2、Hide and Seek

「よーし! それじゃみんな聞け!」

 あいかわらずバカでかい声を張り上げて、ハワード先生は目の前に並んだ仔竜を見渡した。

「お前達Eクラスは滑走を中心に練習することになる。授業でもやっていると思うが、滑走は飛行を行う上で大切な基本姿勢を体に叩き込み、ポートから飛び立っても体を支えることのできる翼の筋力を鍛える効果がある!」

 夏の日差しと熱された校庭の暑さに体をあぶられながら、アルトは複雑な気持ちで体育教師の説明を聞いていた。自分の目の前には今年から飛行の授業が始まった四年生や、低層部の飛行に入っているはずの五年生が並び、真剣な表情で先生を見つめている。

「滑走は、現役のスポーツ選手も毎日欠かさず行っている訓練だ。その重要性を理解して、手を抜かずに練習すること。分かったな!」

 元気よく返事をする生徒の中で、アルトは返事にも満たないうめきを漏らした。なぜならハウリンの言葉は、去年この校庭で聞いたものとそっくり同じだったからだ。

 あの時はまだ、この練習で自分も飛べるようになると信じていた。だが、その期待は失望に変わり、すでに諦めに近い感情に変わりつつあった。

「それでは四年生から順に、翼を広げて五十メートルダッシュ! 終わったら整列して待て!」

 言われたとおり四年生が大きく翼を広げて白線の引かれたコースを走っていく。バランスがとれずに右左へ揺れてしまう仔や、翼がどんどんすぼまっていく仔、それでもみんな一生懸命走っている。

「ほら、ちゃんと翼を広げて! 少し走ったら軽くジャンプ!」

 声にしたがって一人の仔竜が軽くジャンプする。その体が一瞬空に浮くが、翼から力が抜けて空に向かって閉じられてしまう。

「もっとしっかり翼を支えろ! 背中に押し付けるようにして水平に保つんだ!」

 仔竜が走り、軽くジャンプする。そして滑空。次々にアルトの前から生徒がいなくなる。

「次!」

「は、はい!」

 翼を広げてアルトは走り始めた。ピンと張った翼が風を切り、体がすいっと背中側に向けて引っ張られる感覚が生まれ、一歩ごとに足が地面から離れていく。

「ほら、そこでジャンプ!」

 爪先立ちになりながらアルトの足が砂場を蹴る。浮き上がった体が大きく飛び上がり、そのまま一メートルほど空を泳いで地面に着地する。

「よし! その調子だ!」

 すでに走り終わっている仔竜たちがこちらを見つめている。練習しているドラゴンの中で、アルトのジャンプは誰よりも高く、きれいな放物線を描いていた。

「よし。それじゃ、次はトラックに移動してカーブの練習だ! ……アルト!」

 一緒に行こうとした青い仔竜を呼び止めて、教師はちらりと練習用ポートに目を向けた。

「お前はポートで練習だ」

「え、でも」

「フォームを見ていたが特に問題はないようだし、どんどんポートから飛んで感覚を掴んだほうがいいだろう」

 何か言おうとしたアルトの顔を覗き込んで、教師は力強く宣言する。

「失敗するのも経験だ。恐れずにどんどんやってみろ」

「……はい」

 相手の熱意とは裏腹に、仔竜の心は待ち受ける結果を予感して、冷たく沈み込んでいた。


 誰一人いない坂道を、アルトは下っていた。自分以外の仔供たちが去っていくのを見計らって出てきたのだ。今頃はみんな、家に戻るか町へ遊びにいっているはずだ。

 練習は散々だった。

 何度繰り返しても、自分の体は地面にまっさかさまに落ちてしまう。ポートのぎりぎり端で飛んだり、助走を付けてみたりもしたが、結果はいつも決まって落下だった。

『ほら、もう一回!』

 そう言う先生の顔がどんどん険しくなり、最後に怒ったような表情でこう告げられた。

『……仕方ない。明日から滑走に戻れ』

 しばらく様子を見る、それがハウリンというあだ名にそぐわない、消極的な答えだった。

 正直、滑走に関してはもう何も期待していない。なぜなら、四年生の頃から誰よりも先に上手にできていたからだ。大きな体をもてあましていたダンよりも早く。

 それなのに自分は未だに飛べていない。一体何が悪いのか、それすらも分からない。思えば思うほどイライラした気持ちが募ってくる。

 気が付くと、いつの間にか坂道は終わって交差点にたどり着いていた。

 街路の脇に建てられた時計が十二時五十分を指している。今日は午後からテッドと遊ぶ約束をしているが、とてもそんな気分にもなれない。

「はあ……」

 嘆息して、アルトは交差点をテッドの家のある直進ではなく、左へと曲がった。

 コンクリートや石作りのビルが立ち並ぶ通りを抜けてしばらく歩くと、行く手に緑の木々が生い茂る空間が現われる。その彼方にひときわ高くそびえ建つランディングポートが見えた。


 ランディングポートの周辺には色々な制限があり、半径一キロに渡って高層建築を建てられない決まりになっている。そのため、大抵のポートは周囲に緑地帯を造り、公園として一般に開放していた。

 横断歩道を渡り、緑の木々が作り出した門をくぐると、アルトを色々な食物の匂いが出迎える。入り口近くのあちこちに、ホットドッグやアイスクリームなどを売る屋台が並び、鼻腔と胃袋を刺激された人々が群がっている。

 緑の芝生のむこうには噴水を囲む広場があり、ストリートオルガンの音色に合わせ、銀色のリングを器用に投げ交わすジャグラーや、色とりどりの風船を配っている者の姿が見える。

 そして、いつも以上の仔竜や子供が混じりあって、一層の賑わいを見せていた。

「おじさん、ソーダ一つ」

「あいよ、ソーダね」

 お金を手渡すと、出店の主人からビンを受け取って歩きだす。甘く喉元を弾けて過ぎる液体を飲み下しながら、アルトは空に視線を移した。ちょうど、ポートから射出された竜便がまた一人、空を駆け上がっていくのが見えた。

「いいなあ……」

 黒い肌を持つそのドラゴンは十字型を乱さずに飛翔していった。体も引き締まって余分な所がなく、ブレイズのプレイヤーを彷彿とさせる美しさがあった。

 竜便の姿を見送ると、アルトは少し首を傾げて思案した。

(……今日は月曜だし、天気もいいから大丈夫だよね)

 頷くとアルトは歩道を抜け、ある場所を目指して歩きだした。


 体中についた木の葉を叩き落として、大きく伸びをする。

 目の前に広がった校庭ほどもある空間。雑草がはびこる中にレールが何本か敷かれ、その端の方にアルトの背と同じくらいの、大きな車輪がついたかごのような物が並んでいる。

 観光シーズンや天候の急変によって、ランディングポート内の着陸施設でまかないきれない時に使用される臨時着陸場。特別な理由が無いかぎり立ち入りは禁止なのだが、フェンスの一部に隙があり、そこから通り抜けられることを知っていた。

 誰もやってこない、静かな自分だけの世界。ここの存在はテッドにすら教えていない。

 車輪の上の荷台には斜めに板が立てられ、その回りをネットが被っている。着陸時の衝撃を和らげる緩衝器。その内の一つに、青い仔竜は座り込んだ。

 内側にはスポンジでクッションが張られ、斜めになった板の裏にはスプリングが入っているので、ちょうどドラゴン用の安楽椅子の形に似ていた。

 板の上にうつぶせになり、アルトは視線の果てにそびえ立つ塔を眺めた。再び屋上から、新たな点が蒼空へと射出されていく。

「あそこから打ち出してもらったら、落ちるまでに飛べるかなぁ……」

 仔竜の口元に、思わず苦笑いがこぼれる。

 ポートを利用できるのは航空免許を持つ十六歳以上、しかも屋上の射出機は長距離以外は使用できないことになっている。

 航空免許取得の第一条件は、学校で飛行できると認められている事だ。

「はぁ……」

 学校で飛べなければ大人になってもポートは使えない。ポートが使えないということは航空免許がないということ。航空免許がなければ、ライルのようなブレイズのプレイヤーになることもできない。

「ライル……」

 彼の名前を苦い思いで口にする。心に浮かび上がった不安、このまま自分は飛べないまま、あこがれたあの場所に行くこともなく終わるのか。

 アルトはかぶりを振ると緩衝器から降り、翼を広げた。

 それから、思い描いてみる。

 スタートポートの一番グリッド、そこで身構える自分の姿、シグナルが赤から緑へ。

 心の中の自分がホームストレートへと滑り降り、つられて現実の自分が、翼を広げたまま地面を駆けていく。

「さあ、勢い良く飛び出しました、アルト・ロフナー。序盤より後続を大きく引き離して、快調な出だし」

 緩衝器の間を擦り抜け、レールの上を駆け抜けていく。踏み付けられた雑草が足元でがさがさ言うが、スポットの音ということで無視する。

「最終スポットを抜けて、ホームストレートへ……っと、ここで背後からものすごい追い上げだ!」

 イメージのアルトの背後から追い上げてくる、深い青色のドラゴン。

「さすがはライル、新人のアルトをものともせず、ライトニング・フォールで瞬く間に一位へと躍り出た!」

 自分を引き離して行くライルの尻尾が、小馬鹿にするように左右に揺れる。時々ライルがやっていた挑発のサインを、イメージの彼も同じように繰り出してきた。

 その姿に笑いかけ、その背中に追いすがろうと、アルトがさらに加速する。

「二人の距離は変わらぬまま、アッパースポットに突入! お互いに急降下の構えだ!」

 茂みに近いレールの前へ、一気に走りこんでいく。

「ゴールまで、あと四百、三百、二百、百……っ!?」

 いきなり誰かが木立を抜け、進路を塞いだ。必死に足を踏ん張るがとても間に合わない。

「ど、どいてぇっ!!」

「んなぁっ!?」

 鈍い衝撃とともに、アルトと相手はお互いを弾き飛ばして、地面に引っ繰り返った。

「ってぇ~……」

「ご……ごめんなさい!」

 ぶつけた鼻と背中と翼に痛みを覚えたが、すぐに起き上がって頭を下げる。

「あの、僕は、いつもここで遊んでるってわけじゃなくて、今日はたまたま学校帰りで、友達の家に行くのにはまだ時間があって、その」

「う~……なんだってぇ?」

 頭を振りながら起き上がってきた相手を見て、アルトは半歩後ずさった。

 藍色の肌を持つ大人のドラゴン、なのだが。

 まず目に付いたのが、大きく突き出た腹だった。半袖のチュニックを身につけているが、服の前後を合わせるベルトが一番端の穴のところでようやく止まっている。

 頬やあごの下は豊かに肉付き、首回りもゆるんでいる。大きなズボンからは太い足と、ソーセージを思わせる形に膨れた尻尾が出ていた。

 制服でないところを見るとポートの職員ではなく自分と同じ部外者らしい。ちょっと安心すると、アルトはもう一度頭を下げた。

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

「なんでわざわざこんなところを走ってんだよ。遊ぶならもっと別の場所があるだろ?」

「ごめんなさい……」

「まぁ……いいけどよ。次はもっと気をつけて……ああっ!?」

 絶叫した彼の視線の先に派手に破れた紙袋がある。破れた隙間から小さな包み紙が転がり、中に入っていたハンバーガーがほとんど土にまみれていた。

「ああ、畜生!」

「あう……」

 大慌てで無事な物を拾い始めるドラゴンと一緒に、仔竜も作業を手伝った。

「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい!」

「謝るより先にそっちの足元にあるの拾ってくれ!」

 しばらくの奮戦の後、わずかに無事だったハンバーガーを片手に抱えて、彼は嘆息した。

「やれやれ、せっかくの昼飯が台無しだよ」

「あの……ごめんなさい」

「あ~?」

 難しい顔をしている相手に向かって、アルトは再び頭を下げた。それから緩衝器の近くに置いてあったカバンを取って戻ってくる。

「それで僕、あんまりお金もってないから、弁償とかできそうもないし……だから」

 小さな布包みを中から取り出すと、相手に差し出した。

「僕のお昼なんですけど、全然足りないと思うんですけど……」

「当たり前だ! 食えなくなったハンバーガー三十個分、どうしてくれんだよ!」

「う……」

 相手は目を吊り上げてこちらをにらんでいる。唾を飲み込んで、仔竜はポケットの財布を差し出した。

「ごめんなさい、これで、許してください……」

 怖さと後悔で体が震えてくる。自分はどうなるんだろう、殴られるのか、それとももっと金をよこせとか言われるんだろうか。こんなことならまっすぐテッドの家に行っていればよかった。嫌な想像が頭をぐるぐるめぐりだして、ぎゅっと目をつぶった。

「……わかったよ」

「え……?」

「わかったからとりあえず、それしまえ」

 恐る恐る顔を上げると、太ったドラゴンは苦い顔のまま片手をひらひらさせていた。

「でも……」

「いいからしまえって!」

 相手の怒声に体が再び縮こまる。そのまま硬直していると、太ったドラゴンの影が深いため息と一緒にかすかにしぼんでいくのが見えた。

「怒鳴って悪かった。もう気にしてないから、財布はしまってくれ」

「で、でも」

「頼むよ。でないと、俺がお前から金を巻き上げてるように見えちまう」

 のろのろとポケットに手の中の物を戻す。それでも顔があげられず、仔竜はきまずい沈黙を感じたままその場に立ち尽くしていた。

 荒々しく頭をかきむしる音。それから、大きな手がそっとアルトの頭に触れた。

「それなら……お前、この辺りで美味い料理を食わせてくれる店を知ってるか?」

 意外な一言に彼の顔を見上げて、少しばかり考えてみる。

「僕の誕生日の時に行くお店なら知ってるけど……」

「……チェーン系のレストランじゃないだろうな?」

「そういうんじゃないと思います。結構有名なお店みたいだし」

 手元に残ったハンバーガーを一瞬のうちで食べきってしまうと、太ったドラゴンは頷いた。

「わかった。んじゃ、案内頼むよ。お前の名前は?」

「あ、アルト、です」

「俺はファルス。それから、別に敬語はいいからな」

 そう言うとファルスは窮屈そうに身を屈めながら、茂みへと入り込んでいく。その後を追ってアルトも着陸場を後にした。


 昼下がりの太陽が照りつける大通り。車道をはさんで反対側には、白い堤防がどこまでも伸びて、海と陸とを隔てている。海岸通りに出てから、二人はずっとこの道を歩いていた。

「おーい、まだかー。腹減ったぞー」

「も、もうすぐだよ」

「腹減って死にそうだよー、なんか食わせろー」

 何度目かの同じやり取りに、空腹のためかファルスが不機嫌そうな顔になる。相手の気を紛らわせようと、アルトはおずおずと話しかけた。

「そういえば、おじさんはなんであそこに?」

「何でって、メシ食いにだよ。誰も来ないし、静かだからな」

「いつから? 今まで、おじさんのこと見たことなかったんだけど」

「今年の二月くらいから時々な。半年くらいは行ってるが……」

 そこで言葉を切ると、ファルスは何かに気が付いたようにぽんと手を打った。

「なるほど。あそこはお前の秘密基地ってわけだ」

「そ、そんな大げさなもんじゃないけど」

「つまり、俺の方が侵入者だったってわけか……悪かったな」

「い、いや、僕もポートの人に無断で入ってるし」

 そんなことを話している間に、二人の行く手に白い木造の建物が見えてきた。潮風にのってトマトやくせのある香草の薫りが漂ってくる。店の前に立つと、大きな丸い背中は入り口の前に立ち、メニューの書かれた黒板をじっくりと眺め始めた。

「ボンゴレロッソランチ、ねぇ」

「お店の名物なんだって。結構美味しかったよ」

「そっか。よし、入るぞ」

「うん……って、僕も!?」

「だってお前の弁当、さっき俺が貰っちゃっただろ? 昼飯どうするんだよ」

 ここまで来る途中に、アルトの弁当は空腹を訴えるファルスの腹に収まっていた。とはいっても、もともと自分が相手のハンバーガーをダメにしたのが原因だ。

「僕は平気――」

 ぐるるる。

 とても平気には思えない盛大な腹の虫がアルトの体から響く。大笑いしたファルスは、そのまま頬を火照らせた仔竜の肩を抱くようにして店に入った。

「いらっしゃい! あら、こんにちは!」

「こ、こんにちは」

 青いエプロンのヒューのウェイトレスが、結った栗色の髪を揺らしてこちらにやってきた。

「今日はどうしたの? お父さんとお母さんは?」

「えっと、その」

「俺はこいつのおじさんです。な?」

「そ、そうです」

 アルトとファルスの体色を見て納得したらしい彼女は、たくさんのお客で賑わう店の奥の方へと二人を案内してくれた。海を臨む窓際のテーブル、ファルスは向かいに腰掛けてメニューを受け取った。

「今日のおすすめは?」

「マグロのいいのが入ったんで、ステーキにしてお出ししてます。後はパエリヤが」

「そうかぁ……」

 会話を聞き流しながら、アルトは合成皮革で装丁されたメニューを開いてみた。

 アンティ・パストと書かれた最初の項目には、『生ハムのなんとか』とか『モッツアレラチーズとトマトのなんとか』といった、あまり知らないようなものに混じって、パスタやソーセージなどのよく知っているものが色々と並んでいる。

「……じゃあ、アンティだけど小牛のカルパッチョ以外、全部もってきて」

「かしこまりました」

(小牛のカルパッチョ……)

 十五種類程ならんだ項目の一番下にあるメニューに目が行き、それから硬直する。

「うえっ!?」

「なんだよ、急に大声だして」

「そ、その……なんでもないよ」

 不思議そうに問い掛ける藍色のドラゴンに、あわてて両手を振る。

「メインはさっきのマグロステーキ二人分に、パエリヤに……パイ包み焼きはできる?」

「今日はスズキですけど、よろしいですか?」

「うん。それと、ボンゴレ・ロッソに……」

 首筋に冷汗が伝っていくのを感じながら、仔竜は手にしていたメニューを閉じた。この分ならどんなものか調べなくても、ほとんどの実物を目にできるはずだ。

「以上で、ご注文はよろしいですか?」

「はい、ありがとう」

 焦った様子もなく、伝票三枚にも及ぶ注文を読み上げている姿を、アルトは茫然と受けとめていた。反対に厨房の中の白いドラゴンの顔はかなりげんなりした顔をしている。

「な、なんか……」

「すごい大食いだ、とか思ってんだろ?」

 こちらのあわてぶりを楽しむように、ファルスは笑いながらこちらを眺めていた。

「お前の分もあるから、多めに注文してるんだよ」

「はあ……」

 やがて、手押しのワゴンに満載の前菜が運ばれてきた。

「好きなように食っていいからな」

 取り皿に、赤黒い生ハムとサラダを山盛りにして手渡すと、彼は目の前の料理達の処理を開始した。アルトの見ている前で瞬く間にソーセージが、チーズの盛り合わせが、魚介類のマリネが、その口の中へと消えていく。

 おそらくこちらのために残しておいてくれているのだろう、それぞれの料理を少しずつ皿に残して次の料理へ。その姿は昔サーカスで見た、何でも食べる手品師のことを思い出させた。ただし、今目の前で脅威のマジックを繰り広げているドラゴンは、食べたものを一切戻す気はないらしい。

「……ん? なんだ、まだほとんど残ってるじゃないか」

「あ、うん」

「育ち盛りなんだから、もう少し食った方がいいぞ」

 苦い笑いを浮かべて料理を口に運ぶアルトを尻目に、ファルスはさっきのウエイトレスを呼んだ。

「メインの方、もう持ってきちゃっていいから」

「はい」

「それと、ケーキって何が残ってる?」

 デザートを注文している彼の大きなお腹を眺めていた仔竜は、何となくその背中へと意識を移した。そこにはやはり、一対の翼が付いている。ここにくる途中にも確認したが、怪我や病気で問題が生じている様子もない。だが、こんな状態でもドラゴンは飛べるんだろうか、そんな疑問に自然と質問が口をついて出た。

「……おじさんは、今でも飛べる?」

「なんだよ、いきなり」

 突然の問いかけに目を白黒させるファルス。だが、言葉はそれでも止まらない。

「子供の頃はどうだった? 普通に飛べてた?」

「……ずいぶん、失礼な質問だな」

 少し険しくなった相手の表情に、アルトはあわてて頭を下げた。

「ごめんなさい。でも、僕……」

「飛べないのか?」

「……うん」

 何度か頷くと、藍色のドラゴンはいつのまにか給仕されていたパエリヤを皿に取り分けた。

「いくつなんだ、お前」

「……十二才」

「なるほど。気になってくる年頃だな」

 彼の声色には馬鹿にしたところはなく、むしろやさしい響きがあった。

「そんでもって、飛ぶことなんておかまいなしのポテトなおっさんに目の前でバクバクやられたら、そりゃ怒るわな」

「べ、べつに、怒ってるってわけじゃ……」

 胸の内を見透かされて、思わず口篭もる。

「結論から言えば、昔は飛べたよ。初フライトは八歳の時」

「すごい……」

「でも、今じゃこんな感じだ」

 ファルスが一打ちすると、腹から小気味のいい音が響いた。

「さすがにここまで太ったら、一メートルも飛べないよ」

「飛べなくても、いいの?」

「もう充分、飛んだからな」

 藍色のドラゴンはそこで言葉を切り、窓の外へと顔を向けた。

「そっか……」

「今は飛ぶことより、うまいものを腹一杯食う方が大事だしな」

 振り返った顔に浮かぶ笑み。

 恵まれていたからこそ、空に対する興味を失ってしまったのだ。隠し切れない憤りとやるせなさに、アルトはテーブルクロスの端を見えないようにきつくねじった。

「まぁ、そんなに気にするなよ。先天的な異常でもない限り、ドラゴンに生まれた奴は遅かれ早かれ飛べるようになるんだ」

「……でも、クラスのみんなは、僕はほんとはヒューなんじゃないかって言ってるよ」

「なんだ、お前もそんなこと言われてんのか。仔供の世界はどこも似たり寄ったりだな」

「お前……も?」

 伏せていた顔を上げると、ファルスはニヤニヤと笑いながらこちらを見つめた。

「昔、俺のクラスにもいたんだよ。いつまでたっても飛べない奴。あいつもヒューに生まれたらよかったのにってからかわれてたぜ」

「そうなんだ……」

「ちなみに、そいつと知り合ったのが十五のときで、高等部初日の授業でも落っこちてたぞ」

「じ……十五歳っ!?」

 つまり、その竜は学校で飛行の授業が始まってから約五年間、好奇の視線に晒されて飛行の授業で落ち続けたことになる。死刑宣告を聞くようにぎゅっと身を固くすると、アルトはつばを飲み込んでゆっくりと問いかけた。

「……その、ドラゴンは、どうなったの?」

「ちゃんと飛べるようになったよ、そのあと」

 パエリヤを食べるついでに投げ出された一言。目の前の料理の感想でも述べるような相手の態度に、仔竜の口がぽっかりと開いた。

「そ、それ、ホント!? ウソとかじゃなくて?」

「なんで初対面のお前にウソを言う必要があるんだよ。これはれっきとした事実」

「その友達って……今は?」

 思わず相手の大きな腹に目が行く。こちらの不安な表情にファルスは爆笑した。

「安心しろ! 今じゃ長距離竜便の仕事について、毎日飛び回ってるよ。最近は、滝や断崖絶壁の上から飛ぶ競技にも参加してるってさ」

「友達なんだ、その人と」

「腐れ縁みたいなもんさ。あいつがひいひい泣きながら落っこちるの、何度も見たよ」

 まるで体中から重い荷物が取り除かれたような感覚。見ず知らずの飛べなかった元仔竜のことを思い、アルトは深々と安堵した。

「ちょっとは気が楽になったか?」

「う、うん」

「んじゃ食え。うまいぜ」

「うん!」

 新たに運ばれてくるパイ包み焼きの入ったキャセロールを横目で見ながら、仔竜は皿いっぱいのパエリヤに集中した。


 店から歩道に出たところで、アルトは大きく伸びをした。

「ふわぁ……ごちそうさま」

「お前、いつもわざと食べないようにしてるだろ」

 意外な指摘に振り返ると、ファルスはやっぱりな、といった風で肩をすくめてみせた。

「飛べない上に、ホントのポテトになるわけにはいかないってところだな」

「……どうして分かったの?」

「あいつもな、同じようにしてたからさ。少しでも軽くなって、飛べるようにってな」

 大きな背中が動きだし、仔竜がその後を追う。

「……なんで、飛べないドラゴンを『ポテト』って呼ぶのか、おじさんは知ってる?」

「ジャガイモが芽を出したところって見たことあるか?」

「理科の教科書に載ってたよ」

「で、それを思い出しながら、俺を見てみろ」

 新芽がにょきにょきと伸びたジャガイモの写真、それがまん丸の太鼓腹を持つファルスの姿と重なり合う。

「ぷっ」

「……ま、そう言うことだ」

「そ、そっか」

「元々は、空軍関係の俗語でな。空挺部隊を退役した軍竜を冷やかしたのが、始まりだって言われてる」

「空挺部隊?」

「大型輸送機からばらまかれて、都市や局地を制圧する飛行部隊さ」

 堤防の向こうから吹き付けてくる潮風が、街路樹を揺らして涼しげな音をたてる。浜辺を見やり、ファルスは首筋を掻いた。

「やってる仕事が、飛べなきゃ話にならない所だからな。厳しい訓練と、普段から必要最低限の食事を強いられるんだそうだ」

「大変だね」

「ところが退役した途端、摂生の反動でぶくぶくに太っちまうんだと。そうなると、二度と飛べなくなるそうだぞ」

 アルトは思わず身震いした。飛べるようになっても、空挺部隊だけは絶対に入るまいと心に刻み込む。

「んで、その飛べなくなった体付きが芽を出したポテトに似てるから、そう呼ばれるようになったんだとさ。ポテトの一大産地では、種芋は空から蒔かれるらしいし、そのイメージも重ねてるんだろうな」

「へえ~……」

 解説されて仔竜はしげしげと、実物を観察した。

「じゃあ、おじさんも空挺部隊出身?」

「……そういうのは、思ってても口にしないもんだ」

「あはは」

 藍色のドラゴンは、アルトの額を軽くつついた。

「まあ……努力するに越したことはないとは思うけど、無理はするなよ」

「え?」

 それまでとは打って変わった真剣な表情で、彼はこちらを見つめた。

「世の中万事便利になって、ドラゴンの飛行もそれほど重要じゃなくなってきてる。いずれは飛べるようになるんだし、のんびりやれよ」

「でも……」

「確かに早く飛べるようになればかっこいいさ。でも、俺を見てみろ」

 大きく突き出た腹を叩いて、ファルスはにっこりとした。

「いくら八歳から飛べてたって、こうなったらおしまいだぜ?」

「ぷっ……」

「お前のクラスの一番飛べる奴、ダンだっけ? そいつだって十年、二十年経ったら、まるっきり立場が入れ替わってるかもしれないぜ?」

 唐突に浮かんだ想像に、仔竜は思わず吹き出していた。さっきの黒い竜便の姿に自分が重なり、はるか下の方にうごめく、丸くて赤い姿。

 口をしっかり閉じて笑いをかみ殺すと、アルトは頭を下げた。

「じゃあ、僕もう行くよ。友達の家に行く約束してるし」

「おう」

 少し窮屈な胃袋を感じながら、仔竜は太ったドラゴンを追い越して走りだした。

「お昼、おいしかったよ! ごちそうさま!」

「じゃあな」

 しばらく行ったところで立ち止まり、振り返ってみる。

 藍色の背中が、港の方へと歩いていく。遠くからでも一目で分かるまんまるな姿に、悪いと思いつつ笑みがもれた。

「……へんな竜だったな」

 さっきの会話を思い出し、また口元がほころぶ。

「ほんと、へんな竜」

 そう呟いて、青い仔竜は友人の家を目指して走りだした。約束の時間に遅れた言い訳を考えながら。


 次の日も、相変わらずセドナの空は青かった。降り注ぐ日差しがむぎわら帽子を貫いて、髪の毛の間に汗を浮かばせていく。目の前を過ぎるトラックを眺めながら、アルトは横断歩道の前で立ち止まっていた。交差点の向こうにはなだらかに続く坂道が、その果てに学校がある。

 信号が青に変わり、仔竜は足を踏みだそうとした。

 その途端、頭の中にひたすら滑走と墜落を繰り返す自分のイメージがよぎる。気が付けばシグナルは赤へと転じ、次々と車やバイクが横切っていった。

 やがて、彼は学校から視線を外してポートの公園へと歩きだした。

 入り口を抜け、芝生を横切り、誰もいないはずの秘密の場所へ。

 臨時着陸場には一人の先客がいた。

 丸い体を緩衝器に押し込むようにして座る背中。ファルスはこちらに気が付き、首をめぐらせて片手を挙げた。

「悪いな。またお邪魔してるぜ」

「こ、こんにちわ」

 そう言ったきり、アルトは黙り込んだ。何か言われるだろうか、飛行の訓練があることは話してある。何か言われるよりも先に、仔竜は発着場から逃げ出そうとした。

「いい天気だな」

「う……うん」

「ちょうどアイス買ってきたところなんだ。一緒に食わないか?」

 片手に抱いた小さなバケツほどもある容器から、乳白色のバニラがすくい取られる。それを美味そうに舐め取ると、彼は何気ない様子で言葉を継いだ。

「秘密基地の間借り賃ってことでさ」

「……それ、おじさんの分でしょ? 僕が食べても大丈夫?」

 相手の食欲を考えたこちらの言葉に、ファルスの片目がいたずらっぽく閉じられた。

「溶けちゃうんだよ、もう一個」

 緩衝器の影から取り出される、かなり小振りな容器。

「今日も暑いし、ちょっと休憩していけよ」

「ありがと……おじさん」

 仔竜はそれを、深い安堵とともに受け取った。

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