6、俺の声が聞こえるか
「よう、おっちゃん。今日も元気かい?」
いつも通りの挨拶に、ガラスの商品ケースの向こうの店主も笑顔を返す。
「もちろんさ! あんたが寄っていってくれれば、もっと元気になれるね」
「んじゃ、端から順に五個づつね。アイスクリーム入りは抜いて」
紙袋いっぱいのクレープを頬張りながら、ファルスはのんびりとした足取りで、公園の大通りを歩きだした。
いつもどおりの喧騒が道に広がり、その間を縫う様にして進む。
「にいさん、今日の奴はいつも以上においしいよ」
「悪いな。もうおっちゃんの所でこれ、買っちまったからさ」
強いバターの匂いを漂わせるポップコーン売りの傍らを過ぎ、彼は目的地である金属の塔へと向かった。ポートの前のチケット売場には、ラッシュの時間を過ぎたせいか誰の姿もない。
「長距離、成竜一枚ね」
「……あ、あのぉ……」
券売を担当していた人の青年は、申し分けなさそうな表情を浮かべた。
「済みませんが……あちらの方で検査を……」
「……なんだとぉ?」
眉間に力を入れて視線を送ると、相手はさらに萎縮して泣きだしそうな顔になる。
「あ、ファルスさん! バイト君をいじめないであげてくださいよ!」
「はは、もうみつかっちゃったか。んじゃ、入場券を成竜一枚」
安堵した表情の青年を残し、ファルスは声を掛けてきた制服姿のドラゴンと一緒にポートのエレベーターに入った。
「あんな気が弱そうな奴で、大丈夫なのか?」
「真面目でいい子なんですから、優しくしてくださいね」
低階層、中階層を通り過ぎ、二人は吹き渡る風で満ちる最上階へと運ばれる。
ちょうどその時、いくつもの金属を叩きつけあうような騒音が響き渡った。着陸用の緩衝器が、一番端のストッパーとぶつかってできた音だ。
「下手くそめ」
嫌そうな顔で毒づく係員に、ファルスは苦笑を浮かべた。
「気持ちも分からなくはないが、お客さんだぜ」
「だってあの緩衝器、半月前に修理したばかりなんですよ? 中にはわざと派手な音を立てて楽しんでる奴だっているんですから!」
「じゃあ、あれならお気に召すかな?」
太ったドラゴンはうっすらと笑いを浮かべて、新たな着陸者を指差した。
青空をバックに浮かび上がる黒点。それがみるみるうちに近付いて、緩衝器に体を向ける。
大きく広げられた翼が勢いを見事に抱き留め、板に触れた足を屈曲して衝撃を殺していく。掛けられた圧力で軽やかに走りだした車輪は、レールとの抵抗で次第に力を失い、非常にささやかな音を立ててストッパーと接触した。
「相変わらず、見事なフェザータッチですね!」
「あいつにとっては、普段の着陸から練習だからな」
自分の事のように自慢げに語ると、ファルスはやってくる姿に片手を挙げた。
「よう、グレイ。元気だったか?」
「おかげさまでね。そっちは……聞くまでもないか」
紙袋に手を差し入れるこちらを見やって、黒い肌のドラゴンは小さく嘆息した。
「空の具合はどうだった?」
「天気は上々。二日前に低気圧が退いてくれたから、湿りも無くて快適だったよ。さすがにセドナ辺りは突風の交差点だから、平穏とまではいかなかったけどな」
降り専用のエレベーターに向かう間に、グレイは上着のあちこちに結ばれた紐やジッパーを解いて、飛行仕様から普段着の形に戻していく。
ガラスで仕切られた箱が地上へと動きはじめ、傍らの友人は軽く体を捻ってこわばった体をほぐしていた。
「てっきり仕事着でくると思ったんだが、今日は休みか」
「いつもさっさといなくなるって、誰かさんがぼやくからな」
揶揄を避けるように、ファルスは視線を外の景色へと移した。
透明な板の前を幾度も鉄骨がよぎり、眼下の緑や歩道の群衆を打ち消していく。その度に映り込む二人の姿は、見事に対照的だった。
衣服の隙間から見える、太くはないが力強い筋肉の束。しなやかな曲線を描く尻尾と、折り畳まれてなお、計算された構成をうかがわせる一対の翼。灰色の髪の下で輝く瞳には陰りがなく、鼻筋を横切る大きな傷跡ですら顔立ちを引立てる要素になっている。
着くずされた衣服をまとっていても、グレイの周囲には心地よい緊張が感じられた。
その隣にいるのは、緊張とはまるで縁のない姿。
あらゆる部分が膨らみ、弛んでいる。張り詰めている所を強いて挙げるなら、上着をあわせておくベルトくらいだろう。
「どうした?」
「いや……」
エレベーターが、わずかに震えて地上へと辿り着く。
「昼飯、どこで食おうかと思ってさ。色々考えてたんだ」
「こっちは帰りもあるんだからな。重量超過で検査に引っ掛かるのはごめんだぞ」
「しょうがないな、今回は一軒だけで勘弁してやるよ」
軽口を叩きながら、ファルスは目の前の現実から素早く瞳を逸らした。
向かいに座ったグレイが満足そうに吐息を洩らしたのを見て、ファルスは傍らを過ぎていくウエイトレスに声を掛けた。
「お皿、下げてもらえるかな? それと、デザートの方よろしく」
「はい」
「こっちはエスプレッソお願い」
去っていくウエイトレスを見送ると、友人は窓越しにセドナの青い海を眺めた。
「もう、そんな季節になるんだな」
「なにが?」
「沖の方に櫓が立ってるだろ」
そのことについてはファルスも気が付いていた。ただ、そのポートの出来損ないがなんであるか、確かめたことはなかったが。
「セドナ・ラグーンレースって言ってな。毎年九月の終わりに、あそこから浜に向かって飛ぶ競技があるんだよ」
「お前も出たことあるのか?」
「一度だけな。うちの団体の、競技開催地の視察も兼ねて」
「もちろん、優勝だろ?」
意外なことに、グレイは首を横に振った。
「三位入賞が精一杯だったよ。地元の連中はここらの風を熟知してるからな」
「で、もう一つの目的の方は?」
「……現在留保中。説明を聞いただけで、危険すぎるから承認は難しいってさ」
グレイの参加しているエクストリーム・グライドは、複雑な地形や強風の吹き荒ぶ崖にコースを設定して行なう競技だ。競技人口や世間の知名度は今だに低く、競技場として利用できる場所も少ない。
「でも、年内にAクラスに昇格できるコースがあるから、まだましだ」
「じゃあ、来年には国際試合を誘致できるのか」
「こっちでスポンサーが見つかればな……ああ、貧乏所帯はつらいぜ」
おどけた調子で黒いドラゴンは、白いクロスの掛かったテーブルに突っ伏した。
竜便の仕事の合間を見ながら競技に参加し、新たなコースの獲得に東奔西走する。そんな生活を、グレイは愚痴を言いながらも心から楽しんでいた。
眩しそうに目を細めて、ファルスは友人の顔を鷲掴みにした。
「ほれ、場所あけろ。デザートが載らないだろ」
「……で、お前は何かあったか?」
目の前を横切るケーキやプディングに遮られながら、こちらを伺う瞳。
逢うたびに繰り返されるその問い掛けに、思わず苦笑いが浮かぶ。
「いつも通り。食って、ごろごろして、ぶらぶらして」
「そうか」
「と、言いたいところだが、今は少し違う」
目を閉じると、澄んだ空の青色を持つ仔竜の姿が浮かんだ。
「おもしろい奴と友達になってさ。今はそいつと遊んでる」
「どんな奴?」
「昔のお前そっくりの仔竜だ、何から何までね。楽しいエピソードもいっぱい話したぜ」
揶揄を込めた言葉に、グレイの眉間にしわが寄った。
「俺の恥ずかしい過去をダシに楽しんだってわけか」
「怖い顔すんなって。そのエピソードで救われた仔竜がいるんだ、大目に見てくれよ」
「その仔、笑ってたか?」
「うん。かなりな」
不機嫌が煮詰まったような渋い顔の友人に、ファルスは遠慮なく爆笑を浴びせた。
「いいじゃないかよ。ポテトだったグレイア・サイラスはもういない。今じゃ乱気流すら擦り抜ける大空の雄だ。昔の失敗なんて笑い飛ばせるだろ」
「はいはい。分かりましたよ、そうやってせいぜい笑ってればいいさ」
呆れ混じりの返事をすると、友人はわずかに瞳を伏せて口をつぐんだ。空隙を埋めるようにファルスがデザートを頬張る音だけが流れる。
「……その仔は、今どうしてるんだ?」
「気になるか?」
「俺と同じ、って聞いたらな」
「そこもあの時と同じだよ」
その言葉に吸い寄せられるように、グレイがこちらに視線を向ける。その黒い顔には驚きと安堵のようなものが浮かんでいた。
「お前が、教えてるのか?」
「だから言ったろ『お前のエピソードに救われた』ってさ」
その言葉を反芻するようにグレイは頷き、それから改めてこちらに向き直った。
「……なあ」
テーブルの白いクロスに手を組み合わせて、黒いドラゴンは呟いた。
「お前、やってみる気ないか?」
「やるって……何を?」
「エクストリームだよ」
出し抜けの問い掛けに、ファルスは茫然として相手を見つめた。
柔らかな表情だが、何かを期待した真摯さが瞳の奥に見え隠れしている。決まりの悪さを払うように、彼は盛大に鼻白んだ。
「……俺みたいなポテトを誘うなんて、よっぽど運営に困ってるんだな」
「困ってるのは事実だが、そこまでじゃないさ」
「今の俺じゃ、いつ出れるか分からないぜ」
おどけた調子で腹を叩いてやる。だが、その小気味いい音を気にすることもなく、グレイは畳み掛けた。
「その気になったら言ってくれ。いつでも待ってるから」
「気が、向いたらな」
それ以上の追求を遮るように、彼は大皿に載ったタルトを立て続けに頬張った。
「いってきまーす!」
いつも通りに挨拶を送ると、アルトは玄関を抜けた。
強い光に輝いた青い空。入道雲が西の彼方から沸き上がり、辺りには霧のように夏の熱気が漂っている。通りをポートに向かって歩いていくと、誰かが背中を軽く叩いてきた。
「おはよう」
「あ、おはよ」
わずかに足を早めながら、テッドと連れ立って公園の門を抜け、緑の茂みのむこうの練習場所へと入る。
「よう」
意外なことに、臨時着陸場にはファルスの丸い姿があった。
「あれ? 今日は早いね」
「たまにはな」
準備運動に取り掛かりながら、アルトは相手の言葉にこもった、独特の気配を読んだ。
「……おじさん」
「んー?」
「なにかやる気?」
翼の曲げ伸ばしを繰り返しながら顔色をうかがうと、ファルスは軽く肩をすくめた。
「練習が一段落したら教えてやる」
相手の態度を訝しみながらも、仔竜は準備運動を終え、緩衝器の周りを駆け始めた。
「よーし! そうそう、あおられないように飛爪の角度を下向きにするんだ! 翼だけでやろうとするな! 首を下げ気味にして、体全体で調整しろ!」
翼いっぱいに風を受けて、アルトが走る。以前は少し走るだけで足がもつれていた低空滑走も、ほとんど姿勢を崩さずに走れるようになった。しかも、普通に走っていたときのように翼にも少しずつ浮き上がる感覚が戻ってきている。
「よし! 一旦上がれ!」
十周ほどしたところで、ファルスの指示が届く。名残惜しい気もしたが、翼をたたんで二人の前でとまった。
「お疲れさん」
「はい、これ」
テッドからタオルと水を受け取ったところで、アルトはほっと息をついた。
「だいぶ、うまくなったな」
「そ、そうかな?」
「もう少し時間が掛かると思ったが、なかなか良い飲み込み具合だ」
思いがけなく褒めちぎられて、仔竜は照れ笑いを浮かべた。
「これなら、ポートからの練習に切り替えてもいいんじゃないかな、なんて」
「そうだな」
何気ない一言。だが、アルトの動きを硬直させるには、十分な威力があった。
「テッド」
「はい?」
「ここら辺で練習用のポートがあるところ、知ってるか?」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
あっという間に進んでいく会話に、胃袋の辺りが締め付けられるような緊張で痛み始める。
「い、今から、行くの?」
「ああ。だいぶ走っている姿勢も安定してきたし、後は実践で学べばいいさ」
「そう……なんだ」
歯切れの悪い返事に太ったドラゴンは不思議そうな顔で、アルトの顔を覗き込んだ。
「地面を走る練習から、ようやくまともな飛行に移れるんだぞ? 嬉しくないのか?」
「い、いや、そういうわけじゃ、ないんだけど」
「市立の運動場ならここからも近いし、予約を入れなくても使えますよ」
言い添えながら、少年がいたわるような視線でこちらを見る。その不安そうな表情に、仔竜は精一杯明るい声でで応えた。
「分かったよ! そういうことなら早く行こう!」
「おい、ちょっと待てよ、こっちでメシ食ってからでも……」
引き止める声にも耳を貸さず、アルトは勢い良く歩きだしていた。
沸き上がる不安を、一歩ごとに踏み潰しながら。
昼下がりのポートは、この前に来たときよりも閑散としている。時間のせいもあるが海に設置されたポートから飛んで、水遊びを兼ねているものもいるのだろう。
「なかなかいい所だな」
ハムやチーズ、たくさんの野菜で百科事典の厚みになったサンドイッチを頬張って、ファルスは感心したように頷いた。
「公式の飛翔競技会の予選で、会場に使われることもあるんですよ」
「練習場所としては最適ってわけだ。な、アルト?」
「うん……」
知らないうちに握り締めていた手に、汗がにじんでいる。ポートの中からまた一人、空へと飛び出してくるのが見えた。
「緊張するのも分かるが、堅くなってると、またおっこっちまうぜ?」
ファルスの言葉に、仔竜の肩が電気に触れたように跳ね上がった。
また、落ちるかもしれない。
あらゆる嘲笑や罵声、諦めたようなため息が、心の奥底から津波のように押し寄せてくる。
「……とにかく、なんか食えよ。昼飯もまだだろ?」
「いい……お腹、減ってないから」
差し出された紙袋から顔を背けて、仔竜は憑かれたようにポートを凝視した。
「ファルスさん」
「ん?」
背中ごしに、テッドが何事か耳打ちしているのが聞こえる。相談が終わると、ファルスは仔竜の視線をさえぎるように、前に回り込んだ。
「まずは一回だけ、一番下からやってみようぜ。俺たちは外で見ていてやるからさ」
「絶対飛べるから、頑張って!」
「う、うん」
なんとか返事をすると、アルトはおぼつかない足を必死でポートへと進めた。
階段を上がって一番下の穴蔵へと入ると、中には係員が座っているだけで、他には誰の姿もなかった。
「今なら誰もいないから、順番待ちしないで飛べるよ」
「は、はい……」
笑顔の係員を横目で見ながら、アルトは床の踏み切り線の前で立ち止まった。
飛翔口からの空は、相変わらず晴れていた。地面は柔らかな緑の芝生で覆われ、真下にはオレンジ色のマットが敷かれている。
視線の先、敷地の終わる場所に立つ二つの影。ファルスとテッドがこちらを見つめているのが分かった。
意を決して、翼を大きく広げる。そして、体を前傾にしていく。
『さすがアルト、また落っこちてるよ!』
自分が意識できるすべての神経に、痺れのような痛みが走った。
心臓の音がいやに大きく聞こえてくる。全身はうっすらと汗をかいているのに、口の中は完全に干涸びて、湿り気がない。
『あれじゃ、あいつ一生飛べないんじゃねーの』
苦い言葉が蘇った途端、仔竜の体は細かく震えだしていた。
本当に、自分は飛べるようになったんだろうか。この場から飛び出した瞬間に、以前のように空気の中でもがきながら、墜落していくんじゃないのか。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
係員の声が、鼓膜の中で虚ろに反響する。
ほんの一蹴り。ただそれだけのことが、どうしても思い切れない。
やがて、アルトは翼をたたんで、飛翔口に背を向けた。
ポートの階段を降りると、あわてた様子で二人がこちらに駆け寄ってきた。
「どうしたんだよ、一体」
「大丈夫?」
力なくその場に座り込むと、アルトは小声で呟いた。
「やっぱりさ、もう少し練習したほうが、いいんじゃないかな」
「アルト……」
「だっておじさんは、飛べるようになるまで、二週間はかかるって言ったでしょ?」
すがるように顔を上げると、心配そうに見守るテッドの後で、大きな姿が何の表情も浮かべずにこちらに視線を合わせていた。
「まだ四日はあるんだし、ポートからの練習は、それからでもいいと思うんだ」
「君が、そう言うなら……」
「恐いのか」
それは問い掛けではなく、確認だった。
短い付き合いだが、この太ったドラゴンは仔竜の心を、その悩みの全てを見透かしてきたのだ。言い訳をすべて飲み込んで、アルトは静かに頷いた。
「ずっと落ち続けてきて、また落ちるかもしれない、そう思ったんだな」
「僕……やっぱりできないよ」
諦観と自嘲に声がしわがれて、途切れがちになる。
「おじさんに習い初めて、いろんな事を教わって、できるんじゃないかって思ってた」
怯えきってファルスの顔を覗き込むと、仔竜は苦痛に顔をゆがめた。
「でも、みんなの声が、笑ってる声が聞こえるんだ! 僕にはできない、ポテトには絶対、空は飛べないって!」
相変わらず、夏の熱気は辺りに充満している。
それでもアルトの体にはぞっとするほどの冷えが、霧のようにまとわりついていた。
「せっかく教えてもらったけど、僕には……」
「俺の声が聞こえるか?」
問い掛けの意味することが理解できず、アルトは瞳を瞬かせた。
「クラスの連中は、お前をポテトだって笑っているかもしれない。だけど、俺はお前が飛べるって思ってる」
藍色の両手が、崩れていこうとする仔竜の肩をそっと抱き留めた。
「笑われても嫌になっても、今までやってきたんだ。お前は絶対に飛べる。俺が保証するよ」
「おじさん……」
「俺の声、聞こえたよな」
いつのまにか夏が、仔竜の周りに戻っていた。蝉の鳴く音や熱を含んだ風のそよぎ、テッドとファルスの姿。
「うん……聞こえるよ」
自分の足でしっかりと大地を踏みしめると、アルトは立ち上がった。手渡された言葉を噛み締め、ポートの階段を昇っていく。
その場所に立った途端、吹き渡る風に黒い髪がかき乱される。
壁の無い最上階の飛翔口は想像していたよりも遥かに高い。遠くに立っていたテッドがこちらを見て慌てている様子も手に取るように分かった。
丸い体は身じろぎもせず、こちらの動きを見守っている。
教わった手順を、ファルスの教示の全てを口の中で復唱する。翼を広げ、張り詰めていく。無駄な部分から力を抜き、正しい角度へと導く。
頭の片隅に赤い仔竜の姿がよぎった。挙げられた手が落とされ、口が嘲弄を紡ぐ。
『じゃあな、ポテトのアルト』
飛翔口の端スタートラインの前に立ち、仔竜は心の中の幻にきっぱりと告げた。
「僕は、ポテトじゃない」
体を前傾にすると、アルトは力強くポートの端を蹴って空に飛び出した。
腹の底がきゅっと締め付けられる感じが一瞬襲う。だが、背中に張り出した翼がしっかりと体を支えてくれた。翼全体に空気の輪郭がまといつくのがくっきりと分かる。丁度振り回した腕が加速するほどに風を感じるように。
見えない何かを翼が押して、その上を体が滑っていく。飛爪の先が切り裂いた風が甲高いホイッスルのような音色を響かせ、取り巻いた大気の飛び去る速度があっという間にトップスピードへ高まっていく。
突然、アルトは自分を取り巻くすべてが、光と軽やかさだけに変わったのを感じた。
鼻先が切り裂き、翼が断ち割り、尻尾をすり抜けていくすべての風に、体が押し上げられて一切の重さが消えていく。そして、視界に写るあらゆる景色がめまぐるしく移り変わり、夏の日差しの中で、美しく光り輝いていく。
想像していたのと全く空は違っていた。風は高く鳴り響くメロディを奏で、水よりも軽い波となってうねり、毛布よりもやわらかい感触が体中を心地よく包み込む。その全身に伝わる感覚こそが、飛行という喜びそのものだった。
きれいだ、とっても。そして、優しい。
もうアルトの心の中には、飛べないことへの恐れはすっかりなくなっていた。体が教えてくれている、ここがもう一つの自分の場所だと。
大気を切り裂いて体が宙を滑る。緑の芝生と茂る木々が目まぐるしく踊り回り、アルトの青がその全てを追い越していく。もっと速く、もっと遠くへ飛びたい。
陶酔した視界の端で、ファルスとテッドが叫んでいた。飛行エリアのそばで立つ彼らとの数百メートルの距離が一瞬にして縮まっていく。
「……るんだ!」
風の膜を貫いて、警告がアルトの快楽に酔っていた脳を揺さぶった。
「体を立てろ! 地面にぶつかるぞ!」
地面。
その単語を理解した瞬間、
「うわああああっっ!?」
盛大に体前面を擦りながら、仔竜は勢いを殺せないまま大地に転がった。
「アルト!」
「大丈夫か!?」
甲高い耳鳴りに混じって二人の声が届く。顎や首、腹の辺りが痛み、アルトはその場にうずくまってうめいた。
「しっかりしろ!」
抱き起こされて、ファルスの手が素早く患部を確認していく。
「どこも折れてないみたいだが……妙な痛みとか、あるか?」
ようやく正常な感覚が戻ってきて、仔竜は体のあちこちに意識を飛ばしてみた。頭の奥やすりむけから生まれる痛みは、マットに落ちていた時と変わりが無い。
だが、それは喪失ではなく、獲得の痛みだった。
「おじさん……」
「どうした? なにか、変な感じがするのか?」
「僕……飛んでたよね」
「……ああ」
太ったドラゴンの顔には、すべてを肯定する満面の笑みがあった。
「テッド……見てたよね?」
「ちゃんと、見てたよ」
少年の顔が笑みこぼれて、頷いた。
「は……ははっ、ははは……ははははは」
頭から尻尾の先、翼の端まで震わせて、アルトは大声で笑った。
「やったよ! ちゃんと飛べた! ちゃんとできたよ!」
「だから言っただろうが! 俺が教えたんだ、間違いなかったろ!」
「おめでとう、アルト!」
笑いはなかなか止まらなかった。息が切れて深呼吸をして、それでも笑い続けて、喜びと興奮の中で、仔竜は涙を流しながらファルスの体に抱きついた。
「ありがとう、おじさん!」
「俺はお前の努力をほんのちょっと後押ししただけさ。それにしても……」
草や泥、擦り傷でぼろぼろになったアルトを眺めて、ファルスは笑いとため息の混じったものを洩らした。
「お前のこれからの課題はブレーキだな。飛ぶたびに地面を舐めてたら、体の前が擦り切れて無くなっちまうぜ」
「そしたら、おじさんに分けてもらうよ」
仔竜の軽口に、ファルスは人差し指で仔竜の額を弾いた。
「ブレイズの練習生が、一番最初に習う事ってなんだか知ってるか?」
「……スポットの使い方?」
「いや」
「ブレーキング、ですね」
テッドの模範解答に頷きながら、ファルスはアルトを引き起こし、泥汚れを払い落としてくれた。
「ああいう競技に出ようなんて奴は、大抵速く飛ぶことしか考えてない。だが、スタートするのは簡単でも、付いた勢いを緩めたり、殺すのには技術がいる」
「時速八十キロ越える時もあるんだもんね」
ふと、ビデオの中で事故を起こしていたプレイヤーを思い出し、身震いする。
「曲がる、止まるっていう基礎ができて初めて、スポットって話になる。現役のプレイヤーの練習も、そういうボディコントロールが中心なんだぜ」
「人工的に横風を作ったり、わざと落下しながら体勢を立て直す練習場もあるんだよ」
「そうなんだ……」
二人の解説に感心しながら、アルトはふと、心に浮かんだ疑問を口にした。
「そういえば、おじさんてどんな仕事してるの?」
「な……なんだよ、急に」
虚を突かれたと言うには大げさな表情で、ファルスはわずかに後に下がった。
「いくら友達が僕と同じだったからって言っても、すごく前の話でしょ? でも、ちゃんと分かるように教えてくれたじゃない」
「何かそういう関係の仕事をしている、とか」
アルトの言葉を引き取って、少年が問い掛ける。
すると、太ったドラゴンは神妙な面持ちで、二人に顔を近付けた。
「ここだけの話なんだけどな」
「うん」
「はい」
「俺、ブレイズのプレイヤーなんだよ」
呆然として、アルトは大口を開けた。隣のテッドも、同じ表情だ。
「……ぷっ……」
「くっ、ふふっ」
申し合わせたように、二人は遠慮無く大爆笑した。
「ちょっ、ちょっと……そんな、あはははは」
「ご、ごめんなさ……くっ、ははははは」
「いくら何でも、受けすぎだっつーの」
憮然として、ファルスは丸い顔を一層膨らませてそっぽを向いた。
「そういう態度だと、もう何も教えてやんねーぞ」
「あっ、ご、ごめ……ぶふーっ」
ようやく笑いが収まったところで、アルトは質問を思い出した。
「で……ほんとはどんな仕事?」
「輸入品を扱う会社だよ。今は長期休暇中、お前とおんなじだ」
「じゃあ……」
「飛べないからって、知識まで逃げるわけじゃないからな。以前部活で習ったのを今だに覚えてるだけさ」
素っ気ない回答に、アルトは落胆を隠さなかった。
ブレイズのプレイヤーというのは二流の冗談にしても、なにか飛行に関わる指導者の類だと思っていたからだ。
「当たり前すぎて、つまらないか?」
「どこか有名な学校の先生とか、そういうのかと思ったんだけどな」
「だから、さっきから言ってるだろ」
にやにやと笑いを浮かべるファルスに、仔竜は思いっきり舌を出してみせた。
「そういうつまんない冗談は、何度も言わないほうがいいよ」
「ちえっ、最近の仔供は付き合い悪いなぁ」
芝居がかった仕草で肩をすくめると、太ったドラゴンは芝生の上に置き去りになっていた紙袋へと歩み寄った。
「大したもんはないけど、初フライトのお祝いをかねてメシにしようか」
「うん!」
返事と同時に胃袋が猛烈な勢いで鳴りはじめ、今度はアルトが盛大に笑われる。
その笑いを心地よく感じながら、仔竜は大きなサンドイッチと一緒に喜びを口いっぱいに頬張った。
脇に抱えた紙袋を騒がせながら壁をまさぐると、ファルスは照明のスイッチを入れた。
薄暗かった室内が明るくなり、内部の惨状が照らしだされる。部屋のあちこちに散乱するゴミ、スナック菓子の袋や宅配ピザの空き箱、大小のジュースの空瓶。
面倒臭そうにそれらを蹴散らしながら、部屋の主人である太ったドラゴンは、部屋の中央に置かれたソファの脇に紙袋を置いた。
食べこぼしのかすやジュースのしみの付いたソファにもたれ掛かり、ファルスは袋の中からポテトチップスの徳用サイズと、無色の炭酸飲料を取り出して無造作に口に運ぶ。
『その気になったら言ってくれ。いつでも待ってるから』
甦った一言に、体の芯が疼いた。
グレイはずっと、自分の飛行について触れなかった。こちらがそれを要求し、向こうもそれを受け入れたからだ。
あの時、友人その態度をひるがえした理由も、気が付いていた。
「なに、勘違いしてんだかな」
きっかけは、偶然だった。
時折訪れる友人を待つだけの単調な生活。そんな日々にほんの少し飽きていただけだ。何一つこちらの事を知らず、気がね無く付き合える存在。グレイの重すぎる感情を持て余していた自分に、アルトとの交流は安らぎだった。
ただ、それだけのことだ。
そこから何をしようというものではない。
まして、
「う……」
疼きが、怯えに変わる。
ほんの少し、そこへ意識を向けた途端に体中の細胞が悲鳴を上げた。これほどまでにあの場所から心が、それ以上に『体』が離れてしまったというのに。
ポップコーンの袋を開け、中身を口に流し込みながらテレビのスイッチを入れる。適当に押しされたチャンネルで画面がでたらめに移り変わる。
『……が、やはり雨の影響が出る前に入るべきでしたね』
ふと、指の動きが止まった。
特徴的なスーツに身を包んだドラゴンが、金属の枠にはまっている姿。画面下に羅列される文字たち。
『ピットからガラムがコースへと飛び出します。トップとの差は一分五七』
『ガラムとしては、もう少し早めに天候が崩れてくれればという気持ちでしょうねぇ』
ファルスの手からリモコンが滑り落ち、床の上で乾いた音を立てた。
画面の向こうでは、強い雨で灰色になった空間を、たくさんのドラゴンたちが飛びかっている。スポットから吹き上がる熱に蒸気が立ち上って視界を悪くさせているが、彼らはそれを物ともしない。
『さあ、荒れ模様となったネグラスタ・サーキット、現在の所トップはリヒャルト・ジンガー次いでアルベルト・ヒューリック……』
食い入るように全てを見つめる顔に、先程までの無関心はない。熱をこめた眼差しが画面をむさぼっていく。
『……最終スポットに突入! トップ集団は固まったまま、最後のスポットを……』
「すいません! どなたかいらっしゃいますか!」
突然の声に、ファルスの全身が冷や水を浴びたように縮こまった。
慌てて床に転がっていたリモコンをまさぐり、テレビのスイッチを切ると、荒々しく叩かれている玄関のドアへと向かう。
「誰だっ!?」
「ご……ご注文のピザをお届けに……」
おどおどとこちらを見つめるドラゴンの青年を見て、彼は深くため息をついた。
「驚かせて悪かったな。で、ピザは?」
「は、はい。それじゃ、こちらが商品になります……」
足早に去っていく後ろ姿を見送って、ファルスは部屋に戻った。
持ち込んだ四箱のLサイズピザを床に並べ全ての封を解く。
『そういうつまんない冗談は、何度も言わないほうがいいよ』
「つまんない冗談、か」
そう呟くと、太ったドラゴンはサラミの敷き詰められたピザを無表情で頬張る。だが、体の奥から突き上げる恐怖と震えは、それでも収まらない。
やがて、すべての食事を平らげ終わったファルスは、ぐったりとその場に寝そべった。板の間のひんやりした感触が、食いすぎでほてった体を冷ましてくれた。
このまま、何もせずにいれば眠気が襲ってくる。そうすればまた何事もない一日が始まる。
その視線の先に、小さな現実が映った。寝そべった鼻先の少し先、テーブルの下に転がる一枚のカード。航空免許書と印字されたそれに貼り付けてあるのは今より十分の一は痩せた顔。
そして、ネームのところに刻まれた、ライル・ディオスという名前。
荒々しく起き上がると、太ったドラゴンはいらだたしげに免許書を引っつかみ、部屋の隅に投げつける。
「ちくしょう……」
呻きながらうずくまると、彼は買い置きの菓子のむさぼり始めた。
その音は、しばらく止むことはなかった。
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