第九章 - Ⅲ
ミオリ、ヒメノが倒れたふたつの夜。僕は、本当に久し振りにクレインと分かれて就寝した。理由は簡単で、クレインが家に戻るなり早々と眠ってしまったから。彼女が側にいて、背中合わせで眠るのが当たり前のように思っていた僕は隣にあるはずの温もりを感じずに、少なからず焦りを覚えた。自分からクレインのベッドに入るのは気が引けた。ただ、今なら。
「……」
クレインが眠るソファの隣に、彼女を起こさないように腰掛ける。目前の彼女を見据えた段階で、ふわりと香る仄かな花の香り。甘く、それでいて心地よい。髪と同じ、そのきめ細やかな肌も、雪のように白い。触れたらきっとしっとりと、絹のような柔らかさをもって迎えてくれるはず。
不意に、その唇に目を奪われる。小さな桜色のそれは、適度な潤いを保っているようだ。
――ベッドの中で、キスをした。彼女は、その意味を理解していなかったけれど。
自分の唇に指で触れる。まだ、あの一瞬の冷たさと温かさが、脳裏に焼き付いている。目を閉じていたため、彼女がどういう表情で僕に口付けたのかは分からない。でも、執行兵である彼女がその意味を分かっていなかったとしても、僕にとっては大切なファーストキスだった。思い出して、胸の奥がカッと熱を持つ。
「最初は、成り行きだったけどさ」
クレインに届くか届かないか、そんな瀬戸際の声量。そう、僕は文字通り、執行兵とヒドゥン、ディカリアの戦いに巻き込まれたただの一般人。いつの間にか、世界を滅ぼされるかもしれない危機に瀕してしまってはいるものの、彼女たちが上手く人間の記憶を操っているためか、僕の日常は彼女たちの存在以外、ほとんど変わらない。
そんな一般人の僕でも、ヒドゥンの弱点を捕捉できたことで奴らに襲われやすかったり、自分でもよく分からないうちに当事者のひとりになっていた。僕の前にいて、いつでも身を挺して護ってくれたのは、目の前にいるクレインだ。
最初に助けてくれたあの日。天使のような姿のクレインと会わなかったら、簡単に終わってしまっていたかもしれない僕の人生。そういう意味では、クレインには感謝しなければならない。
寝食を共にし、少しだけ非日常が混じった生活を重ねていくうち。どんな場面でも意識してしまったクレインの姿。言動が厳しいことはもちろんあるが、それでも、彼女の奥に秘めた優しさを垣間見る機会もあった。
――タカトはさ、クーちゃんのこと、好きなの?
ミオリの言葉がフラッシュバックする。あのとき、僕は「側にいて落ち着く存在」と言った。実際、こうしてクレインの近くにいると落ち着く。同時に心臓が高鳴ってきて、どちらの感情が本物なのか、区別がつかなくなる。
自らの感情に対して困惑した僕だったが、ただひとつだけ、確実なことが言える。
僕は、クレインが好きだ。
いつからかは分からない。ただ、出会って一緒に暮らす過程の中で、自然と惹かれていったことは確かだ。
高鳴る胸の鼓動を感じながら、僕は彼女の白磁のような手に指を滑らせ、握る。柔らかな手は、僕の手よりも冷たい。数多のヒドゥンとの激しい戦いを繰り広げてきた手からは、力の強さなどは感じない。
人間と執行兵。そもそも、彼女たちがどんな存在なのか、僕には見当もつかない。人間ではないといっても、こうして僕たちの日常に溶け込んでいるのだから、彼女たちの一番近くにいる人間である僕にとっては「人間」と呼んでしまって差し支えないように思える。
執行兵と人間の関係が続くか否かは分からない。クレインかアミナか、どちらかが倒されたらそれで終わりなのかもしれない。ただ、僕は。最期の瞬間まで、クレインと一緒にいたい。そう、強く願っている。
「ん……あれ、タカト?」
それから、しばらくの時間が経った。夢の世界に誘われていたクレインが、目を覚ました。未だに彼女の手を握っていた自分を思い出し、それをパッと離した。
「あ、クレイン。おはよう」
瞳を擦りながら僕の姿を認識するクレイン。手を握ってしまったことに気づかれていないだろうか、と彼女の表情を窺う。寝起きでは普段のコンディションを発揮できないクレインは、小さな欠伸を繰り出した後、僕を青い瞳で見つめた。
「あなたが側にいてくれたのね。ホノカじゃなくて、あなたが。おかげさまでゆっくり休むことができたわ」
「いや、僕は何もできてないけど」
「ううん。こうして側にいてくれるだけでいいの。ひとりは辛いから」
アミナによって、ルーシャさんを失ったクレイン。「ひとりは辛い」という言葉が、彼女の心情を映し出しているようだ。同じベッドで眠っているのは、僕をヒドゥンから守るため。ただ、今回は違う。僕の方から、彼女の領域に入っていった。それでも彼女は受け入れてくれた。そんな彼女に返せる言葉が見つからずに、頬が熱を持っていくのを隠すように、僕は返答した。
「そっか……まだ明るいから、ゆっくり寝ても大丈夫だよ」
「ありがとう。でも、あなたがこんなに近くにいると、とても眠れそうにないわ」
「あ、やっぱり迷惑だよね? そうしたら、僕は――」
ソファから立ち上がろうとしたところで、彼女に軽く服の袖を掴まれた。困惑する僕を再びソファに引き戻すと、クレインは更に僕との距離を詰めてきた。彼女の温かさが、柔らかさが、より近くで感じられる。
「え――?」
「眠れなくても、落ち着くことはできるわ。だから、もう少しこのままでいさせて?」
とん、とクレインの頭が肩に触れた。彼女と同じソファに座ったそのときから鳴りやまない心臓が、破裂しそうなくらいに脈打っている。クレインに聞こえないよう、陰で深呼吸を試みるも、上手く息が吸えない。彼女に対する想いが重なって、どのような言葉を掛けてよいのかすら分からなくなる。
けれど、やはり気持ちがせめぎ合っている。心のどこかでは、この状況に落ち着きを覚えている自分が確かに存在していた。まだ経験したことのない、好きな人と一緒にいるという状況は、こんなにも満たされるもの。それを理解することができた。
「クレイン」
「ん、何?」
名前を呼んだはいいものの、次の言葉が浮かばずにしばしの沈黙が訪れる。
「ごめん。呼んだだけ」
「変なタカト。でも不思議ね、あなたに名前を呼ばれるだけで、心地いいなって思える私がいるの。あなたは、一緒に戦ってくれた。私を励ましてくれた。感謝をしないとね」
「そんな、僕は当たり前のことをしただけだよ。最初は巻き込まれただけだったかもしれないけど、これだけ君たちのことを知ってしまったら、もう後戻りはできないし」
「そうね。本来なら、あなたは私に殺されていたはずだもの。私たちの情報を持つ人間は排除、それが執行兵の掟。ただ、私の目的のためにだけ生かした。そんな私に協力をしてくれたんだから、あなたも相当な変人よね」
「変人って……」
「嘘よ。それも昔の話。今は……前に比べたら、あなたも少しは頼れる人間になっていると思うわ。だから、最後の最後まで付き合ってもらうから。途中で奴らに付いたりしたら、本当に許さないわよ?」
そんなことは神に誓ってもあり得ないと首を横に振る。僕の仕草に、クレインの口元が微かに緩んだ気がした。同時に、僕の肩から彼女の温もりが離れていく。そのまま立ち上がって、腕を伸ばすクレイン。
「んー……ッ、さあ、少し早いけど夕食にしましょうか。ホノカは二階にいるのかしら? ちょっと呼んでくるわ」
「ん、分かった」
クレインが階段を登る足音を聞きつつ、僕もソファから立ち上がる。彼女との会話は、本当に束の間の出来事。ただ、今でも僕の胸は、高鳴りを止めない。
こんな時間が永遠に続けば、それ以上の幸福は要らない。そのためにも、目前に控えているディカリアとの戦いに、勝たなければいけない。
僕にできることは限りなく少ない。ただ、クレインを信じることはできる。そう、強く拳を握った。
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