って勝負をやめさせろ。そうでないと、初勝利の次は初惨敗を体験することになるぞ!」

「は、はいっ!」

 大慌てで去っていく少年の後を見ながら、ファルスは夕日の沈む方角に小声でぼやく。

「ったく、世話かけさせやがって」

 そう言いながら、心のどこかでは安堵していた。仔竜同士のケンカの仲裁、そんなどこにでもあるような出来事の中にいる自分。これこそ、俺がファルスである証拠じゃないか。

 アルトにかける言葉を考えつつ、太ったドラゴンは目的地へのそのそと走っていった。


 ボートが鈍い音と共に桟橋へ横付けされると、アルトはようやく体から力を抜いた。そんなこちらの姿を尻目に、ダンは慣れた身ごなしで渡り板の上に飛び上がる。

「ほら、早く来いよ!」

「う……うん」

 係員に手伝ってもらいなんとか揺れる船から這い登ると、仔竜は陸の方に向き直った。

 五百メートルという言葉が信じられないくらいに砂浜が遠く感じられる。しかも、ここにくる間に風が強くなり、波も大きくうねりだしていた。

「なに、もたもたしてんだ! やる気がないなら不戦敗にするぞ!」

「い、今行くよ!」

 高圧な物言いのダンに怒鳴り返すと、アルトも最上階への階段を登り始めた。

 潮騒に混じって聞こえる風の音。骨組みだけで構成された櫓を揺らしていくそれは、今まで感じたことのない強さを含んでいた。

「う……わあ……」

 そして、辿り着いた場所で仔竜は息を飲んだ。

 薄い鋼板を載せただけの足場は仔竜が百名は座れるぐらいの広がりがあり、その周りに申し訳程度のフェンスが巡らされている。隅の方に監視員の座る場所と、救命具らしい道具が置かれているだけで他にはなにもない。

 自分を取り囲むようにして広がる海は沈んでいく夕日に染め上げられて、赤と橙の絨毯のように見えた。

「珍しいからって、見とれてるんじゃないぜ」

 すでにスタート地点の前に陣取っていたダンが、からかうように声を掛けてくる。

 なんとか平静を取り繕うと、アルトは同じようにスタートラインの描かれたポートの端まで歩いた。

「君、救命具の確認をして」

「は、はい」

 係員に言われるまま、仔竜は胸に付けたライフジャケットの結び目や、止め具を確かめにかかった。

「大丈夫かい?」

「えっと……はい」

「おい、ちょっとまて」

 突然、赤い指がアルトの脇の下にのびた。

「何するんだよ!?」

「うるせえな! ここがちゃんと締まってないんだよ」

 付け直された止め具はわずかに肺を締め付けるようだが、肉厚の救命具は以前よりも体に密着したようだった。

「あ……ありがとう」

「これから海に落ちることになるんだ。救命具の確認はしっかりしとけよ」

 嫌味たっぷりの返答にむっとしながら、アルトは少しだけダンの行為に感心した。

「実際のレースじゃピストルが合図だ。今は練習だから係員に頼んで合図をやってもらう」

「分かった」

 赤い仔竜が目くばせすると、すでにスタートラインの端にいた係員が片手を挙げる。

「二人とも、位置について」

 鋼板に印された白線の前につくと、仔竜達は互いの翼を広げて幅を確認した。

「スタート五秒前、四、三」

 カウントが進んでいくうちに、言い知れない不安がこみあげてきた。風が、練習用ポートの上よりも強いように感じる。

「二、一、スタート!」

 迷いを振り払うようにアルトは足場を蹴って、大気の中へ飛び込んだ。

 次の瞬間に待っていたのは、裏切りだった。

「うわああっっ!?」

 真っすぐに進むはずの体が左に押しながされていく。あわてて右へ傾けようとするものの、まったく思う様にいかない。

「じゃあな! ポテトには塩水の中がお似合いだぜ!」

 嘲弄を残して、波乗りでもするようにダンが飛び去っていく。その背中に追いすがろうとアルトは必死に体勢を立て直そうとした。

 だが、もがけばもがくほど、吹き付ける風に体力が奪われていく。

「……あれ?」

 唐突に風が弱まった。先を行くダンが体を上げ気味にして、揚力重視の姿勢になっているのが見える。

 今のうちに差を挽回しよう、アルトは体を陸の方に向き直らせ、首を下げた。

 そこに、この日最後の破綻が訪れた。

「うわあっ……」

 セドナの街を囲む山々、その谷間から吹き下ろす風が一つになり、濁流のように仔竜の体に襲いかかった。圧力に耐えきれなくなった翼から力が抜け、体が海へと急激に崩落していく。

 アルトは理解した。

 なぜダンがあの姿勢を取ったのかも、そして救命具を確認した本当の理由も。

 冷たい海水に飲み込まれながら、仔竜は自分の完全な敗北を悟った。


 落ちてからそれほど時を置かずに、アルトは待機していたボートに引き上げられた。

「海の上は難しいんだよ。練習場は壁や防風林なんかで守られているけど、ここではどんな方向からでも風が吹くからね」

 やさしく諭してくれる救護係の言葉も、今の自分には虚ろな響きに過ぎない。

 呆然としたまま、仔竜は近付いてくる港を眺めていた。

『それなら、今年のラグーンレースで勝負しようぜ』

 初めからこちらに勝算が無いと分かっていたから、あんな提案をだしたのだ。万が一飛べるようになっても、海の風を知らなければ話にならない。

「ちくしょう……」

 知らないうちに噛み締めていた口から、悔しさが漏れた。

「おーい! 大丈夫かー!」

「アルトーっ!」

 聞き慣れた声に、アルトは勢い良く顔を上げた。

 船着場で手を振る姿に、冷えかかっていた心が再び活力を取り戻す。自分にはまだ望みがある、きっとファルスなら何とかしてくれる。

「おじさーんっ! テッドーっ!」

 ボートが接舷するかしないかのうちに、アルトは桟橋をよじ登ってファルスの大きな体へと走り寄った。

「おじさん! 僕……」

「分かってる」

 まだ乾き切っていないこちらの姿に太ったドラゴンは苦笑いを浮かべた。

「会ったら説教してやろうと思ったが、その様子じゃ必要なさそうだな」

「おじさん、海の上ってどうやって飛ぶの!?」

「おいおい……」

 ため息をつくと、彼は少し困ったように首を傾けた。

「やる気があるのはいいが、世の中には情熱だけじゃどうしようもない事もあるって、知っておいたほうがいいぞ」

「ど……どういうこと?」

 水平線の彼方に太陽が沈んでいく。そして訪れる夜の気配が、アルトの中に言い知れない不安を呼び起こした。

「多分、お前は海の上にも何かコツがあるんじゃないかって思ってたろ」

「う、うん」

「しかも、俺がそれを知ってるんじゃないかってな」

「……違うの?」

 ファルスはそっと、首を横に振った。

「俺の友達もラグーンレースに出たことがあったそうだ。でも、結果は三位入賞が精一杯だ」

「いきなりで三位!?」

「言っとくが、あいつは毎日竜便をやって、かつ自然の風相手の競技をしていたからだ。お前とあいつじゃ経験が違いすぎる」

「じゃあ! 今から練習したらどうかな!」

 その問い掛けに答えず、ファルスは道路の方へ歩き始めた。慌ててアルトは後を追い、テッドがそれに続く。

「ねえ! おじさんてば!」

「少なくとも半年」

「そ、そんなに……」

「早くて、な」

 そう言いながら振り返るファルスの顔には、いたわりというより苦しみのような表情が浮かんでいた。

「とにかく、今年は諦めろ。練習していけば来年にはなんとかいい勝負に……」

「それじゃダメなんだよ! 今年じゃなくちゃ!」

「いい加減にしろっ!」

 驚くほど強い怒声に、アルトは身を竦ませた。

「悔しいのは分かるが、無理すれば命にも関わるんだぞ!」

「でも……」

「なんだって、今年なんだ」

 語調を和らげると、ファルスは腰を屈め、こちらと同じ高さまで顔を下げた。

「一年待てない事情でもあるのか?」

「……取られてるんだ」

「取られてるって、何を」

「ライル・ディオスのカードを」

 言ってから、アルトは少し後悔した。ファルスはかすかに口を開き、自分を穴が開くほど凝視している。

「おじさんにはバカみたいに思えるだろうけど、僕は今でもライルが好きなんだ。カードだけじゃなくてポスターもビデオも、インタビュー記事の載った雑誌だって持ってる」

 彫像のように動きの凍り付いた相手に、仔竜はさらにまくしたてた。

「それに、ダンはライルが帰ってこないって言ったんだ! でも、僕は帰ってくるって信じてる! だから、あいつに勝って……」

「もうやめろ」

 呟くように、それでいてはっきりと、ファルスは告げた。

「ダンの言う通りだ。ライル・ディオスは現役復帰できない」

「お……おじさん?」

「ライルは……俺も知ってる。失踪して二年経ったのも」

 不気味なくらい表情を無くした藍色の顔は、淡々と続けた。

「事故で一年飛べなかった奴の復帰率は、約四十パーセントと言われてる。それに、復帰したとしても、以前のようなプレイは望めないのが普通だ」

「でも! ライルなら……」

「ライルなら、なんだ」

 ファルスの押し殺した声が、それ以上の言葉を止めさせる。

 いきなり背を向けると、大きな体は振り返りもせずに歩き始めた。

「自然相手に無茶をすれば命に関わる。それに……お前が勝ったからって、ライルが帰ってくるわけじゃないだろ」

「な……」

 一瞬、アルトは混乱した。

 相手の態度と発言が唐突すぎて、理解が追い付かない。

「なんで……なんでそんなこと言うんだよ!?」

「全部、お前のためだ」

 背中越しに届いた声は、驚くほど冷たかった。

「ダンとの勝負は諦めろ。事故にあったくらいで逃げ出すような、根性なしのプレイヤーのために、お前が体を張ることはない」

 耳の奥で、憤りが轟いた。

 裏切りにも等しいファルスの発言に、アルトの内側が怒りで充満する。

「ライルは、根性なしなんかじゃない!」

 その一声が、立ち去ろうとしていたファルスの足を止めた。

「絶対、帰ってくるんだ!」

「いい加減に……」

 うるさそうに振り返った太った姿が、滲んだ視界の先で歪む。

「おまえ……」

 勝手に伝い落ちていく涙が、相手の言葉を詰まらせる。その脇を、アルトは逃げるように駆け抜ける。

 夜の気配のように深まっていく絶望を感じながら、アルトは家へ向かって走っていった。

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