5.Answer
率直に言って私は驚いた。
――捕獲済み。[モルチュアリィ通りで起きた事件の翌日]、ブローニュの森にて。大型で茶褐色のオランウータン。身元の明確な所有者が、捕獲および引き渡しまでの飼育費用の実費払いに応ずれば返却する。――
朝刊に載っていたこの記事の最後に、私とムッシュの暮らすこの屋敷の住所が書かれていたのだ。
ムッシュはと言えば、ジャムを食べながら先に朝刊に目を通すと、それを私によこして満足げにどこかへ出かけてしまった。私は悶々としながら数時間を過ごし、昼頃に返ってきたムッシュを早速、問いただした。
「どういうことだい、ムッシュ。オランウータンなんてどこにいるんだ?」
興奮して尋ねる私を見て、ムッシュは可笑しそうに微笑んだ。
「それはこれから警察に探して貰うつもりだよ。まだパリのどこかにいるだろう」
そう言うとムッシュは椅子に腰かけ、カップにミルクを注いでから砕いたイチゴを放り込み美味しそうに飲み始めた。
「……この記事、これは君が依頼したんだろう? いったいどういうことか説明してくれよ。私はてっきり、君が拾った物証の落とし主をおびき出すための記事だと思ったのだが?」
「そうだね。実に惜しい。僕はこれの落とし主の落とし主をおびき出そうとしたんだよ」
そう言ってムッシュが懐から取り出したのは、茶褐色の獣の毛だった。
「それは……!」
「オランウータンの毛さ。僕も実物を見るのは初めてだったがね、動物学の本で読んだ通りの特徴だ。それよりも、僕宛てに何か郵便物が届かなかったかい」
そう言いながら思い出したかのように立ち上がり寝室に消えてゆくムッシュに、私はテーブルの上の手紙を拾い上げ持っていった。ムッシュが帰る直前に届いたものである。
「ああ、よかった。いいよ。君はそれを持って座って待っていてくれ。何ならコーヒーでも淹れておくがいいさ」
私は悠長にコーヒーなど淹れている気分にはなれず、リビングに戻ると椅子に座ってムッシュを待った。その間に私は郵便を眺めたが、別段変わった様子はなく、届け主は私の知らない男であった。
「さて、見せてもらおうか」
ムッシュは一冊の本を持ってすぐに戻ってくると、自身も椅子に座って手紙の封を開けた。手紙にさっと目を通すと、同封されていた一枚のスケッチをテーブルの上に広げ、それから動物学の本をぱらぱらとめくった。その間に私はスケッチを見てゾッとした。それは恐らく原寸大の首のスケッチだろう。指の跡のようなものが描かれているのを見るに、カンガーリュ嬢の首のスケッチに違いない。
「あったあった。さて――」
ムッシュはさらにカップへミルクとイチゴの破片を入れると、ビンに少しだけ残ったミルクを直接飲み干し、空になったビンにスケッチを巻きつけた。それがちょうど少女の首のような太さで、私は余計に恐ろしくなる。
「さあ、この指の跡に君の手を当てて見て欲しいんだが」
ムッシュに言われ、私は気が進まなかったが指の跡に手をあてがった。紙越しに瓶のひんやりとした感触が伝わってきてぶるっと身震いした私は、どう頑張っても指の跡に自分の手をあてがえないことに気づいた。
「これは、随分と大きな手だね……」
「ああ。そうしたら次は、これを見て欲しい」
そう言ってムッシュがさし出したのは、先ほど寝室から持って来た本だった。そこにはオランウータンの詳細な説明が書かれており、手に関しての記述もあった。それによれば、オランウータンの手はヒトのようではあるが、ヒトのものよりもずっと細長いのだという。実際にスケッチも描かれているが、なるほどこれはヒトのようでありながら、手の長さはその倍以上もあった。
私はムッシュに言われるまでもなく双方のスケッチを見比べる。
「似ているだろう? そうだろうと思って、至急ミス・コアーラの首のスケッチを原寸大で送って貰ったのさ」
昨日の帰りに守衛に頼んでいたのはこれだったのかと私は思った。
「さあ、もうわかっただろう。人間離れした怪力と非情さ、我々には理解できない動機で動く不可思議さ、どこの国の言語かわからない奇妙な声、そして窓から外へ出ることのできる身軽さ。以上のことから僕は犯人の正体がオランウータンではないかと仮説を立てた。そして、それをこの毛が証明したというわけさ」
「……」
私はにわかには信じられないその真実に驚嘆し、何も言うことが出来なかった。
突拍子もない話ではあるが、論理的で辻褄はあっている。想像もしなかった真実ではあるが、そう言われてしまえばそれ以外ないように思える結論だ。納得する以外に選択肢はなかった。
「……じゃあ、事件の翌日の新聞に載った毛むくじゃらの怪物の目撃情報は、恐怖による見間違いではなく」
「ああ。逃げ出したオランウータンだったのだろう。まあ、怪物の目撃情報としては見間違いだったわけだがね」
ムッシュはそう言うと少しの間をあけてから、不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、詳しい
その日の夕方、目的の男性は現れた。
男性は体格のいい船乗り風の男で、気の強そうな面構えをしていたが愛想はそう悪くなかった。
「これはこれは、どこからお出でになったんですか?」
「……サンロック街の、辺り、です」
「それはまた遠いところからよくいらっしゃいましたね。まあ、オランウータンなんてそう手に入るものじゃあない。当然でしょうな」
「まあ……。それで、アレはここにいるんですか?」
「いえいえ、流石に家には置いておけませんから。なに、明後日にはお渡しできるんじゃないですかね」
「それはまた遠いところにいますね」
「オランウータンなんてそう簡単に世話できる動物じゃないですからね。逃げ出してもいけないですし、ああ失礼。いや、普段の世話はさぞ大変だったことでしょうな。ご苦労お察ししますよ。それはそうと、身元を証明できる物はお持ちで?」
「ええ、もちろん」
「それはよかった。お手間を取らせて申し訳ないが、アレは貴重ですからね。いや、今さらになって手放すのが惜しくなってしまいましたよ。ハハ」
「もちろん相応のお礼はさせて貰いますよ。お手間を取らせたんですからね」
「そうですか。そいつはよかった。では何を頂こうかな。そうだ、アレがいい。アレしかありませんな」
「アレ?」
「ええ。貴方の知っていることを全て教えて頂きたい。モルチュアリィ通りの殺人について」
男を真っ直ぐと見つめムッシュはそう言ったかと思うと、ゆらりと席を立ち部屋の鍵を閉めた。そしてぼろきれのような白衣の中からピストルを出すと手でもてあそんで見せた。
男はすぐに全てを理解し勢いよく腰を上げたが、観念した様子で再び席についた。その顔は真っ青で、心なしか震えているようにも見える。私は男を気の毒に思った。
「安心してください。貴方が殺したなどとは私も思っていませんし、私は貴方に何の恨みもないのです。ですが、真相を我々の言葉で話せるのはもはやこの世に貴方しかいないでしょう。私が貴方をこのような手立てで呼びだしたということは、どういうことだかわかりますね。このまま何も語らないのであれば、それは貴方自身の紳士たる名誉をも貶めることになりますまいか。今、あの事件の容疑で無実の男性が罪に問われようとしているのですから。貴方はそれでも真実を黙り通すおつもりですか?」
ムッシュの優しくも強い口調を受けて、男はしばしの沈黙の後、意を決した様子で顔を上げた。
「ここまできたら、もう全てを話しましょう。信じて貰えるかはわかりませんが、私は何もしていないのです――」
――それは要約すると、こんな話だった――。
前回の航海でインド諸島を訪れた男はボルネオへ上陸した折り、気晴らしに仲間と散策し、二人でオランウータンを捕まえたらしい。しかし、その後の航海で友は死んでしまい、オランウータンは男一人の財産となった。なかなか手におえない動物ではあったが、航海も終わり、なんとかパリの自宅まで連れ帰ったという。早々に金に換えたいところではあったが、船上では逃げないようにと足に棘を刺していたため、その傷が治ってから売ることにしたという。
事件のあった夜、他の船乗りたちと酒を飲んで帰ってくると、どうやって納屋を抜け出したのかオランウータンが部屋にいたのだそうだ。手には包丁を持って、どうやら料理の真似事をしているらしかった。男はそっと鞭を出してきてオランウータンに近づくと、いつものように鞭で大人しくさせようと試みた。しかし、オランウータンは鞭を持った男の姿に気がつくと、こともあろうに部屋を飛び出してしまったのだという。
包丁を持ったオランウータンが外に逃げ出した、その事実に男はすっかり酔いもさめて青くなった。急いで追いかけたが、オランウータンは足が速く、遥か前方で時々立ち止まって男の様子をうかがっては、また走って逃げだすという追いかけっこがしばらく続いたという。寝静まった街で誰とも出くわさないのがせめてもの救いだと男は思ったそうだ。
そうこうしている内に悲劇は起こった。オランウータンがカンガーリュ夫人の邸宅の裏庭に差しかかったのである。彼――という呼称が正しいかは置いておくとして――は四階の窓が空いているのに気がつき、信じられない身軽さで立派な木を登ると、窓の中へと飛び込んだのだ。
男はといえば、もう逃がすまいと邸宅の入口へ向かおうとしたが、その間に窓から逃げられたらたまらないと思い、迷った末にそこで待っていることにした。しかし、一向にオランウータンが出てくる気配はない。男は心配になり、オランウータンには劣るものの屈強な肉体を駆使して何とか木を登り邸内の様子をうかがった。
その時だった。すさまじい悲鳴が周囲に響いたのは。男は危うく木から落っこちるところだったという。今にも震えそうな手で体を支え身を乗り出すと、男は窓の中をのぞきこんだ。扉の枠に縁どられその全貌は見えなかったが、床に書類が並べられているところを見ると整理でもしていたのだろう。悲鳴があがったのは今さっきだ。オランウータンが入った時は窓に背を向けていて、風が窓を叩いたとでも思ったに違いない。
オランウータンは最初、殺す気など毛頭なかったのだろう。しかし、夫人に騒がれて怒ったらしく、急に狂暴になり包丁を振り回した。それはすぐにノドを切り、オランウータンは夫人の首をまな板に乗せた野菜でも切るかのように扱い、その後で顔に噛みつきむさぼった。さらに最悪な事態が起きる。オランウータンが顔を上げた時、恐怖のあまり失神していた娘の腕がピクリと動いたのだ。すっかり興奮した猿は娘の上にのしかかると、今度はその首を締め、またも顔面に食らいついたのである。
男は恐怖で硬直していたが、
男はその頃やっと気が確かになり、何とか声を振り絞ってオランウータンを大人しくさせようとしたという。しかし、興奮したオランウータンは夫人の死体を引っ掴むなり男に向かって来て、こともあろうにそれを窓から投げてきたのだ。もちろん人間の身体がそんなに飛ぶわけもなく、夫人の死体は舗装された裏庭に落下したらしいのだが、男は目下で人間の身体が壊れる様を見せつけられて戦慄し、もうオランウータンがどうなるかという心配などかなぐり捨てて逃げ帰ったのだという。すべてが悪い夢だったのだと言い聞かせて布団をかぶり、震える夜を過ごす内に眠りについたそうだが、次の日目が覚めても納屋にオランウータンはおらず、新聞を読んで絶望したと男は言った。
オランウータンはその後、警官たちが部屋に入る前に、再び窓を通じて外に逃げたのだろう。
気が動転していたので細部は異なるかもしれないが、これが自分の知る限りの、モルチュアリィ通りの事件についての真実であると男は話を締めくくった――。
その後、ムッシュと私は男を連れて警察に赴き、事の真相を話すこととなった。無実の罪で拘留されていたアドルフは無事に釈放され、今回の事件の犯人であるオランウータンも第二の事件を起こすことなく捕獲された。事件の犯人であるということは伏せられ、高値でパリ植物園に引き取られたようだ。
ムッシュは全てが片付いた後で、もう一度あの邸宅を訪れて花を供えた。
「ミス・コアーラは絞殺された時、意識が無かったようだね。苦しむことなく召されたのであれば、せめてもの救いだ……」
彼の悲しそうな横顔を、緑の香る風が慰めるように撫でていった。
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