1、じゃがいもの夏

 アルトの住んでいるセドナは、通称『風の町』と呼ばれている。

 西に広がる紺碧のセドナ湾と外に広がるアドーナ海から吹く海風。そして、街を囲うようにしてそびえるアペン山脈が生み出した山風。その二つが組み合わさって、この街にいつも複雑な気流を作り出している。その風を利用した長距離竜便の中継点として利用されるほか、良質な海産物の漁場としても有名であり、十万人にやっと届くかという小さな地方都市にしてはこれ以上ないという活気に恵まれていた。

 そんなセドナの北、街を見下ろすようにしてそびえるトルタ山の中腹に、アルトの通うトルタ小学校はある。その校庭の隅に建てられた大きなやぐらの前に、アルトを含めた仔竜たちは整列していた。

 やぐらは木造で階段が付けられている。階段の途中には踊り場が三つあり、一番下と真ん中に開いた入り口、そして屋上とつながっていた。正式には、飛行練習用ポートという名前で呼ばれている。

「今日が夏休み前最後の飛行の授業だ。気を緩めずに、安全に気をつけて飛ぶように。いつも言っていると思うが、ちゃんと防具の確認をして、変な姿勢で飛翔口から飛び出さないこと。私語は謹んでふざけないこと。わかったな」

「はい!」

 元気よく応える他の仔供とは裏腹に、アルトは口の中でもにょもにょと返事をした。

「よし。では全員整列してポートに入れ! 現在Aに進級しているものは上層部、BとCは中層部に移動! って、そこ! 言ってるそばから私語をするな!」

 騒がしく列を作る仔供の最後尾に並びながら、アルトは自分と他の仔竜と見比べた。

 背はそれほど低くないが、同じ六年生ではチビの部類に入るだろう。やせっぽちの体格のせいで、体操着のズボンのサイズは四年生のものだったする。

 ただ、目立った違いはそのくらいだった。尻尾が長すぎるわけでもないし、翼がいびつに曲がっていたり、角が欠けているわけでもない。

 間違いなく自分自身も同じドラゴンのはずだ。

「おい、アルト」

「は……はいっ!?」

 気が付くと、列を整理していた先生の緑色の顔がどアップになっていた。

「どうかしたか?」

「え、そ、その」

「やっぱり、もう少し練習するか?」

 厳ついしかめ面が、気づかうような表情に変わる。その顔に現れた感情を押し返すように、仔竜は声を上げた。

「だ、大丈夫、です! やります!」

「それなら早く移動しろ。もうみんな位置についているぞ」 

 気が付けば、前に並んでいた生徒はそのほとんどが、階段を上ってポートに入っていっていた。一人の太った仔竜が中層部の入り口をスルーして上層部へ上がっていくのが見える。それどころか列に入っていた男子のほとんどが上層部へ移動していた。

 はしゃぎながら女の仔たちが中層部に入っていく。その中に混ざった男の仔が、嫌そうな顔で中に吸い込まれていく。

 ぽつんと残されたアルトに、緑色の先生は少し声のトーンを落として言った。

「がんばれよ」

「……はい」

 うなずきとうなだれの中途半端な首の動きをすると、階段に足を掛ける。わずか十段昇ったところで、青い仔竜は飛翔口に入った。

 やぐらの四方には壁が無く、外の景色がよく見える。防風林の茶色い幹と黄色い砂が敷き詰められた広場。アルトのいるこの場所には空の青は存在しない。

 そして、この最下層の飛翔口には自分以外は誰もいなかった。

「クリス・ライアン!」

 外からの呼び声に導かれて、頭の上を一つの足音が駆け抜ける。

「それっ!」

 掛け声と一緒に足音の主人が唐突にアルトの視界にあらわれた。広げた翼で鋭く風を切りながら、空を滑っていく。

 防風林に挟まれて広がる砂の広場。その端に描かれた石灰の円を目指して、翼を広げた背中が突き進み――着地。目印の円を少し外したものの、飛行者は出番を待っている生徒の拍手を受けた。

 再び起こる号令と返答。次々と生徒が風を切って飛翔していく。中層部の生徒達は残らず広場の果てにある円に到着していった。

「ダン・トリエスタ!」

 呼び出しの声に、上から聞こえていた喧騒が急に止まった。広場の向こうにいる生徒も真剣な表情ではるか最上階に視線を向けている。

 呼び出しに応え、天井を駆け抜けていくしっかりとした足取り。力強く天井の端が蹴られる。思わず、アルトは立ち上がって飛翔口から身を乗り出した。

 大きな赤い姿が空を横切り、背中を反らせて宙返りを一つ決める。体勢を立て直すと矢のような速度で中層部用の奥に描かれた、上層部用の円を目指して滑り降りていく。狙いをあやまたず、ダンは円の中央に着陸を成功させ、両手を差し上げた。

『おおーっ!!』

 割れんばかりの拍手と歓声。その中心にいる仔竜は誇らしげに顔をそびやかすと、生徒の列に入った。その後も次々と上層の生徒が呼び出され、きれいな十字を蒼空に描き出していく。

 そして、最後の飛行者が太った体を何とか円の中に落とし込むと、生徒達は爆笑と拍手でそれを迎えた。

 称賛が、唐突に止んだ。

 天井からはすでに足音がしない。

 遠くで鳴いている蝉の声がよく聞こえるほど、辺りは静まり返っていた。

 視線が集まっている。たった一人しかいない場所、そこに立っている青い仔竜に。広場の向こうにいた仔供の目がじっと注がれていた。

「アルト・ロフナー!」

 唾を飲み込むと、アルトは他の飛行者と同じように、空に向かって走りはじめた。

 床の端に印された黄色い踏み切り線を蹴り、背中の翼をいっぱいに広げる。翼と背中に風の抵抗感がのしかかり、青い体が一瞬宙を滑った、ような気がした。

「うわああっ」

 突然、全身に感じた浮力が消え、アルトの体は翼を広げたまま下に敷かれていたマットに墜落した。一瞬遅れて腹を強烈な衝撃が襲い、息が詰まって意識が遠ざかる。

「……落ちたぞぉっ!」

 誰かが叫んだ瞬間、生徒の中から爆笑が巻き起こった。

「さすがアルト、また落っこちてるよ!」

「しょうがねぇよ。あいつポテトだもん」

「あれじゃ、あいつ一生飛べないんじゃねーの」

「こら、お前達! やめろ!」

 先生の一喝で爆笑が小さなクスクス笑いに変わる。もう一度しかりつけると、濃緑のドラゴンはアルトの方へやってきた。

「……大丈夫か?」

「……はい。大丈夫です」

 たしかに痛いが、立ち上がれないほどじゃない。ただ、アルトとしては、もう少しマットの上でうずくまっていたい気分だった。せめて、みんなの笑いが収まるまで。

「もしかすると、飛ぶ瞬間に余計な力が体に掛かっているのかもしれん。次に飛ぶときは助走をつけず、踏み切り線の所から直接飛んだほうがいいかもしれないな」

「……はい」

 動く気配のないアルトを濃緑色の両手が引き起こし、地面へと降ろした。

「とりあえず、お前はしばらく滑走の訓練を中心に練習だ。わかったな?」

「はい……」

「……あごの下、すりむけてないか?」

「え?」

 示された場所を指でたどると軽い痛みが伝わってきた。傷口に触れた指先がかすかに血で汚れている。

「保健室にいって消毒してもらってこい」

「……はい」

 小声で返事をするアルトに軽く頷くと、先生は並んで待っている生徒に向き直った。

「それじゃ、次は急ブレーキと姿勢制御の練習に移る! 全員中層階に移動! 用具係は予備の救護マットを用具室から取ってくること!」

 号令に従って去っていく集団。騒ぎを背中で感じながら、アルトは保健室へと歩きだした。

「ところで、ポテトってなに?」

 用具置き場に向かう生徒の群から、無邪気に尋ねる女の仔の声が聞こえる。その問いかけにアルトの心臓が、大きく脈を打った。

「『飛べないおちこぼれ』のことをポテトって言うんだってさ」

「変なの。なんでポテトなの?」

「しらね。どーでもいいし。早く行こうぜ」

 さざ波のような笑いを残して、彼らは去っていく。

 胸の奥で痛みになっている思いを、アルトはため息と共に吐き出した。

「ポテト……かぁ」


 あごの下に絆創膏貼り付けると、保険医であるヒューの女性はアルトの頭を軽く撫でた。

「はい、これでいいわ」

「ありがとう、先生」

「……細かいすり傷以外は、大きなけがもないようだし、落ちたときの状況なら頭を打っているようでもない。もう練習にいっても平気よ」

 白衣の先生は椅子に座り、笑顔を向ける。それでもアルトはそのまま立ち尽くしていた。

「どうしたの? まだ痛むところとかある?」

 どう言えばいいのか、少し迷った後アルトは口を開いた。

「先生……なんで僕、飛べないのかな」

「え? うーん……」

 投げかけられた質問に形のいい眉の間にしわが寄る。ドラゴンのものと違う、平らな顔に思案する表情が浮かんだ。

「ごめんね、いきなり言われてもちょっと思いつかないわ。何しろ先生はヒューだし」

 すまなさそうな、それでいて簡潔な返事にアルトは深々とため息をついた。

「今、どこか調子悪いところはある?」

「何も言われてないし、たぶん異常なしだったんじゃないかな……」

「そうなると、後は……」

「失礼しますっ!」

 妙に馬鹿でかい声とともにドアが開け放たれる。緑色の肌を持つドラゴンはアルトの姿を認めると軽く頷いてみせた。

「ケガのほうもたいしたことないようだな、アルト」

「は、はい」

「あら、ハワード先生もどこかケガを?」

「そういうわけではないんですが、アルトのことが気になって!」

 朗らかというより暑苦しい笑顔の教師に気付かれないよう、仔竜はそっとため息をついた。

 ハワード・リンデン。学校中の生徒からこっそり「ハウリン(吼える)」とあだ名されているこの先生は、アルトが最も苦手な相手の一人だった。

「ところで、先生と何を話していたんだ?」

「ハワード先生は分かります? アルト君が飛べない理由」

 保健の先生の言葉に、緑のドラゴンはにやっと笑った。

「成長期のせいですよ」

「成長期、ですか?」

「ええ。丁度アルトぐらいの歳だと、自分の翼と肉体の成長のバランスが崩れることが多いんですよ。翼を支える背筋力が未発達だったり、体重を支えられるだけの大きさまで翼が成長しきらなかったりすると、ちょっとした事で飛べなくなったりします……あとは『プネウマ』が集まりにくい体質だと飛ぶのが遅くなりますね」

「プネウマ……」

 その言葉を聞いた途端、ヒューの女性の顔に何かを探り当てたような表情が浮かぶ。デスクの上で付けっぱなしになっていた端末に向き直り、モニターに何かの情報を表示した。

「翼面生体電流、身長、体重……」

「翼面積と体脂肪率のデータも出してください……うん、少し体重が軽いか」

 二人の大人が陣取るモニターを隙間から覗き込むと、自分の顔写真と一緒にわけの分からない数字や文字が表示された。

「……異常なし、ですね。翼面生体電流の値も平均より少し高いくらいで問題なし」

「でしょう?」

 気落ちしたような保険医と満足そうなドラゴンの教師を見比べて、仔竜はもう一度モニターを眺めた。

「プネウマ、ってなんですか?」

「簡単に言えば、ドラゴンが空を飛ぶのに役立つ、空中を漂っている小さな粒ね。アルト君やみんなの翼には、ちょっとだけ電気が流れているのは知っているでしょう?」

 そう言われて思い出したのは冬の日のことだった。自分の翼をうっかり友達のテッドが触って、弾けた静電気でお互いひどい目に会った。

「その電気に引かれてプネウマが翼に付着する。そうするとドラゴンは飛びやすくなるの」

「翼に電気が流れていればプネウマは集まる。プネウマが集まっているならドラゴンは飛べるってことだ」

 がしっ、と仔竜の肩を掴むと緑色の体育教師は軽く体を揺すった。

「と、言うわけだからあんまり心配するな! 練習して、体が成長すれば自然と飛べるようになる!」

「……はい」

「ちゃんとご飯は食えよ。お前の場合は多分、筋力不足で翼が支えきれてないのが原因だ」

「がんばってね、アルト君」

 二人の教師に挨拶をして保健室を出ると、青い仔竜は少し大きめにため息をついた。

「ウソばっかり」

 誰もいない廊下に自分の声が虚ろに響く。

 成長期だから飛べない、このセリフはもう何十回となく聞かされていた。五年生の授業で始めて飛行練習用のポートから落ちたときから、六年生の夏休み目前に控えた今日まで。

 実際、アルト以外の仔竜たちはすっかり飛べるようになっているし、成長期という言葉にもある程度説得力はある。ただ、アルトには他の仔のような『成長』は起こっていない。

 もし成長が必要なら、自分は一体どこまで『成長』すれば飛べるようになるんだろう?

『さすがアルト、また落っこちてるよ!』

 耳の奥で蘇った嘲笑に仔竜の眉間にしわが寄った。

『あれじゃ、あいつ一生飛べないんじゃねーの』

 一生。

 アルトの背中を、その言葉が悪寒と共にはい回っていく。

 もし、本当に一生飛べなかったら。

「アルト!」

 唐突に掛けられた言葉に顔を上げると、廊下の向こうから走ってくる見慣れた姿が見えた。

「なんでテッドがここに?」

「みんなに聞いたら医務室に行ったって……なかなか来ないから見にきたんだけど」

 そばかすが目立つ色白のヒューの少年は、気遣わしそうにこちらを見つめた。

「大丈夫だよ。どこも異常なしだって」

「そっか。じゃあ、早く食堂に行こ!」

「テッドはもう食べたの?」

「一緒に食べようと思って待ってたんだ。もうぺこぺこだよ!」

 むぎわら色の短い髪を揺らして、先に立つテッド。その後に続きながら、アルトの足並みも自然に早くなる。気が付くとお腹の中から空腹を訴えるぐるぐるという音がしていた。

「よかった、まだやってるみたいだよ」

 扉の向こうから、騒がしさが漏れてくる。昼休みはかなりすぎているが、広い室内に備えられたテーブルのあちこちでたくさんの子供たちが食事を取っていた。

 ただ、配膳用のカウンターの前には誰もいない。給仕係のおばさんたちも手近な椅子に座って談笑している。カウンターの端からトレーを手に、二人は品定めを始めた。

「おばさん! ここにあったチキンソテーは?」

「ごめんなさいね。さっき全部出ちゃったのよ」

「なんだあ……」

 少し気落ちしたものの、テッドは白身魚のフライを手にしていたトレーに載せた。

「ごめんね。僕のこと、待っててくれたから……」

「いいんだよ。それよりも、ほら」

 止める暇もなく、アルトのトレーの上にフライが三つ放り込まれる。

「いいよ! そんなに入れなくて!」

「良くない。アルト、僕より食べないことだってあるだろ」

 次いで、スープやサラダ、マッシュポテトが大盛りにされていく。

「飛ぶのは体力使うって言うし、ちゃんと食べとこうよ」

「……そうだね」

 保健室での会話を思い出して、アルトは頷いた。


「やっぱりさぁ」

「なに?」

「僕、ドラゴンに生まれたの、間違いだったんじゃないかな」

 青い仔竜の一言に、友人はスープにパンを浸したままあきれ顔になった。

「またそんなこと言ってる」

「だけどさ、最下層から練習してるのは僕一人だけだし。飛べないし」

「だ、大丈夫だって! 太っちょのポルトだって飛べるようになったんだもん。あいつより軽い君が飛べないはずが無いよ!」

「そうかなあ……」

 持て余してしまった料理たちをスプーンの先でいじりながら、アルトは諦観と満腹から吐息を洩らした。

「本当に、そう思う?」

「うん。これからも練習していけば……」

『落ちたんだよ、また』

 その一言が、二人の会話を寸断した。

「これで、今年になって三十回近くは落ちてるぜ」

「そういや、六年で飛べないのって、あいつだけなんだってな」

 声の元を探るべく、アルトはゆっくりと首をめぐらせた。

 自分のいる場所から後へ三列目のテーブル。緑の肌を持つ仔竜が、栗色の髪の少年を相手に話し込んでいる。

「今日なんかさ、他の奴の飛行を見てから飛ぶように言われて、下層のポートで待たされてたんだぜ」

「なんつーか、悲惨の極致だな」

「で、一番最後に、ポルトが飛んだ後で落っこちてんだよ」

「それってさあ、先生もいい加減呆れてんじゃねーの?」

 苦笑混じりで少年は肩をすくめた。

「あのデブだって飛べるのに、やせっぽちのあいつが飛べないってどーよ?」

「だよなー。どうせならヒューに生まれてくればよかったのにな、あいつ」

「あいつら……」

 立ち上がろうとしたテッドの手を、アルトは素早く掴んだ。

「何するんだよ、君の悪口……」

「いいから、やめて」

 心臓の脈打つ音が、耳元で鳴り始めた。食物とは違う不快で重い塊が、喉を通って胃袋の辺りに降り積もっていく。

「夏休み明けには、お前らと一緒にサッカーの授業やってるかもな」

「うわー、すげー気まずいよそれ。俺、笑わないでいられる自信ないわー」

「おい、お前ら」

 赤い肌色を持つダンが、話し合っていた二人の間に首を差し入れた。

「いつまで喋ってんだよ。早くしないと、コート取られちまうぞ」

「わりぃ、今ちょっと――」

 緑の仔竜はそこで初めてこちらに顔を向け、半笑いを浮かべた。その表情に気が付いた少年も、アルトに目線だけを送りトレーを手に立ち上がる。

 そして、ダンはアルトの姿を見つけると、嫌な薄笑いを浮かべた。

「あいつのこと話してたのか」

「ああ」

 アルトのうろたえぶりを見つめて、ダンの顔が心底バカにしたような表情を浮かべ、こちらへ近づいてきた。

「よう。ポテト」

「な、なんだよ」

「お前、いい加減授業出んのやめたら?」

 いきなりの一言に頭の中が真っ白になって、体が動かなくなる。たっぷりと皮肉を込めた言葉に反応できたのは隣に座っていたテッドのほうだった。

「いい加減にしろよっ! なんでいちいちアルトに突っかかって来るんだよ!」

「めざわりなんだよ。こっちが気持ちよく飛んでるところでボトボト落っこちてさ」

「ふざけんな! そんな勝手な言い草があるか!」

 白い顔を真っ赤にして怒鳴るヒューの少年から慌てて身を引くと、まだ固まったままのアルトに向かって冷たい視線を投げた。まるで、汚いものでも見るように。

「じゃあな。今度から体育の時間は仮病でも使って休んでてくれよ」

 テッドが何か言うよりも早く、赤い仔竜と取り巻きたちが立ち去っていく。

 だが、入り口付近でもう一度振り返ると、食堂中に響くような声で宣言した。

「じゃあな、ポテトのアルト」

 その一言と一緒にひょいと手が上げられ、力なく落とされる。三人は爆笑しながら外へ出ていった。同時に食堂の視線のいくつかがこちらに集中し、ささやきやかすかな笑いが渦巻く。

「……な、なんだよ、あいつら!」

 テーブルに叩き付けた拳が、トレーの上からスープやサラダを飛び散らせる。笑った生徒を一渡りにらみ付けてテッドは顔を紅潮させた。

「あんなの、気にするこ……」

 友人の言葉が、尻すぼみに小さくなっていく。

 よっぽど、ひどい顔をしているんだろう。トレーに視線を合わせたまま、アルトはぼんやりとそんなことを考えた。

 白いマッシュポテトの表面は心なしか乾いて、黄ばんで見えた。


 校門前から続くなだらかな斜面は、オレンジ色の夕日に染められていた。

 昼間の暑さが残る坂道、アルトとテッドの脇を子供たちが駆け抜けていく。

「……あのさ、元気、出しなよ」

 道の左側は崖になっていて、そのはるか下にセドナの町並みが広がっていた。高層ビルの立ち並ぶオフィス街や大小さまざまな住宅街の上で、色とりどりの旗がはためき、風見鶏が揺れている。空を行く竜便が風向きを確かめられるように付けられた風向指示器だ。

「今すぐ飛べなくったって、後で飛べるようになればいいんだから」

 街の西に広がる海は夕日を浴びて金色に輝いている。その光景をバックに。荷物を運んでいるドラゴンが何人も飛び交っていた。

「先生だって、飛べるようになるっていってたんでしょ?」

 強い風が吹き抜け二人の髪を乱していく。凪の時間は終わり、夏の暑さが吹き降ろす山風と一緒に去っていった。

「それにしても、何でダンの奴、いつも君に突っかかってくるのかな」

「もう、いいよ、テッド……」

 崖の向こうの景色に顔を向けたままそう言うと、テッドは黙り込んだ。

 街のあちこちに、大小さまざまな塔が建っている。アルトが飛行練習をしたやぐらよりも大きいそれは、ランディングポートと呼ばれる飛行施設だ。星の引力など知らないような軽やかさで飛翔者たちが飛び出し、あるいは着陸するために戻ってくる。

 目をそらしたいと思いながら、それでも仔竜は見つめ続けた。

 やがて坂道は終わりを告げ、広い大通りに出た。二つ目の交差点を抜けたところで、テッドが脇道へ入っていく。

「じゃあ、また明日ね」

「……うん」

 去っていく姿を見送り、アルトはまた歩きだした。立ち並ぶビルから、沢山の人やドラゴンが吐き出されてくる。仕事が終わり、それぞれの思う場所へ急ぐ彼らの間を縫うように進む。

『今日なんかさ、他の奴の飛行を見てから飛ぶように言われて、下層のポートで待たされてたんだぜ』

『なんつーか、悲惨の極致だな』

 知らないうちに歩幅が狭くなり、早足になっていく。

『夏休み明けにはお前らと一緒にサッカーの授業やってるかもな』

『うわー、すげー気まずいよそれ。俺、笑わないでいられる自信ないわー』

 喉の奥に引きつったような痛みが生まれて、呼吸を荒くさせる。

『じゃあな、ポテトのアルト』

 弾かれたように、アルトは走りだした。

 身をかわしそこなった誰かが罵声を浴びせてきたようだったが、何も耳に入らない。

「どうして」

 うめくような呟きが喉の奥から漏れる。

「どうして、飛べないんだ」

 どこをどう通ったのか、アルトは家の玄関を通り抜けて、自分の部屋への階段を駆け上がっていた。ドアを閉め、荒い吐息をつくと、体を引きずるようにしてベッドの中に倒れこんだ。

 タオルケットに顔を埋め、きつく目を閉じる。

(どうしてなんだろう)

 それは、アルトがいつも問い掛けていることだ。

 どうして自分は飛べないのか。

 他の仔竜たちと同じように教えられ、自分も同じようにしているのに。

『踏み切り線の所にきたら体を前に倒し、翼を横に広げる。体を蹴りで前方に押し出したら、空中で翼を空のほうに向ける』

 だが、アルトは落ち続けていた。

 蹴り出した体は宙を滑るどころか地上へと導かれてしまう。何度繰り返しても、先生の言葉に耳をそばだて、他の仔竜たちの姿を真似してみても、すべての努力は無駄に終わっていた。

『どうせならヒューに生まれてくればよかったのにな、あいつ』

 ひどい嘲笑の言葉。だが、その言葉がゆるぎない事実のように何度も木霊した。

「アルト」

 少し心配気味な響きを含んで、階下から母親の声が届いた。

「どうかしたの?」

「な、なんでもない! テッドから借りてた本、探してたんだ」

「それならいいけど……ところで、今日はどうだったの? ちゃんと飛べた?」

 口の中から、唾が一滴のこらず干上がっていく。目を閉じて深呼吸をすると、うわずりそうになる言葉を必死に押し止める。

「も、もう少しだったんだけど、さ」

「そうなの……」

「先生はね!」

 今にも部屋にやってきそうな母親の気配を、アルトは大声で制した。

「今年の夏休み中には、飛べるだろうって!」

「ほんとに?」

「ほんとだよ!」

「それならいいけど……そういえばお隣のエリヤ君、郡大会の長距離翔選手に選ばれたそうじゃない」

「……そうなんだ」

 重苦しい気分が競りあがってくる。こちらの気持ちも知らないまま、声は言葉を継いだ。

「そうなんだ、じゃないわよ。ねぇアルト、もし飛べなくて困ってるんだったら、エリヤ君に

相談してみたら――」

「いいって! 大丈夫だから、余計なこと言わないでよ!」

 いらだったアルトの声を、少し大げさなため息が引き取った。

「……分かったわ。ご飯ができたら呼ぶから、すぐ降りてくるのよ」

「はぁい」

 足音が階段から遠ざかっていき、アルトは安堵して起き上がった。飛べないのを心配するぐらいなら、今すぐできるように教えてくれればいいのに。第一、エリヤはダンほどでないものの、自分のことを馬鹿にしている一人だ。

 そんな奴に教えてもらうなんて。いや、自分と同い年の仔竜に教わるなんて。そんなことをすればまたバカにされてしまうに決まっている。

 イライラした気分を吹き払うように、アルトは窓を開けた。暑さと淀んだ空気が充満する部屋が外気に洗われると、ようやく気分が落ち着いてくる。

 アルトは、ゆっくりと部屋の中を見回した。

 棚や窓のない壁を埋めるように貼られたポスター。そのどれもが、ライルを写したものだ。

 あるポスターでは二本の柱の間をすり抜け、別のポスターではジェットスポットの上を飛び越していく様子が映っている。

 やがて、アルトは部屋の勉強机に座り、パソコンのスイッチを入れた。薄い透明板でできたディスプレイが明るくなり、一枚の壁紙を表示する。

 チェッカーフラッグを横切るライルの姿。勝利の瞬間を切り取ったその画像を目に留めると、仔竜は画面の端にあるアイコンを軽く指で弾くまねをした。

 そのファイルには、こんなタイトルがついていた。

『ライル、二度目の総合優勝達成!』

 弾かれたファイルは、全画面表示の動画になって再生され始める。画面は黒一色になり、思い出したかのように映像を結んだ。

 淡い雲すらない青空、ほんの少し後にカメラが切り替わる。

『……抜けるような晴天が広がっております、秋のカルドリーサーキットです』

 高い位置から撮られた映像のため、表示された世界は見下ろす形になっている。その底に並ぶ観客席を背中向きの群集が埋め尽くしていた。

『全国のサラマンダー・ブレイズファンの皆様、こんにちは。サラマンダー・ブレイズワールドグランプリ、最終戦の模様をお伝えいたします』

 アルトの見つめる前で、新たな光景が画面に映し出される。四角く区切られた席の中に、スーツ姿の人とドラゴンが座っている。

『実況はわたくしIBCのアナウンサー、トリーネ・マルサラ。解説は元ブレイズプレイヤー<ライトニング>の二つ名でも有名なマリウス・ウォーベンさんにお越し願っています』

 紹介されたドラゴンの方が、軽く会釈をしてみせる。

 二つ名は優秀かつ特徴的な飛行スタイルを持つプレイヤーに付けられるものだが、年齢を重ねてつやを失った肌と、かなり横幅の広くなった体からは、その名前の由来になった痕跡も見出せなかった。

『さて、いよいよ今期最後のレースとなったわけですが、これまでの展開をご覧になっていかがですか?』

『そうですね。有力視されていたプレイヤーの故障や新人の躍進で、非常に目の離せないシーズンだったと思います』

 解説席から一転、スタートポートの屋上からの映像に変わり、十数名からなるドラゴンの集団が映し出される。体に密着した専用のスーツを身に着けた彼らは、翼を曲げ伸ばしたり、ヘルメットやゴーグルの位置を確かめたりして準備に余念がない。

 緊張し、強ばった表情を映していたカメラが、一人の選手をクローズアップした。

『ただ今、スタートポートの選手の様子をご覧になっていただいていますが、なんといっても今期一番の注目株は、彼をおいて他にないでしょう』

 青というより、藍色に近い肌を持つドラゴン。黒地を基調に銀のラインを各所にあしらったスーツ。胸元には<シエル・エアリアル>というロゴが書き込まれている。

『ライル・ディオス。若干二十一歳にしてグランドチャンプとなった彼が、二度目の制覇をかけ、今日の勝負に臨みます』

 突然、スピーカーから爆音が上がった。

 アナウンサーの紹介がジェットスポットから吹き上がる炎と、それに熱狂した観客の絶叫に一時かき消された。スピーカーから聞こえる音が、初めてサーキットを見たときのことを思い出させる。

『各選手がスタートラインに付きます』

 映像がスタートポートを見下ろす形になる。左肩上がりの台形に造られた金属の屋上、それぞれのドラゴンたちはポートの端、階段状に描かれたスタートラインの前に立っていた。

『全長五千メートル、総スポット数十五機。この世界最大のサーキットで繰り広げられる全二十一周の戦いの果てに、勝利を手にするのはいったいどの選手なのでしょうか』

 真横からの映像に切り替わり、姿勢を低くして身構えるプレイヤーが映し出される。

 その誰もがヘルメットを着け、ゴーグルを下ろしているために表情をうかがい知ることはできない。だが、彼らの意識はスタートラインの床に埋設された信号機に集中していた。

『シグナルが、オールレッドから……』

 真横に点灯する四つの赤いライト、それが右から順に消えていき、

『……今、グリーンに! 各竜一斉にスタートです!』

 左端から順に、色とりどりのドラゴンたちがポートを滑り降り、空へと舞っていく。

 大気の包容を全身で享受する、力みのない優雅な飛翔。観客席の前を、一群となって突き進んでいく。

『スタートはアクシデントもなく、ほぼ団子状態のまま。ホームストレートから一番チェックポールに差し掛ります』

 ホームストレートの果てに、高くそびえる二本の柱。その間で待ち受けるジェット・スポットの轟音。打ち合せたように集団の誰もが首を下げ、金属の火口へと向かっていく。そこを通過した途端、ドラゴンたちはスポットからはるか斜め上空へと猛烈な勢いで吹き上げられた。

『おおっと! ここで……』

 ジェット・スポットに後押しされた数名のプレイヤーが、後続を引き離していく。

『集団を一歩抜きんでる形で飛び出したのは、アイケイロスのフリッツ・マイゼン。次いでシュツルムドラッツェのリヒャルト・ジンガー、シエル・エアリアルのライル・ディオスと続きます』

 左前方に次のチェックポールを認め、ドラゴンたちの体が左へと傾いていく。その姿を映し出すカメラの前をライルの姿が一瞬、通り過ぎた。

『現在、先行しているフリッツは総合ポイントが三十四、もっとも優勝に近い存在。その後を追うプレイヤーも、ほぼポイントの順に並ぶ形となっています』

 三番チェックポールは進行方向の右手、ちょうど四番チェックポールと直角に交わる形で据えられている。

 その二つのポールが作り出すカーブに侵入する寸前、ドラゴンたちは一斉に体を右に傾斜させ、ほぼ垂直になりながらコーナーを飛びすぎた。

『三番、四番チェックを各選手、見事にスルー』

『今日のカルドリーは無風快晴ですからね。かなりアグレッシブに攻めていけますよ』

 おもむろに、アルトは動画を先に進めた。

 この先しばらくはライルが出てこない。出てきたとしても、ずっと三位か四位くらいに居続けるからだ。

 流れすぎていく映像。早められた時間の中で、何人かのプレイヤーが別のカーブを曲がりそこね、勢いを殺しきれずにコースから離脱していく。

 再びアルトの手が、時を緩やかにした。

『……もありますが、彼の場合バラストを付けることで、余計な煽りを……』

『っとぉ! これは!?』

 眉間にしわを寄せて、アルトは小さくうめいた。

 テレビ画面の向こうでは、ライルが一人のプレイヤーに接触して、大きくコースを外れていく様子が映し出される。

『ライルが十三番チェックポールに差し掛った瞬間! 周回遅れのレグナンをスルーしようとしたわけですが……』

『これは……どう見てもレグナンが入れ込みすぎですよ!』

 今度はジェット・スポットから上を見た映像が、スローで流れる。ライルの腹側の方へと、赤色のドラゴンが割り込むように侵入していく。

 下からの突き上げを受けて、衝突しそうな勢いで迫る体を、青いドラゴンはなんとか全身を捻って避けた。

『映像でも、レグナンの体はポールのエンドラインを割り込んでますね』

『ええ。これは明らかにポイントをマイナスされますよ!』

「そうだよ」

 心底むっとした表情でアルトは頷いた。

「ジェット・スポット内じゃ、エンドラインより下からの追い抜きは禁止じゃないか」

 お互いは衝突こそしなかったものの、赤色のレグナンは翼を骨折して地面のネットへ。ライルも勢いを削がれて、後続に抜き去られていく。

『……どうやら持ちなおしたようですが、八位まで順位を下げたライル・ディオス』

『この状態からの挽回は、そうとう難しいですねえ』

 解説者の言葉に、仔竜は苦笑した。何度も見ているはずなのに、この場面になるとついむきになってしまう。

 いつのまにか握っていた拳を開いて息をつくと、アルトはじっとその時を待った。

『先行するアイケイロスのフリッツ・マイゼン。それに食らい付き、追い抜こうとするリヒャルト・ジンガー……と、ここでライルがピットに入るようです』

『さっきの接触で、どこか痛めたんでしょうか……』

 スタートポート下に造られたピットへと、青い姿が消えていく。

 カメラが切り替わりピットの中で水分を補給しているライルを映し出す。さっきの接触で破損したゴーグルなどのパーツを交換し、レース再開の準備が整えられていく。

 藍色の素顔には緊張はあっても焦りは感じられない。

 強い意思を秘めた瞳が、大きく開け放たれた出口だけを見つめている。

『換装が終了し……いまスタート!』

 滑り込むようにして、ホームストレートに入りこむ青い姿。エンドラインを割りそうな勢いで、第一ポールへと突進していく。

『さあ、先行者に大きく水を開けられた形になったシエル・エアリアルのライル・ディオス。この状況で、どこまで順位を上げることができるのか』

 実況の一言が終わると、画面は先頭の映像へと返っていく。白い肌のフリッツと、それを追い上げる褐色のリヒャルトの姿。

「でも、ここから何とかしちゃうんだもんな」

 うれしさと驚きが胸の奥でうごめいて、くすぐったいような気持ちになる。

「やっぱり、ライルはすごいよ」

 その呟きに応えるように、画面が切り替わった。

 大回りしてポールをやり過ごしたプレイヤーの内側を、鋭く切り裂いていく青い影。

 急旋回によって失われた高度をスポットで補給し、大気を貪るように次のポールへと飛び去っていく。

『第十ポールを抜けたところで、七位へ……っと!?』

 速度を落としてイン側に抜けていくプレイヤーの脇を、アウト側のポールに接触しそうな速度で転進していく。

『ライル、ものすごい追い上げ! 十一番を通過して順位は五位へ!』

『彼、すごい強気で攻めてますよ!』

『十二番から十五番までのアッパースポットを、より高度を求めるように飛んでいきますライル・ディオス!』

 ホームストレートとの高低差を造り出し、落下による加速力を得るために、他の物よりも段階的に高度を高めてある最終スポット群。その一つ一つが、彼をはるかな高みへと押し上げていく。

 十五番ポールに印された高度百メートルの線。そこを割った瞬間、彼の姿は青い颶風となって、地上へと落ちかかった。

『ここでライルの十八番、【ライトニング・フォール】が炸裂! 四位のアーウィンを……今、抜きさった!』

 思わずアルトの顔が画面にぐいっと近づく。スポットのあおりを利用して行う、危険域ぎりぎりの強烈な急降下と急加速。開設席のマリウスが現役時代に好んで使い、二つ名の元になったその技は、ライルのもっとも得意とするテクニックだった。

 先行していたはずのプレイヤーを置き去りに、ホームストレートを飛び過ぎていく。

『すでに先頭集団は射程圏内! 開いてしまった空隙を埋めるかのように、猛然と肉薄するライル!』

『これは相当、さっきのニアミスが腹に据えかねてますね! 冗談じゃない、こんなところにいてたまるかって感じですよ!』

 大写しの画面になったとき、先頭のドラゴンたちの姿の後に、ライルの姿が映りこむようになっていた。                         

 カメラのアングルが、次第に青いドラゴンの追い上げの様子に集中してくる。

「そうだよ、そこの隙に……ああ、もう! 邪魔だよタイレル……」

「……ルト……アルト!?」

 その一言で、仔竜は動画を一時停止した。

「な、なーに?」

「もうご飯だって、さっきから呼んでるでしょ! 早く下りてきなさい!」

「はーい! すぐ行くから!」

 声にしたがってアルトは腰を浮かし、動画を消そうとした。

 だが、彼の指は止まった時を溶かし、早送りを実行する。

「これだけ見たらね」

 座りなおした仔竜の前で、移り変わっていく場面。その中で、青いドラゴンは次第に順位を上げていく。

 そして再生。

『……すところ、あと二周! 依然、テールトゥノーズのままホームストレートを抜けていく二人!』

 フリッツの白い尻尾に食らい付きそうな位置で、ライルの飛ぶ姿が映っている。

『おや!? ここで少しづつ、フリッツとの差が開いてきています!』

『中盤の追い上げが、かなりきてるんでしょう!』

 三番のポールを過ぎたところで、白い姿との差はライル自身の身長ほど離れていた。

『奇跡の追い上げも、もはやこれまでか!? 今、十一番を抜き、最終コーナーへ!』

 もう、何回もこのシーンを見ただろう。この後ライルはフリッツの後にぴったりと付いたまま、百二十メートルの【ライトニング・フォール】を決めるのだ。

『まさか、この高さからやるつもりなのか!? フリッツとの差は約五十メートル!!』

「行けっ」

 ぎゅっと拳を握り締め、アルトはその瞬間を見つめた。金網越しに見たあのサーキットのときのように。

「行けっ、ライルっ!」

『来たっ! 来た来た来たーっ! ものすごい勢いで青い稲妻が降ってくる! ライル・ディオス、電光石火のトップスピードで、今っ、ゴぉーーッル!!』

「やったっ!」

 アナウンサーの叫びとともに、思わずアルトの喉からも歓声がほとばしる。

 その数十秒後、アルトはかんかんに怒った母親の鉄拳で、呻き声を漏らすことになった。


「最低だよ、もう」

 学校へ向かうべく坂道を登りながら、アルトがぼやく。傍らを歩くテッドが苦笑しながら頷いた。

「でも、しょうがないよ。ご飯だって言われてるのに行かないのが悪いんじゃない?」

「そんなこといったってさぁ。もうちょっと待っててくれてもいいのに」

 アルトにとっては、ライルのビデオを見る時間は誰にも干渉されたくない時間だ。それが、ポートからみっともなく墜落して、母親から小言を貰った後ならなおさらだ。

「最低だよ、もう」

「それなら今日、うちに来て見る? 先週のイヅモサーキットでやったレースもあるし」

 ずれかけた肩掛けのカバンを直しながら、仔竜は少年に軽く頭を下げた。

「ありがと、テッド」

「そういえば、もう買った? 『ブレイズ・ファン』」

「あ……」

 校庭を歩きながら、隣を盗み見るように尋ねてみる。

「今日、持ってきてる?」

「うん。先生が来るまで、読んでていいよ」

 笑顔で頷くテッドに、アルトの顔も自然とほころんでくる。

(帰りに、何かおごってあげよっと)

 そんなことを考えながら玄関ホールを抜け、教室までの廊下を歩いていこうとした。

「ねえ、掲示板の所、みんな集まってるよ」

 服の袖口を引っ張り、テッドの指が群衆を示した。

 ドラゴンやヒューが入り混じった集まりは、張り出された大きめの紙を見つめ、口々に感想を述べている。

「なんだろうね?」

「さあ?」

 連れ立って近付いていくと、ちょうど全てを見おわったらしい二人のドラゴンが、集団から抜け出てきた。

 と、彼らはそっとアルトから顔を反らし、足早に駆け去っていく。

「……くすっ……」

 かすかな笑い声が、耳の中に妙な感じで張りついた。

「ねえ、アルト……」

「なに?」

「見て、あれ」

 テッドの視線の先、掲示板に貼られた紙を見つめ、仔竜はその意味を理解しようとした。

「……夏期休暇中、水泳教室のお知らせ……八月一日より九月三十日までの期間、月曜日から金曜日の週五日間、全校生徒を対象とした水泳教室を行ないます……?」

「違うよ。その隣」

「……夏期休暇中……」

 呟きはそこで止まり、喉の奥で濁った音になる。

 


夏期休暇中、飛行技能訓練のお知らせ


 期間:八月一日~九月三十日

 対象:全校生徒(希望者に限る)

 時間:午前十時~正午


 ・夏期休暇中、校内の施設を利用しての飛行技能の訓練を実施します。

  実施期間中は、技能の習熟度合いに応じてクラス分けをしますので、

  参加者は申し込み用紙を担任から受け取って、自己の記録や状態を

正確に記して提出してください。

                                 

 アルトの耳に、さっきの笑いがよみがえっていた。

「アルト?」

「い、行こう。授業に遅れちゃう」

 それだけ言うと、アルトは急いでその場を離れようとした。周りの全てが自分を見つめているような気がして、早く抜け出したくてしょうがない。

「おい! お前も出んのか? 飛行訓練」

 だが、背中から浴びせられたダンの声に、青い仔竜の足は痺れたように動かなくなった。

「下級生に混じって、一からオベンキョかよ、ポテト」

「……か、関係ないだろ」

 振り返ると、赤い仔竜は顔をそびやかせて、こちらを見ていた。

「ま、やってもムダだから来ないほうがいいぜ。それに俺の練習の邪魔だ」

「そうだな。ダンはラグーンレースの調整もかねてるし、目障りなお前がいかけりゃそれだけやりやすいさ」

 そばに立っていた緑色の仔竜の言葉にダンは薄い笑いを浮かべ、鷹揚に歩み去っていく。

「じゃーな、ポテトのアルト!」

 その場に立ち尽くしたアルトの手を、白い手が掴む。

「行こう」

 少年に手を引かれながら、青い仔竜は本物の好奇の視線から必死に意識をそらすことだけを考えていた。


「……アルト」

 人気の無い階段の踊り場。テッドはそこでようやくアルトの手を放した。

「出なよ、飛行訓練」

「……え?」

「悔しくないの? あんなこと言われて」

 いつになく真剣な顔で、少年はこちらに詰め寄った。

「出て、ちゃんと飛べるようになって、あいつらを見返してやるんだよ!」

「で、でも……」

「でも、じゃないよ! 先生だって、練習すれば飛べるようになるって言ってたんでしょ?」

 眉間にしわを寄せて、アルトは黙りこくった。

 たしかに飛べるようにはなりたい。だが、今の自分が申し込み用紙を提出したら、下級生に混じって練習しなくてはならないのだ。

「……そんなの……」

「そんなの……って、なに?」

「う……」

 脳裏にある光景が鮮明に浮かび上がった。小さな下級生に混じって飛翔口に並ぶ自分。不思議なものでも見るような、小さな視線にさらされて腹から落ちていく自分。降ってくる笑い声とダンのあざけりを浮かべた顔。

(そんなの、恥ずかしいよ)

 うつむいたアルトの物思いを破ったのは、テッドの深いため息だった。

「ごめん。なんか急に言いすぎた」

「……」

「でも、申し込みはしておいてもいいんじゃない? 嫌なら……行かなくてもいいんだし」 

改めて、アルトは目の前の相手に向き直った。

「ね?」

 テッドは唯一、自分のことを馬鹿にせずに付き合ってくれる友達だ。そして、いつもアルトのことを考えてくれていた。そんな相手の真剣な提案を、否定することはできなかった。

「……わかったよ」

 アルトはゆっくりと頷いた。

「先生の所にいって、申し込み用紙もらってくる」

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